あじさい笑う
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わたしはお父さんが大嫌いだ。
中二にもなった娘の部屋に遠慮なく入ってくる無神経さ、加齢臭、それに飲み会の翌朝の酒臭さ。とにかくすべてが大嫌いだ。洗濯物を同じにされるなんてとんでもない。一度、お母さんが誤って一緒に洗ってしまった際には、わたしはその下着をソッコーで捨てた。最悪なことをしてくれたねって抗議すると、お母さんは「まったくもう、反抗期なんだから」と言って笑った。反抗期云々の問題ではないように思う。この先、お父さんのことを好きになれそうな予感がない。まるでない。小さな頃はお父さんの行く先々について回っていたって話だけれど、それって昔のことだ。今のわたしには当てはまらない。とにかく死ぬほど嫌いだ、お父さんのことが。
だから、三人で食卓を囲む際には、わたしは決まって無口になる、不機嫌になる。お父さんのお酒のペースは速い。食べる前に発泡酒を二本空けて、それからウイスキーの水割りを飲みながらご飯を食べる。ウイスキーの味がどんなものかはわからないけれど、匂いからして不味そうだ。そんなものと一緒に夕食を口にするなんて正直ちょっと考えられない。
お父さんはしばしば、「真由美、どうなんだ、学校は」と訊いてくる。無視。とにかく無視。相手をすることすら面倒だ。それより「ウイスキーを飲みながら晩ごはんを食べるってマナーとしてどうなの?」と訴えたいのだけれど、それを口にするのもめんどくさい。こっちが黙っていると、お父さんは鷹揚に笑う。「おまえが何も言わないってことは、学校生活は順調だってことなんだな」とか勝手に解釈する。うるさい、黙れ、クソ親父。お母さん、一言言ってやれば? せっかく作った料理もウイスキーが混ざっちゃったら味なんてわからないでしょうって言ってやれば? それって全然アリだと思うんだけど。つーかお父さん、わたしのことをおまえだなん偉そうに呼ばないで。つーかお父さん、楽観的な貴方には、わたしが学校でイジメられているだなんて想像できないんだろうね。わたしがクラスメイトからばい菌扱いされているなんて思いもよらないことなんだろうね。
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今日もやられた。トイレに立った隙に体育館シューズを隠された。誰かに借りようにも、他のクラスに友だちなんていやしない。
イジメに遭っていることは紛れもない事実だ。だからといって、イジメている連中に対して降参なんてしたくない。白旗なんて上げたくない。媚びを売ってまでゆるしてもらおうだなんておかしな話だ。だってわたしはフツウに生きているだけで、何も悪いことはしていないのだから。
しかたがないから、裸足で跳び箱を飛んだ。「靴はどうしたの?」と体育の宍戸女史に訊かれたけれど、「忘れました」と言う意外になかった。
ぺたぺたと裸足で廊下を歩いて更衣室へと向かう途中、ほんの少しだけれど泣きたくなった。トイレの前を通り過ぎるとき、後ろを歩く連中に、「馬鹿じゃん?」「きったねーの」「いい加減、謝れっての」とか聞えよがしに悪口を言われたから。でも、謝らないってば。あんたらのイジメがどれだけキツくたって、謝ったりしないってば。
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お父さんが帰宅した。部屋着に着替えてテーブルに着くなり、お母さんが出したビールをグラスに注ぎ、それを二本分あおったら、いつも通り、ウイスキーに移る。
お父さんに訊かれた。
「真由美、学校生活はどうなんだ?」って。
またかと思う。また訊いてきた。わたしがイジメに遭っているのだと話したら、お父さんはどんな顔をするだろう。ともあれ、わたしの中学校生活もあと一年と少ししたら終わるわけだ。とびきり程度の高い高校を受けよう。そして、イジメてくれちゃっている頭の悪いやつらとはオサラバしてしまおう。常々、そう考えている。
