本当の姿
「また君か……狼森 怜……」
「ふん。また、で悪かったですね、ハモンド侯爵様」
ハモンド侯爵はアオイの頬に添えていた掌をそっと下ろし、まるで盗られまいかと言わんばかりにぎゅっと抱き締めた。
「る、ルイ様、苦しいです……」
ルイの胸で籠もるアオイの声。
怜の姿を見せないようにでもしているのか。だがハモンド侯爵の優しい香りは、アオイにとって、やはり落ち着く香りだった。
とても安心する香り。
「ごめんね、今は君を離したくないんだ」
その優しい声も、アオイに向けられたものだったが、目線だけは違う。睨み合う男たち。
「……侯爵様、貴方ではアオイを満足させられませんよ」
「なに……?」
実に真剣な怜の瞳。いつもの悪戯に笑う顔は何処へ。
ルイは怪訝な瞳でお返しした。
「貴方が見たことないアオイを私は知っている。人には見せられないような、恥ずかしい姿をね」
「どういう意味だ」
「そ! そうよ……! どういう意味よ……っ!」
ハモンド侯爵の胸に埋もれ抗議するアオイ。
その反応に、ルイには見せない愛しい微笑みを浮かべる100年に一度の色男。
ルイの眉は対照的に、より皺が寄った。
「どういう意味かだって? それはアオイが一番分かっているんじゃないか?」
「ふぁい!?」
間抜けな声を発するアオイは今一度思い返した。
自分の恥ずかしい姿なんてあの時しかない。ベッドの上で暴れ浴衣がはだけまくったあの時しか。
そう。怜が山犬に“戻り”初めての朝のこと。思い出すだけで恥ずかしい。
「い、い、いやアレはだって怜が……! そのっ! 無理矢理っ……!」
「無理矢理? 何か酷いことをされたのかい……!?」
「え!? いや、酷いって程でも……、いや、酷いといえば酷い……!?」
頭隠されど耳隠れず。
男二人はアオイの赤く染まる耳先をしっかりと確認した。
「はっ! 全く。アオイはナニを想像しているのか……」
「へ!? じゃ、じゃあ何の事言ってるのよ……っ!」
「分からないのか? 本っ当に病気だな」
「はい!?」
まるで恋人同士が戯れ合っているような。
『私の胸の中に居るのに』
じわじわ抑えきれない苛立ちが沸いてくる。
『この男と何が違う』
『見た目の好みか』
『優しいだけでは駄目なのか』
「………何が、足りないんだ…」
ぽつり──、呟いた。
必死に彼女を離さまいとしているハモンド侯爵に、精一杯の優しさで、いい加減教えてやろうかと、犬は口を開いた。
「何が足りないかって?」
「え?」
「侯爵様には一生、補えないものですよ」
「……何だって?」
お前は何なんだ何様なんだと、ルイの瞳は云う。
けれど、侯爵という立場も、その瞳も怖くないのは、愛する人がラモーナの姫だからか、それとも己が獣だからか。
「聞いたことあるでしょう? 狼森の山犬の話」
「子供達に聞かす御伽話だろう? それが何なんだ」
「それ、私の事なんですよ」
「……は?」
ニヤリと、己の白い歯を舌でなぞる。
犬歯は鋭く尖り、エメラルドは獣の目付きに変わる。
纏っていたスーツは毛皮になり、ビキビキと音を立て骨や関節が変形してゆく──。
抱き合う二人を飛び越え、真正面から睨めば、目を離せず固まったハモンド侯爵の顔。
「貴方に足りないもの、分かりましたか?」
「な、なに……、お前は……」
ふと、抱き締めていたハモンド侯爵の力が弱まった。その隙きにハモンド侯爵の胸から逃れるアオイ。
足りない酸素を補うと、目の前には愛しきもふもふ。なんてこったパンナコッタ。目の前にもふもふを置かれたら飛びつかないわけには行かぬだろう。
「あッ、アオイ……!」
危ない──! と、引き止めようとしたハモンド侯爵の手は、アオイには届かなかった。
「私の可愛いもふもふ〜〜……!!」
そう言いながらアオイは、ルイが見たこともない表情で目の前の恐ろしい獣に抱き付き、先程まで自分が触れていた頬をぐりぐりと獣に押し付けている。
「え、」
「あっは〜〜! かわいいかわいい私のもふもふ。なんって可愛い!!」
困惑するハモンド侯爵に、「これが貴方に足りないものですよ」と怜。
獣の姿で意地悪く笑う狼森 怜は、誰が見たって恐ろしいだろう。けれど、出逢ってから、可憐に美しく妖精のようだと思っていたアオイが、そんな恐ろしい獣に抱き付いて、頬擦りまでしている。
今まで己が抱いていたイメージとは全くの別人。
「アオイ……?」
「すーはー、すーはー、はぁ良い臭い。すーはー、すーはー、はぁ犬臭い!」
「お、おい、嗅ぐな……」
「ぁああぁ〜〜! 耳可愛い! ねぇねぇねぇはむはむして良い? ねぇ耳はむはむ!」
「して良いかの前にもうしているじゃないか……! 止めろ……!」
「んあぁあ〜……!! はむはむはむはむ」
一体何を見せられているんだと眺めるしかないハモンド侯爵と、首にしがみつき暴走しているアオイ。
なんだか恥ずかしくなって、「ま、そういう事だ……」と人間に戻った。
アオイはというと、はむはむしていた犬耳が突然人の耳に変わったので奇声を上げて離れ、「そ、そういうのは良くないと思うなァ……!!」なんて台詞を吐くのだが、勝手に人の耳をはむはむする奴には言われたくない。
ふんっ、とそっぽを向くアオイに、ハモンド侯爵は苦笑いするしかなかったのだった。