『京の五条の橋の上のプレスマン』
後白河院の御代、大きな戦がありまして、源義朝公は奮闘むなしく、お敗れになってしまいました。義朝公は、家臣の裏切りに遭ってむなしくなられ、義朝公のお身内はことごくお捕らえられになりました。御嫡男の頼朝公は、お命をとられるところを、平清盛公の継母に当たる池禅尼が命ごいをなさって、伊豆に流罪となりました。
義朝公の御側室の常盤御前も、お子様たちと一緒におとらえられになり、清盛公の前に引き出されました。常盤御前は大層美しい方でしたので、清盛公も哀れに思し召して、母子のお命をお助けになったのでした。
常盤御前は清盛公の御側室となられ、数え八歳の今若丸は醍醐寺、数え六歳の音若丸は円城寺に、数え二歳の牛若丸は後に鞍馬寺に入れられました。
人の一生のうちには、大切な人との出会いというものがございます。人生の方向を大きく変えるような出会いです。牛若丸の場合、それは、鞍馬山に住む天狗との出会いでした。鞍馬山の天狗は、牛若丸にさまざまなことを教えてくれました。武芸全般、鞍馬寺の外の世界、そうして、牛若丸が源氏の御曹司であること。
数え十五となった牛若丸は、武芸その他において天狗を上回るようになり、僧になる気もありませんでしたので、鞍馬山を下りることにしました。
京の都では、辻斬りが横行しているといううわさでした。五条にかかる橋に、夜な夜な山伏があらわれて、誰彼構わず斬りかかってくるとかこないとか。
牛若丸は、都に知り合いもおりませんし、しなければならないこともありませんし、とりあえず、このうわさの真偽を確かめに、夜になったら五条の橋に行くことにしました。
夜になりました。八百年も前のことですから、電灯がついているわけではありませんし、暗いのです。日が暮れてしまうと、もう寝るしかない、そういう時代のお話です。
牛若丸は、大きな男が、橋の上にあらわれたのが見えました。山伏の格好をして、なぎなたを持っています。橋の真ん中で、通せんぼをしているような格好です。でも、誰も通りません。多分、辻斬りが出るからと、都の人たちが、夜歩きを控えているからだと思われます。
牛若丸は、天狗譲りの身の軽さを生かして、欄干の上に立ちました。山伏は、武蔵坊弁慶と名乗り、ある願かけをしたために千人斬りをしていること、千人斬りをしたあかしにプレスマンを集めていること、牛若丸が千人目であることを明かし、間を詰めてきます。大きく振りかぶったなぎなたが力いっぱい振り下ろされたとき、牛若丸は橋の反対側の欄干に飛び移りました。弁慶はもう一度なぎなたを振り下ろします。牛若丸はもとの欄干に飛び移ります。何度も何度もこの攻防が繰り返され、疲れ果てた弁慶がなぎなたを振りかぶるのを諦めると、牛若丸は、なぎなたに飛び移って、持っていた扇で、弁慶の額を軽く打ちました。
弁慶は、ここへきて恐れ入り、牛若丸に名を尋ねました。牛若丸が、源氏の御曹司であることを告げると、弁慶は、涙を流してひれ伏し、家来になることを誓いました。牛若丸も、源氏再興のためには、家来が必要でしたから、快くこれを許しました。弁慶は大いに喜び、これまでに集めた九百九十九本のプレスマンを、牛若丸に献上しました。
随分後の話になりますが、後白河院が、義経と名を改めた牛若丸がを重用した理由、兄頼朝と仲違いすることになった理由、奥州藤原氏の頭領秀衡が、実施の泰衡ではなく義経を総大将にしようとした理由は、義経が持っている大量のプレスマンを、後白河院も、頼朝も、藤原秀衡も、ねらっていたからなのです(諸説あります)。
頼朝に攻められ、奥州藤原氏は滅びますが、義経は大陸へ渡り、ジンギスカンになったというのも、大量のプレスマンがあったればこそです。ジンギスカンの旗は、真っ白な旗だったそうですが、これは、原文帳をあらわしていると言い伝える村が、北海道にあるとかないとか。
教訓:いいなぁ、九百九十九本のプレスマン。