東の暮らし
ルマーダの東から逃げ出した魔女、アナベルは柔らかな寝具の中でまどろみから覚めた。
最初に見えたのは薄明りに照らされた白く塗られた天井だった。
ここは何処だろうとぼんやりと考えていたアナベルは、思考が定まると自分が攻撃を受けた事を思い出し勢いよく体を起こした。
周囲を確認するとベッドの横では赤い肌の女が椅子に座り船を漕いでいた。
その肌の色と攻撃を受けた事から考えて、この女は悪魔と結んだ魔女。つまり敵という事で間違いない筈。
アナベルはゆっくりと呼吸をして自分の心を落ち着けると、眠っている魔女を起こさないようそっとベッドから降りた。
改めて部屋の中を見渡す。
部屋の中には暖炉が据えられ、ベッドの横にはサイドテーブル、床には毛足の長い絨毯が敷かれていた。
サイドテーブルの上には水差しとコップ、そのコップにはスプーンが入れられている。
壁には燭台が並び、薄暗く部屋を照らしていた。
内装の雰囲気からすると恐らくは身分の高い者の屋敷だとアナベルにも推測出来た。
残念ながらアナベルが抜けられるような大きな窓は無く、明り取り用の小さな窓が壁に並んでいるだけだった。
窓の外は暗く今は夜だという事が窺えた。
観察の結果分かったのは、出入り口は船を漕いでいる女の後ろの扉一つだけという事だった。
体を確認すると身に着けていた武器や防具、それに靴は見当たらないが軍服は脱がされていない。
防具は無理としても武器と靴ぐらいは欲しかったが、贅沢は言っていられない。
今は脱出する事を考えるべきだろう。
そう考えたアナベルは小さく詠唱を唱え、自らの体に不可視の魔法を掛けた。
完全に見えなくなる訳では無いが光を歪め周囲から身を隠す、その魔法のおかげで彼女は戦場から逃れる事が出来たのだ。
アナベルとしてはあのまま西の国境を超え、国外に逃げたかったのだが流石にそれは無茶が過ぎたようだ。
息を殺しゆっくりと歩き始める。
赤い肌の魔女は完全に眠っている、その眠った魔女の横を通りドアへと近づく。
ドアノブに手を掛け音を立てないように慎重に扉を開けた。
カチャリという音に心臓が跳ね上がるが、熟睡しているのか魔女が起きる様子は無かった。
ホッと息を吐き、薄く扉を開けると顔を出して周囲を窺う。
その喉元に突然黒いナイフが突きつけられた。
「ヒッ!?」
「それがベラーナが話していた見えなくなる魔法か?」
驚きで魔法が解けたアナベルを黒髪の男が興味深そうに見つめていた。
「素直に部屋に戻るのであれば、此度は見逃す」
「クッ!」
アナベルはドアノブを握った手を男に魔法を放とうと突き出した。
だが、突き出した手は男に絡め取られ、引き寄せられる様に宙を舞い強かに床に打ち付けられる。
「グッ!?」
「妙な真似は止めよ。次やれば首を落とす」
「……」
「ふぁあああ……」
アナベルが床に叩きつけられた音で目を覚ましたのか、部屋から大きな欠伸が聞こえた。
「ん? 白魔女がいねぇ!? 逃げやがったか!? ……って、何やってんだお前ら?」
ドアから赤い肌の魔女が顔を出した事で、アナベルは逃げ出すという選択肢を放棄した。
■◇■◇■◇■
観念し部屋に戻ったアナベルの前には、赤い肌の魔女ベラーナと黒髪の男伊蔵の姿があった。
ベラーナはベッドに腰かけたアナベルの前に椅子を置き背もたれを抱える様に座り、伊蔵は扉に背を預け腕を組みアナベルを窺っていた。
「さてと、んじゃ、取り敢えず名前を聞かせてもらおうか?」
「……アナベルです。階級は一等士、所属は中央攻撃隊、第十五師団第八大隊」
「あー待て待て。階級とか所属は聞いてもよく分かんねぇから、いい」
「……」
「それよりお前の目的を教えてもらおうか?」
「目的……ですか?」
首を傾げたアナベルにベラーナは頷きを返す。
「ああ、わざわざたった一人でこんな辺境まで忍び込んで来たんだ。なんか秘密任務とか命令されてんだろ?」
「秘密任務……」
秘密任務と言われても、アナベルはただ抑圧された東の暮らしから逃れたい一心で逃げ出しただけだった。
ルマーダの東、天使たちと契約を交わした白き魔女が支配する土地では住民に自由は無かった。
十二歳になると各地に作られた神殿に集められ、御使い、つまり魔女の資格があるか試される。
