恋は一瞬で落ちるもの
皆が雑談と言う名の戦争に勤しんでいる中、ハモンド侯爵を独りポツンと待つアオイ。
皆の雑談にはちらほらと自身の話題もあがっているようだ。
伺うような視線が、なんだか擽ったい。
気になるのなら素直に話し掛けてくれれば良いのだが。
そしてやはりハモンド侯爵は女性に人気のようで、侯爵が動く度に、きゃあきゃあと黄色い声がホールに響いている。
ドレスの壁に押され、一人ひとり丁寧にあしらっているハモンド侯爵を眺めながら、これは長丁場になりそうだと気を引き締めた。
気が付けば隣に一人の男性。
「やぁ、初めまして。ヒューガ·アオイ様、と申しましたかな?」
「あ、はい。初めまして」
にこり、と取り敢えず微笑んだ。
禿げた頭にだらしなく出た腹、自身から滲み出た脂で顔を照からしており、厭らしいアクセサリーがギラギラと指に飾られているその男。
見覚えのある顔に誰だっけと冷や汗を流しながら必死に思い出すアオイ。
ナウザーが小煩く言っていたのだ。気を付けろ、と。
(えっと、名前は確か……)
「私は男爵家当主の、山田 清治郎と申します 」
「よろしくお願い致します」
(そうそう。そんな名前だったっけ?)
この齢五十の男。
自分の領地の若い娘に、あれやこれやと如何わしいことをしているらしい。
しかも処女好きで、貧しい家などから娘を連れてきては金を握らせる。他言無用は勿論、処女好きだから一度きり、貧しい家は金が入るしこれで済むならと、わざわざ公にする人も居ない。だから貴族社会では知らぬ者が殆どだとか。
結婚はしておらず、好みの貴族令嬢がいればあわよくば、なんて考えらしい。
(ナウザーはよく鼻の効く犬ですから? なんでもお見通しよ! ナウザー恐いんだから!)
しかし、本当に寒気がする男だ。
金の為であっても、好きでもないこんな男が初めてだなんて、犠牲になった少女達は心に傷を負っただろう。
だがこんな男でも高級な松茸が採れる生まれた場所のせいで、そこそこ金は持っているのだ。
早く何処かに行ってくれと思っているとは露知らず、男爵は下心満載の目付きで、なぶるように、アオイの身体を上から下まで視線を這わす。
アオイに張り付いていた笑顔も、少しだけ歪んでしまった。
「アオイ嬢はオーランド出身なんだって?」
「えぇ……」
「随分遠いところからねぇ?」
「え、まぁ……」
一見普通の会話だが、男爵の眼はアオイの身体しか見ていない。コルセットで強調された胸とお尻に、舌なめずりさえしている。
気持ちの悪い笑顔にアオイの笑顔はどんどん失われていく。
「オーランドは美形揃いの国だと聞いたが本当のようだな」
「……ありがとうございます」
「身体も綺麗なラインだねぇ。折角の美しい身体なんだからもっと出さないと勿体ないよ?」
「いえ、それほどでもありませんから」
「謙遜しなくたって良いんだよ! 見れば分かるんだから」
「ええ……?」
「若いうちが華なんだよ~?」
「ほうら、この腰からお尻のラインなんて……」と身体を撫で回すかの如く、空を這う手。
ついに視線だけでは満足出来ず、手まで出してやがったかとアオイは身を構えた。
これに慣れた御令嬢方はあしらうのも慣れているのだろうか、なんて思いながら「はあ」と適当に相槌を打っていると、ハモンド侯爵が此方に戻ってきているのが見えた。
アオイが、この〈もう名前すら覚えるほどでもない男爵〉に捕まっていると気付いたようで、丁寧に対応していた御令嬢をあくまで優しく押し退け、駆け足してくれている。
まるで騎士のような方だ。
「もし宜しければ今度家にも、」
「やぁ、お待たせ」
「あ、あぁ、ハモンド侯爵様……」
「私が先約を入れているんだ。悪いね」
「……い、いやいや、これは失礼。っ……ではまた、」
「ええ。また」
あぁ良かったと最後にニコリと微笑むと、いそいそとまた別の令嬢を探しに行く男爵。懲りない男である。
言葉の続きを聞かなくて済んだのは幸いだった。
これまで何度ほかの令嬢を家に誘ったのだろうか。
考えるだけでも身震いする。
「少し、夜風にでもあたりに行こうか」
侯爵に言われるがままバルコニーに付いていくアオイ。
助けてもらったのだから御礼はしなければ。
「有難うございます、先程は助かりました」