お父さんがまた口を開いた。
「ここ最近、陰険なイジメが流行っているっていうぞ。おまえはだいじょうぶなのか?」
一瞬ドキッとしたけれど、所詮は酔っ払いの戯言だ。だからスルーしようとした。でもお父さんは珍しく、いつになく真剣な顔を向けてくる。ウザっ。マジでウザっ。ほっとけよ、こっちのことなんか。つーかだから、わたしのことを簡単におまえとか呼ぶなっての。
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イジメに拍車がかかった。椅子に画鋲を仕込まれたのだ。ちくっとした痛みを感じると同時にちょっと驚いた。そこまでやるのか、って。だけど、折れたりしない、くじけたりもしない。負けるもんか。高校に上がればこっちのものなのだ。イジメのない状態からリスタートできる。恋人だってできるかもしれない。我慢、我慢。中学生活が終わるまで、我慢、我慢。
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日曜日。お父さんは常日頃から庭の手入れに余念がない。今日も花々の茎にハサミを入れている。そこにお母さんも加わった。寄り添い合うようにして花を眺める。楽しいのだろうか? 楽しいのだろう。ウチの両親は仲がいい。お父さんは愛妻家だ。お母さんも何かの折には旦那を立てる。理想的な夫婦だと思う。二人は幸せそうなのだ。いつだって、いつだって。
ダイニングテーブルの椅子から両親の様子をぼんやり眺めていると、ガラス戸を開け放ったお父さんに「真由美、おまえもこっちに来ないか?」と誘われた。返事をするのも億劫だ。つーか、だからおまえって呼ぶな、気安いぞ、まったく。
お父さんが、「なあ、こっちに来いよ」としつこいので、やむなくわたしは黄色いサンダルをつっかけて庭に出た。曇天だ。重苦しい雲が垂れ込めている。気持ちのいい天気ではない。お父さんは剪定を続ける。わたしは膝を折ってしゃがみ込んだ。目の前にはあじさいの花。
「おまえ、あじさいが花をつけるたびに毎年喜んでたんだぞ?」
「そんなの昔の話じゃん」
「ああ。昔の話だな」
「お父さん、わたしに何か言いたいことがあるわけ?」
「真由美、おまえ、学校で上手くやれてないんじゃないのか?」
お父さんに唐突にそう言われて、頭に血が上り、胸がかっと熱くなった。
「だったら何? 助けてくれるっていうの? いつも仕事から帰ってくるなり、お酒ばっかり飲んでるくせに」
「おまえが助けを求めてくるようなら、学校側に詰め寄ってやる。親御さんにも文句を言ってやる」
「おまえとか、軽々しく呼ばないで」
「おまえはおまえじゃないか。父さんの娘だ、大切な」
「だからって、おまえとか言わないで」
「真由美は真由美だな」と言って、お父さんは「ははっ」と笑った。「でもな、つらいことがあったら話してくれ。お父さんはいつだっておまえの味方だぞ?」
「あっそ。だけど、自分のことは自分でなんとかするから」
「強いな、おまえは」
「だから、おまえとか言わないで」
あじさいは綺麗だ。花びらもそうだし、花全体も美しい。そんなあじさいには曇り空が似合うように思えてくるから不思議だ。にわか雨にでも降られたほう映えるように感じられる。
「…お父さん」
「なんだ?」
「…ううん。やっぱりなんでもない」
「なんでも言ってくれていいんだぞ?」
「本当に、なんでもないから」
「真由美」
「何?」
「おまえのためだったら、お父さん、なんでもしてやるからな?」
「それ、さっきも聞いたし」
「今年も立派に咲いたなあ」お父さんがあじさいを眺めながら嬉しげに言う。「また来年も綺麗に咲くといいなあ」
「そうだね」
わたしは素っ気なくそう答えた。
咲き誇った花を見つめる。
鮮やかなブルーのあじさいに、可愛くないぞと笑われた気がした。




