序、ある春の日
綿飴のような桜が咲いている。見渡す限りに桜を愛する大和心が溢れるこの時期だが、私は違った。桜は、嫌いだ。私は目を細めて窓から見える桜並木を眺めた。どこの桜だろう。
京都は不馴れだからよくわからない。窓ガラスを隔てて映る薄桃色の大群は、本当に綺麗だ。後で調べようと思って、今しがた通り過ぎた駅の名前を確認する。ああ、これは後で忘れる類だ。
記憶というものは曖昧なもので、一瞬たりとも気を抜けないとあんなに張りつめていた弓の弦が、一度放たれてしまうと途端にただの紐になってしまうのと、基本的に原理は同じだ。それでもこの記憶に頼らずに生きて来たのなら、今私はここにはいないだろう。おそらくほかの人たちと同じ……いや、もっと酷い結果になっていたかもしれない。ともかく、私は勝った。勝ったのだ。
駅に着くと、楽しげに吊るされている電光掲示板を見上げながら次の乗り換えへと彷徨った。隣の女子高生たちは、迷っているというのにスマートフォンの画面に夢中だ。そんなものを見なくとも、お前たちが探している出口を示す標識は出ているぞ。良心というよりも馬鹿馬鹿しさが心の中で先行した。この数年で急速に進んだ情報化社会というものは、人を便利にさせたのか、それとも────
「間もなく、三番線に電車が到着します。危険ですから、足元の黄色い点字タイルまでお下がりください。」
聞きなれたローカル線のアナウンスが、私の思考に横入りしてきた。自宅の最寄駅まで届けてくれる玄関役を担っているこの駅は、大阪市内に出るための終点となっており、行く側の線が二本もある。しかも片側のホームは混雑緩和のために降車専用となっていて、私が今居る側は乗車専用のホームだ。掲示板を見て、私は母に迎えの時間を連絡するためにスマホの画面を起動した。フリック入力をしながら、私は自分が並んでいる位置を確認した。一番先頭に居るため、端の席は確保できる。すでに三時頃なので、人も少ない。しかし、これから出かける人が多いのか、到着した電車にはまだたくさんの人が乗っていた。
そんな中で、私は一人の乗客に目を留めた。本当に、何気ない気まぐれだった。白髪と黒髪が中途半端にまじった、灰色の短髪。赤と黒のジャージに、均整のとれた体型。あの人だ。そう思って私は電車を挟んで凝視した。
だが、すぐに違うとわかった。扉が開いたため、私は習慣的に足を伸ばして希望通りの席に着いた。今から最寄駅までは数十分かかる。少し、目を閉じよう。両隣の客が手元の画面に夢中になっているのをよそに、私は瞼を下した。
懐かしくも暖かくて、遠いあの日々を思い出すために。
*
まだ肌寒さが残る三月上旬。人だかりが多い道をかき分けながら、私は吐き気を覚えていた。気分は今までで一番最悪だ。さっさと帰りたい。隣では母が問題ないとずっと励ましてくれている。そういうわけじゃない、と言い放ちたくなって私は口をつぐんだ。
この学校が、嫌なのだ。どのみち合格すれば、ここに行くわけになる。私に選択肢はない。けれど、ここで通っておかなければという義務感も同時に生じていた。ただでさえ第一志望でない高校の入試だったのだ。模試でもA判定と5番内だった。絶対合格しなければ。
「今更気負ったって仕方ないでしょ」
「わかってるって」
正門の前に差し掛かった。正直言って、道すがらに何があるかなんて、見る余裕などなかった。私は顔を上げて高校の表札を見た。
『大阪府立広川高等学校』
と書かれている。それを見て、ここへ来て今すぐ引き返したいと思っていた自分の何かが変わった。突然早歩きになった私を見て驚いた母が小言を言いながらついてくる。グラウンドの横をまっすぐ過ぎて、左に曲がったところに構えられている校舎が目に飛び込んでくる。この校舎に入る権限を、私は貰えたのだろうか。ドラマや漫画でよく目にする、恐る恐る番号を探すというよりも、次の電車がいつ来るのかといった類の探し方をした私は、数秒で掲示板を見つけた。そして見つけたと同時に、自分の番号と目があった。手の中にある無駄に分厚い紙切れは、確かに525番だと叫んでいる。だが、私は一言も発さない。隣で友達が泣いている。あった、あった、と。
すべてが終わった、そう私は思った。そしてすべてが始まったと、息を呑むのだった。