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75パーセント

作者: 鰯田鰹節

75パーセント






夕暮れの足は早い。あっという間に夜がきて、世界をしんとさせる。

そこに雨なんか降ったら、もう、世界の終わりみたい。私しか、ここにいないみたい。

ううん、嘘。

彼がいる…。


雨が降っても、雷が鳴っても、どんな天気の日でも、彼は毎日予備校の自習室に来た。

この予備校は受験生に優しい。

朝は8時から、夜は22時までやっている。


彼のことは、つい最近知った。

数学科? 物理科?

とにかく理系を目指しているらしい。

本当に知らなかったけれど、噂によれば、全国模試でも上位らしい。


クン…と嗅いでしまう、彼の匂い。

自習室で、隣の席に彼が座った時の、匂い。

何の匂いなんだろう、わからない。

わからないけど、妙に心地いいニオイ。

なんだか、美味しそうなニオイ…?




ガクッと気温が下がり、冬物のコートをあわてて出した頃、模試の成績も返ってきた。

パッとしないどころか、希望すら見えない判定だった。


ーやだよ。

ーやだ、嫌だ。

ーこのまま、志望校に落ちるのは嫌だ。


恐怖だった。


「推薦とれたからさ。」

「総合型でなんとか〜。」

「一般入試、頑張る感じだよ。今のままならいけるかなー。」


怖い…。

周囲のそんな会話が聞こえると、耳を塞ぎたくなった。私だけが落ちるのかと不安で仕方なかった。


その、周りに置いていかれる感じは、海に立つ様に似ていた。

波が足元から砂をさらっていく。

私はめまいを起こしそうになるのをこらえて、立ち続ける。

何度も何度も、繰り返し、波は私ごと沖へとさらっていこうとする。

ザァァッと、砂が持っていかれるたび、私の足は少しずつ砂浜に埋もれる。


下へ…

ずっと下の方へ…


体が重く、沈み込む感じがしてくる…。

暗い暗い海と、重い重い力に引っ張られて、身動きができない…。



ハッと気づいたら、彼が右隣の席に座っていた。

クンと香る彼の良い匂いで、目が覚めた。

どれくらいの時間、ボーッとしていたんだろう。

こういう時こそ、集中しなきゃと気を取り直して、私はシャーペンを握り直した。




しばらくしてから、今度は彼がコックリと船を漕ぎ出した。

横目でチラッと見てみたが、だいぶ疲れているようだ。

顔色が悪い。閉じた目の下にうっすらクマが出来ている。

真ん中分けの前髪がユラユラ揺れて、額に影を作っていた。

ほんのわずかに開いた唇は薄く、綺麗な形をしていたが、真っ白だった。

蛍光灯が、パチパチ…と小さく音を立てて、一瞬だけ微かに点滅した。


「ん…。」


身じろぎした彼の学ランが、ちょっとだけ形を崩して、胸ポケットの中を私に見せた。


ー何の箱…? お菓子…??




「キーンコーンカーンコーン…。」

閉館を告げるチャイムが鳴った。忘れ物のないようにと録音のアナウンスが流れた。

どうしよう。

彼が起きない。

周りの人たちは気にも止めず、次々と帰り支度をして自習室から出ていく。


「あ…、あの。」

声をかけてみたが、スウスウと寝息を立てている。

まるで陶器のような滑らかな肌に、スッと伸びた鼻筋。眉は自然なアーチを描いている。

なんて綺麗な顔をしているんだろう。


「あの…大丈夫? 閉館時間だよ。」

もう一度、声をかけた。

「ん。」

彼はパチッと目を開けた。

「うわ、ごめんね。眠くてさ。」

フワァとあくびをしてから、彼は机の片付けを始めた。

ホッと胸をなでおろし、私も静かにリュックにノートや参考書をしまった。


「家どこ?」

彼がバッグを肩にかけながら聞いてきた。

スラッと背が高い彼と目を合わせるために、私は彼を見上げなければいけなかった。

「えっと、そこの、コンビニ曲がったところのマンション…。」

「送るわ。」

「いいよ、悪いよ。」

「いや、迷惑かけちゃったし。こんな遅くに女の子1人で、帰せないっしょ。」

ー女の子…。

突然の女の子扱いに、カァッと顔が赤くなった。


コンビニの前で、彼は、

「ちょっと待ってて。」

と言い、すぐに会計を終えて出てきた。

「起こしてくれて、ありがとね。」

いちごミルクのジュースとビターチョコだった。

ビターチョコは、長方形の手のひらサイズの箱で、一片ずつ個包装されたタイプだった。

「これ…胸ポケットに入れてるやつ…?」

「え、なんで知ってんの?」

「さっき寝てる時、見えちゃって…。」

「うわ、恥ずい。そう、これ、勉強のおとも。

ミルクより、俺こっちのが好きなの。」


そんな会話をして、私たちはバイバイした。

別れの挨拶の後、マンションのエントランスの前でコッソリと振り返る。

背を向けて帰っていく彼の吐く息が、何度か白く立ち上っていた。なんだか切なくて、鼻の奥がツンとした。




自分の部屋に戻ってから、ビターチョコをひとつだけ食べてみた。


ー『カカオ75パーセント』かぁ…。


チョコレートは食べるが、こんなに甘くないチョコは買ったことすらなかった。

食べたことのないほどの苦味や独特の酸味が口の中に広がった。

鼻に抜けるカカオの濃い香りが、彼の匂いと重なった。


ーあ、これの匂いだったんだ…。


箱ごと残りは机の引き出しにしまった。

手元に残った金色の包み紙を優しく撫でると、カサカサと可愛い音がした。


「よし。あと少しだけ、やろ。」


ヘアゴムで、キュッと髪をひとつに束ねた。

私はリュックから問題集を取り出して、机に向かった。


もらったいちごミルクのジュースにストローをさして、ひとくち飲んでみる。

さっきのビターチョコの苦さが、いちごミルクのフンワリとした甘さで緩和されていく。


舌に残る75パーセントの苦味をいちごミルクで溶かしながら、私の夜はシンシンと更けていった。


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