「いや、良いんだよ。気にしないで。あの男爵は少々、女性を下に見ているから……、君も気を付けてね。って、一人にしてしまったのは私か、申し訳ない」
「いえ! そんな、謝ることでは」
こんな人だから女性にモテるわけねと納得した。
己の行動を反省出来る人は滅多に居ない。
「さ、お腹も空ているだろうと思って食事も少し取ってきたよ。お酒は何が好みか分からなかったから、ロゼを持ってきたんだ。君に似合いそうだなって」
「有難う御座います! ロゼ、好きですよ。似合いますか?」
美しいグラスに注がれた、透き通る鴇色のお酒。アオイはグラスを持ってにこりと笑って見せた。
濃い蜂蜜色のアオイの髪がロゼに透けて、まるで本当に蜂蜜を垂らしているようだ。
すると何故かハモンド侯爵は片手で顔を覆い、目線を外してしまう。首を傾げ「似合いませんでしたか……?」と問うと、侯爵は困ったように笑う。
「いや……、あまりにも君が魅力的だったから」
「えっ、またそんな。ご冗談を!」
「いいや、冗談じゃないよ。さ、食べて! 君の話をもっと聞きたいな、犬好きなんだって?」
「ええ! 犬は本当に可愛いの!」
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「うわーん……ルイ様とアオイ様……、とってもお似合いね……」
「ねー、仕方無いね……。アオイ様、美しいもの。敵いっこないわ」
「まぁ、あそこまでお似合いだと戦う気にもなれないってものよ! きっとこのまま婚約ね」
「ね、」
「うーーん、それは、どうかなぁ……」
バルコニーをそっと眺めるアリスとその友達。
苦笑いを浮かべるアリスに、「なんでよ!」「シッ、聞こえちゃうっ!」と二人。
「もしかしてアオイ様には既に婚約者が!?」
「いや、それはないと思うけど……」
「じゃあなんでよ! 距離!? 国と国との距離!?」
「いや、」
「ちっがうわよ桜子ッ! アオイ様はあれだけ美しいのよ!? 他にも引く手数多よ! そうなんでしょ!?」
「それはそうかもしれないけど、」
「ホラね!?」
「でもあんなに良い雰囲気なのに!?」
「も、もうっ、二人ともっ! 聞こえちゃうからっ……!」
アリスはぐいぐいと友二人の背中を押し、その場から離れた。
もふもふでイケメンな怜が居るんだから! と言葉にしたい気持ちは必死に押し殺して。
ハモンド侯爵と談笑する姿を眺め、アリスは「はぁ」と溜息。
(あんなんじゃない。アオイ様が、怜様と居るときは、もっと、心の底から笑ってて、……変態的というか……うん)
きっと、呪いを解くのは、彼女だ。
──狼森家が代々受け継いできた秘密。
〈別邸で暮らしている犬達は人間である〉
美しく完璧過ぎた男は、妖精の悪戯の標的になってしまった、そして現在も呪いの真っ最中。
妖精国がすぐ隣の土地では、妖精の悪戯というのは珍しくない。だから邸の季節がおかしくても、もう今更誰も、不思議には思わない。
だが今やお伽噺で、人が生きる教訓のようになってしまった『心が醜く恐ろしい獣にされてしまった』と言う話。
「山犬を見た」「山犬とお婆ちゃんが見合をさせられた」「人を食らう獣」「息子が殺された」
時と共に、話には尾ひれがつき、今や〈人食い山犬〉だ。
怜達は結界の外には出れないので、チラホラ事実も混ざってはいるが、信じてくれる人の方が少なく実際に見たと言う人物も居なくなった。
しかし、山犬の怜無くしてはこの国境を守れない。
元々強かったらしいが、獣の姿だとより強さは増す。それほど迄に怜は重要な人、いや、獣なのだ。
父であるクリスもそれについては十分に理解している。
怜が居なければ年々勢力を増してきている紅華国の賊から国境を護れない。だから怜の事だって、アレでも必死に守っているつもりなのだ。
ただクリスは犬嫌いなだけ。だからといってアリスは、栗鼠を捨てた事を許してなどいない。
呪いが解ければ良い。
アリスを含め、本邸の皆も内心そう思っている。
(まぁアオイ様がどう思うかは、分からないけれど……)
だが、呪いが解けたら?
国境は?
戦争は?
そんな考えがアリスでもふと、過ってしまう。
何にせよ、皆が幸せになれればそれで良い。
(そう言えば……もうすぐ100年。100年経ってしまうとどうなるんだっけ? 今度お父様に確認してみよう……)