神に選ばれれば御使いとしての力を授かり地上で神の為戦う戦士となる。
選ばれなければ戦士を支える者として、一生を労働に捧げ子を成し増える事が使命とされた。
御使いとなった者はその殆どは神の熱心な信奉者となり、感情を失って彼の為に命を落とす事さえ厭わなくなる。
だが、アナベルはそうはならなかった。
人の心を持ったまま戦い続ける事はアナベルには苦痛以外の何物でも無かった。
それでも反抗せずに命令に従っていたのは一重に家族の為だった。
アナベルの階級は御使いでも最下級の一等士だ。
実入りは少なく上級の者達と比べれば雀の涙だったが、信徒と呼ばれる選ばれなかった人々達よりは、はるかに贅沢な日々を家族達に送らさせる事が出来た。
だが、父が病で死ぬと母は別の若者と結婚させられ、姉も上が決めた相手に嫁ぐ事になった。
全てが管理された東側では女も男も子を成す事が目的で無理矢理結婚させられる。
姉はそれが嫌だったのだろう。
逃げ出した彼女は御使いに捕まり、反逆者として公開処刑された。
そして反逆者を産んだ母も捕らえられ投獄された。
アナベルだけは家族の為、上官の命令に逆らわず模範的に活動していたからか咎めを受ける事は無かった。
やがて獄中の生活がたたったのか、母親が死んだ事をアナベルは監獄からの手紙で知った。
もう耐えられなかった。
しかし逃げようとしても東側の国境は上位の御使いたちが固めている。
脱走しようとしているのが見つかれば、即反逆者だ。
逃げるには西側、戦場のどさくさに紛れるしか方法が無かった。
幸いと言うべきか、彼女が授かった力は姿隠しだ。
敵の目も味方の目も欺く事が出来る。
アナベルは前線勤務を希望し、その希望は程なく叶えられた。
簡単に転属が通ったのは、反逆者が家族から出た事実を払拭する為だと上官は思ったからかも知れない。
そんな訳で希望通り前線部隊十五師団に送られた彼女は攻撃の最中、姿をくらませる事に成功した。
「……に黙り込んでだよ? おい、聞いてんのか!?」
「はっ、はい、聞いていませんでした!! 申し訳ありません!!」
「お前よぉ……いいか、もう一度聞くぜ? お前の目的は何だ? スパイなのか?」
「……違います。私は逃げたかっただけです……自由が欲しかった……」
「ふむ、脱走兵という訳じゃな」
「脱走兵ぃ? 白魔女がかぁ?」
ベラーナの声には信じられないという思いがアリアリと浮かんでいた。
それもそうだろう。基本白き魔女は上位者の命令には絶対に従い、裏切る事は決してない。
敗北を悟ると情報を漏らす事を恐れ自身に魔法を使い自決する者さえいる。
そんな話を聞いていたし、持ち回りで前線の防衛についた時、実際にそういった場面をベラーナも目撃していた。
「珍しい話では無かろう? 農兵等は怖気づいて逃げ出す事は茶飯事じゃし、侍にも腰抜けはおる」
「そりゃ人間の話だろ。白魔女は神様の言う事なら何だってする、いわば狂信者だぜ?」
「あの……」
「何だよ?」
おずおずと声を発したアナベルにベラーナが顔を向ける。
「その……私は選ばれても強く神を想う心が湧かなかったのです。たぶん反逆者なんだと……」
「反逆者だぁ? いいか、神も悪魔も関われば心を支配しようとする。多分お前はそれを跳ね除けただけだ。反逆者じゃなくて“はぐれ”なだけだろ」
「はぐれ……ですか?」
「なんだよ、東じゃそんな事も教えてくれねぇのか?」
「はい、神の御心に沿わない者は全て反逆者と……」
「んな訳ねぇだろ……」
ベラーナは椅子の背もたれに顎を乗せると右手を上に向け肩を竦めた。
「はぁ……西もまともじゃねぇが、東もそうとういかれてんな……まぁ、いいや。伊蔵、嬢ちゃんを呼んで来いよ。とにかく血だけでも頂こうぜ」
「血!?」
目を見開いたアナベルの驚きを他所に伊蔵はベラーナに淡々と告げる。
「今度は居眠りなどするでないぞ」
「わーってるよ」
「お主も下手に逃げよう等と考えるでないぞ」
「それよりあの血ってどういう!?」
ベラーナと伊蔵を交互に見てワタワタと両手を上下させるアナベルの質問には答えず、伊蔵はもたれていたドアを開け部屋を後にした。
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