風の囁き
「あはは! 本当に、君には驚かされてばかりだな!」
「もう! 笑い過ぎですっ」
時間はどれくらい経っただろう──。
話し上手なハモンド侯爵に乗せられて、ついつい話が止まらなくなってしまった。ルイもお転婆な彼女に更に興味が湧いた。
ふと、彼女を見つめる。見つめられたものだから、アオイは『なあに?』といった感じで首を傾げる。大抵の女性はうっとり瞳をとろんとさせるのに。
「はぁ…………、全く……」
「え、なんですか……? 何か付いてます……?」
バルコニーの手すりに項垂れて漏れるように溜息をつき、ハモンド侯爵は頭を横に振った。女性には慣れている筈なのに、アオイの無意識なあざとさに困ってしまう。
「いや……君を初めて見たとき、妖精かと思ったんだ」
「へッ!?」
背にしたホールの明かり、貴族達の社交がずっと遠くに感じた。ハモンド侯爵は真剣な眼差しで言う。
その言葉に、アオイの時が止まった。
何故なら必死に隠してきた事が知られたのではと、そう思ったからである。怜達にだってまだ伝えていない事実だ。
「可憐で美しくて、その場の空気さえも変えてしまう。でも気まぐれに、何処かへ逃げてしまいそうな……」
「えっ、」
そっと両手を優しく握られ、気付けば目の前までハモンド侯爵が迫ってきていた。
「君はまるで妖精のようだ」
誠実さが滲み出る茶色の瞳。
どうやら妖精と言うのは喩え話らしい。馬鹿正直に動揺した自分が、少し恥ずかしかった。
「そ、そんな事……、っもう!」
(紛らわしい言い方してズルいわ!)と、アオイ自身の身勝手な感情を紛らわす為にプイッとそっぽを向けば、「あぁもう。妖精に悪戯されている気分だね」なんて言う。お言葉だが妖精の悪戯よりは可愛いはずだ。
ちらりと視線をぶつけると、繋がれている手がほんの少し強く握られた。けれど伝わってくる優しい温もりは変わらない。
「離したくない……このまま……、出来れば私の……」
言葉の続きを言わぬまま、ハモンド侯爵はクッと止まる。
「……何を、言っているんだ。まだ早すぎる……」
「どうなさったんですか……?」
「いや。出来れば私と一曲、踊ってはいただけませんか?」
「ええ、もちろん!」
そして二人は手を取り、桜が舞う心地良いバルコニーでダンスを踊る。
真上に輝く星空はシャンデリアのようで、ひらひらと舞うシルクシフォンが、まるで蝶のようだった。
「風のように軽やかに踊るんだね、とても素敵だよ」
「ふふっ、うれしい。踊るのは得意なの」
「ふん、」
「旦那様……」
「心配してきてみたが、大丈夫そうだな」
「旦那様、もう、お時間が……」
「分かっている。どちらが幸せかなんて、見れば分かる」
「しかし……!」
「煩い!」
「ッ……!」
「……………帰るぞ」
─────ザァアアァアアアアア……っ
「わっ」
「っ、すごい風だね」
夏の終わり、イチョウを運ぶ乾いた風。草木の揺れは風の居場所を教えてくれる。
バルコニーで踊るアオイ達をすり抜けると、ホールの重いカーテンを揺らした。その拍子に、ころんとトーク帽が床に転がる。
「あ、帽子が……」
髪も少し乱れてしまっているようだ。「私が直そうか?」と、ルイは壊れ物でも扱うかの如くアオイの髪に触れる。
「いいえ、大丈夫です。それより……」
今だ風に揺れる木々達は、何かを教えるように、ざわめいている。風は何と囁いているのだろう。
「それより……どうしたんだい?」
「……………帰らなくっちゃ」
「っえ、な……、どうして、帰るって? 何処へ!? 君はここに滞在しているんじゃ……!」
「違うわ! 別邸よ!」
「別邸……? 本当に存在していたのか……? あ、待ってくれ……!」
ひらりドレスを翻し、アオイはバルコニーから庭に繋がる階段へ向かう。
(あ! そうだアリス様にひとこと言わなきゃ!)
そう思い振り返ると、後ろから追い掛けてきたハモンド侯爵の胸にぼすんと収まってしまった。
「きゃ! ごめんなさい!」
「いや、良いんだ。それより急にどうして。何か、気に障ること……」
「いいえ違うんです。ルイ様とは全然関係無くて、その、すみません!」
何とか胸に留めようとしているハモンド侯爵の腕をするりと抜けて、ホールへ向かう。
「あ! アリス様!」
「アオイ様? どうされたんですか? 髪が……」
「それより! 私ちょっと帰らなきゃいけないの!」
「え、えぇ!? でも、」
「何だか帰らなきゃいけない気がして……。また、連絡しますね」
「そう……。ええ、急いであげて下さい!」
「ありがとう! コニー! 帰るよ!」
「わんっ!」
ひらひらとシフォンを翻すアオイ。妖精が舞い踊っているのだろうか。
皆の視線も追い付けないほど風のように、また、バルコニーの階段へ向かい駆け降りる。
庭まで走って一息ついた。
噴水の水面には夜空が反射し、瞬いている。
さすが本邸なだけある。庭も広い。途切れ途切れになる息をなんとか整え、目一杯空気を肺に溜め大声で呼んだ。
「ローザ……!」
ローザとは馬の名前だ。
赤茶色の毛が可愛らしくて、足腰がしっかりとした無邪気な雌の馬。綱も付けずそこら辺の雑草でも食べているだろうローザ。頭が良いから呼べば来る。
「待ってくれ!」
ローザが来るのを待っていれば、ハモンド侯爵に追い付かれてしまった。
もうとうに息を整えたアオイに、少し息を切らしたルイは、「理由を、せめて、理由だけ聞かせてくれ」と、腕にそっと触れた。決して強く掴まない彼は優しすぎる。
「……風が、教えてくれたの。今すぐ帰れって」
「風が……?」
どうやらローザが到着したようで、二人を邪魔するようにブルルルと顔を揺らす。
いつでもどうぞとアオイを見つめるローザ。良い子だねと褒めると、嬉しそうに脚を鳴らした。
「じゃあ、私行きますね」
「え、えぇと……、馬車は……?」
「馬車!? 道なんて通ってたら遠回りだもの!」
「えっ」
汚してはならないと思いドレスを限界までたくしあげると、「あッ」とハモンド侯爵。
また片手で顔を覆い目線を反らすが、チラリと一瞬向けられたルイの視線は露になったアオイの脚に向けられていた。
「わ、私ったら! 見なかったことにして下さい……っ!」
慌てて隠そうとするアオイだが、既にローザに跨がっているので隠れない。
「い、いや、良いんだ。君は知れば知るほど面白い人だね。……また、会えるかな」
「えぇまたお会いしましょう! 本日は申し訳ありません、この埋め合わせは必ず!」
風のざわめきが心まで揺らす。乱れた髪も全てほどいて。行かなければならない。何故だか今すぐ、怜の元へ行かなければならない気がするのだ。
「さぁローザ! お家へ連れていって!」