淀んだ水に潜むモノ
カラ領の南端、最後の目撃証言のあった場所は低い山に囲まれた盆地だった。
その盆地には低木が茂り、大きな沼地が午後の光を反射している。
報告書では目撃者の男はその沼に魚を獲る為、訪れたらしい。
その若い男の話によると昔から怪物を見たという者は何人もいたが、姿をハッキリ見た者はおらず、男も見間違いだと高を括っていたそうだ。
怪物が現れるのは雨の後等、きまって盆地に霧が発生する時できっと光の加減だと男は思っていたのだ。
しかし男は立ち込める深い霧の向こうに、巨大な影と光る二つの目が動いているのを見てしまったらしい。
その光る目に見据えられた男は恐怖に駆られ、取るものも取りあえず這う這うの体で逃げ帰ったそうだ。
「はぐれなら、わざわざ姿をさらすとか意味が分かんねぇな……隠れる為に幻影でワザと注目を集めるとかか?」
「幻で沼に目を向けさせ、自身は別の場所で身を潜めておるというのか?」
「うーん、それならそれで何もせずに隠れてりゃいいようなもんだけどよぉ……」
「ふむ……本当に怪物がおるのやもしれん」
「報告書じゃ影は小山ぐらいはあったって言うぜ……もし本物ならヤバいんじゃねぇか?」
「ローグの操る岩の巨人も対処出来た。今回も何とかなるじゃろう」
「……楽観的だなぁ伊蔵は」
そんな事を話している間に、ベラーナの翼は目撃情報の場所へと二人を運んでいた。
短く硬い草に覆われた岸辺の土は粘土質で、どうやら沼地は水はけが悪く雨が溜まり出来上がった物の様だ。
伊蔵達が降り立った岸部の水深は浅いが、中央部は淀んで確認し辛いがかなり深そうだった。
「どうも、すり鉢に水を溜めたような感じじゃの」
感想を言う伊蔵の横でベラーナは報告書に目を落とし空を見上げる。
空は青く、薄い雲が流れていた。
「雨は降りそうにねぇなぁ」
「仕方ないの……」
伊蔵はおもむろに装備を外し、服を脱ぎ始めた。
「まさか潜るのか!?」
「待っていてもしょうが無かろう?」
「……俺は幻影じゃねぇかって思ってるけど、ホントにデカいのがいたらどうすんだよ?」
「はぐれ魔女であれば話は出来る筈じゃろうし、襲って来る様なら黙らせるだけじゃ」
「はぁ……もう少しのんびり行こうぜ」
「そう言う訳にはいかん。儂は一刻も早くフィア殿の願いを叶え、魔法を持って国に帰りたいのじゃ」
話ながらも伊蔵は服を脱ぎ、装備を下ろした背嚢にまとめると、背中に刀、腰に苦無を数本装備して沼へと足を踏み入れた。
「国ねぇ……伊蔵、渡した時言ったがそのナイフはホントヤベぇから、近くで弾けるような使い方すんなよ」
「承知した」
ベラーナに答えながら伊蔵は沼の中心へと足を進め、やがて泳ぎ始めた。
「まったく、せっかちな奴だぜ……」
ため息をついたベラーナは背嚢を抱えると、翼を広げ伊蔵を追った。
「伊蔵、俺は沼の上で飛んどくからよ、ヤバくなったら水面に逃げろ、引っ張り上げてやるからよぉ」
「うむ、頼りにしておる。では行ってまいる」
伊蔵は細かく息を吸い込み肺に空気を満たすと、淀んだ水の中に姿を消した。
「ホントに潜りやがった……大丈夫かねぇ……」
それから五分程が過ぎた。
伊蔵が潜る時に立てた波紋もとうに消え、水面は風で静かに揺れるのみ。
「まさか……食われた?」
暗い水の底、巨大な怪物が伊蔵を飲み込む場面を想像し、ベラーナの心に一抹の不安がよぎる。
沼の上を旋回しながらベラーナはしばし淀んだ水を眺めた。
見通せない暗い水面は悪い方へと想像の翼を伸ばす。
「仕方ねぇ、俺も……」
ベラーナが飛び込もうと羽根を広げたと同時に水面が盛り上がり、大きな何かが水しぶきを上げた。
「何だこいつは!?」
あんぐりと口を開けるベラーナの横を、怪物に弾かれた伊蔵が通り過ぎる。
「伊蔵!?」
水面の上を滑り岸部で体勢を整えた伊蔵はベラーナに向かって叫んだ。
「離れろベラーナ!! こやつは危険じゃ!!」
「はぐれ魔女じゃねぇのか!?」
振り返ったベラーナを青いの鱗を持った巨大な蛇が見下ろしていた。
“後わずかで完全に肉体を生す事が出来たというのに邪魔しおって……”
輝きを放つ金の瞳がベラーナを射抜く。
その二つの輝きを見たベラーナの背中を怖気が走り抜けた。
「こいつは……もしかして……実体化したのか……?」
“ほう……血は薄いがお前も同族のようだな。だがこの世界をいただくのはこのシュガナよ、見つけたついでだ消えてもらうぞ”
「ヤベッ!?」
ベラーナが踵を返したのと同時にシュガナと名乗った蛇は口から紅蓮の炎を吐き出した。
炎は蛇の周囲で渦を巻き沼地の水を沸騰させ大量の霧を発生させる。
沼はまるで温泉の様に泡立ち、水面には無数の魚が浮いていた。
「伊蔵あれは魔女じゃねぇ!! 悪魔だ!!」
「悪魔じゃと!? しかしカラはこちらにはこれぬと!?」
「そん時足掛かりとか言ってなかったかよ!? 俺達魔女はあいつ等がこっちに来るための通り道みたいな物なんだよ!!」
「ではあの怪物が……」
「とにかく話は後だ、逃げんぞ!!」
「いや、拠点の近くにあんな化け物がおったのでは落ち着いて反乱なぞ出来ぬ」
背中の刀を抜いた伊蔵を見て、ベラーナは呆れと驚きがない交ぜになった表情を浮かべた。
「馬鹿か!? 勝てる訳ねぇだろ!!」
「戦う理由は反乱だけでは無い、あやつは世界をいただくと言うた。それはこの国という意味ではないじゃろう?」
「多分そうだろうがよぉ……」
「では止める他あるまい」
「クソッ!! なんでよりによって俺がいる時に!!」
心底嫌そうに吐き捨てたベラーナは、雄たけびを上げ人の可聴域を超えた爆音を放った。
音は衝撃に変わり周囲の霧を一瞬で晴らす。
その晴れた霧の先、巨大な蛇が首をもたげ伊蔵達に視線を向けた。
喉が膨れ上がり炎が二人に襲い掛かる。
「伊蔵乗れ!!」
「うむ!!」
伊蔵を乗せたベラーナが上空へ逃れた直後、炎は一直線に伸び沼の周囲の低木を一瞬で灰に変えた。
「……やっぱ無理だって……逃げようぜ」
「蛇が炎を吐くとはのう……」
「んな事言ってる場合じゃねぇだろ!?」
「……ベラーナ、あやつを沼から引きずり出す、力を貸せ」
そう言った伊蔵の心はカラと戦った時と同じ、いやそれ以上の万能感を感じていた。
「こりゃあ、あん時の……分かった! 絶対仕留めろよ!」
「任せよ。負ける気がせぬわ」
伊蔵に流れ込む力を感じ取ったベラーナは翼を広げると、空高く上がり、こちらを見上げる蛇に向けて一抱え程もある赤い閃光を浴びせかけた。
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