水芭蕉の花言葉
水芭蕉の咲く中庭のベンチ。その空間は二人だけのもの。
目の前の噴水が心地良い水音を立て、空気を浄化している。アオイの荒い呼吸もだいぶ落ち着きを取り戻してきた。
時折、警備で見回っている騎士の甲冑の音が響く。
ハモンド侯爵の肩に預ける自身の身体。心置きなく任せられる安心感。その包容力は、まるで家族みたいだ。
「どう? 気分は落ち着いた?」
アオイの紅い唇に掛かった髪の毛を整えながら、ハモンド侯爵は心配そうに問い掛ける。
「はい、お陰様で。すみません、ご心配をお掛けして……」
「謝ることはないよ。誰もが心を乱していたんだから」
そうですねと、寂し気な瞳と微笑みで、アオイは返事をした。
「ルイ様は……、良かったんですか……。私なんかに構ってる場合ではないのでは……、」
レベッカ王妃の暴露によれば、ハモンド家は倉本家によって領地に何か問題を起こされたらしい。
家紋の梟が特徴的なハモンド家。当主になったばかりのルイには頭の痛い暴露だろう。
「いいや。そんなことは無いよ。レイド様も仰っていたが今日は神聖な日だ。そもそもアオイの方が大事だろう? 体調が優れないお嬢さんを放っておけないよ」
「…………優しいんですね、本当に」
茶色の瞳に包み込まれる。
温かくて、心地の良い空気。これほど優しい人はそう居ない。
アオイは感動のあまり瞳を濡らしてしまった。
あの大ホールには醜い感情が犇めきあっているのに、その醜さに自分は勝手に気分を悪くしたのに、ましてや隣に座る男性はターゲットにされたのだ。
それなのに他人であるアオイに、優しく気遣う。
彼の優しさに浄化されていくようだった。
ハモンド侯爵なら迷いの森に入っても迷う事はないだろう。
本当に善い人だと、潤んだ瞳で彼を見つめた。
ルイは思わず、アオイの頬に掌を添える。親指でそっと、撫でるように、頬の感触を確かめた。
アオイは雰囲気を察し、ハモンド侯爵の肩に預けていた体重を戻そうと身体を起こした。
だが、そのまま押し倒されてしまった。
反射的に後ろに手を付いたアオイ。
目の前にいるハモンド侯爵は何も言わない。ただ、茶色の瞳だけが、寂しそうだった。
「ルイ、様……?」
アオイが名を呼ぶと、ルイもやっと口を開く。
ものの数秒だろうが、とても長い時間のように感じた。
「……私は、アオイが思う程、良い人ではないよ……」
「そんな、」
いいや、と否定して、より寂しそうな瞳で、愛おしそうに頬を撫でている。
「良い人なんかじゃない。アオイの太腿や、染まる頬、この唇に欲情して、あの男に嫉妬して、苛ついて、何とかして手に入れられないかと、……アオイを、自分のものに出来ないかと、そればかり考えてしまうんだ」
「ルイ様……」
「でも君は、アオイは……、風のようにひらひらと私の腕なんかするりと抜けて、気が付けばあの男がいる」
「っ、」
アオイは、何と返したら良いか分からず、黙って彼を見つめるしかなかった。
「分かっているんだ。本当は……アオイの、私を見つめる瞳は、愛しい人に向ける瞳じゃなく、家族に向けるような、信頼の瞳だと……」
優しく包み込まれていた頬。彼の手に、ぐっと力が入る。
「一度でいいから……、私のものに、なっておくれ」
近付く唇。抵抗してよいものなのか。
そんなものは分からないけれど、つい、「あッ、ルイ様だめっ……!」と否定の言葉が出てしまった。
その時だった──。
密な二人に、ふと影が落とされた。
「おや、お邪魔だったかな」
ベンチの背もたれに両手を付き、白々しく、不敵な笑みで見下ろしているのは、狼森 怜だった。