1.特別な彼
「この国では、個人の使う魔力を常に一定以下に保つよう魔法がかけられていますが、その限度内でも人や世界の秩序を乱す魔法を使う事は法律で禁じられています。法については一般の法律科目があると思いますが、詳しくは教科書の巻末にもあるので気になった人はそこを見てください。
約五百年前の魔力闘争以来、この世界のほぼ全ての国でその基準は適応されており__」
いま受けている授業は「魔法世界学」という、なんの変哲も無い教養科目だった。
この世界で生きていく上で必要な知識を教える授業だから 、一年生は全員必修。
けれど続行して二年、三年、と受講する人は少ない。
内容は濃く、広くなっていくが、必修と指定されているのは一年のみであり、大抵の生徒は座学よりも実践的な魔法学を扱う授業を受けたがる。
実際、五十人は座れる教室には、十人ほど。
さっぱりと言うと、人気がないのだ。
でもわたしはどんなに憂鬱な日でも、風邪を引いてしまった日でも、朝食を食べれなかった日でも、この授業には必ず出席すると決めていた。
クラスの違う、キルトレイ・ファントナスとの唯一の接点がこの授業だからだ。
彼が大好き、とか、そういうことではないんだけれど。
気が付くとやっぱりどこか気になって見ているし、なぜかいつも彼の存在には気付くのだ。
この授業でなくとも。
魔法ではないから、直感なのかな。
例えば教室に入ってくる気配で、見なくても彼が来たとわかってしまう。
そして最後には見つめてしまう。
このことに気付いたのは、一年以上も前。
わたしの中で、それが当然となってしまっていた後だった。
教科書の司法の図に黒板の文字を軽く書き込みながら、毎回この授業だけは上の空。
私は前から三列で、彼は一列目。
つまり、見やすい場所にいる。
ずっと見てしまう。
わたしって好きでも無いのに、変なのかな。
たぶん変だ。
こうして見ていて、最近そう思うことが多い。
自分で考えてみても必死で彼を見つめているようなのに、別に必死なことではないのだ。
だからことあるごとに、まるで第三者のような感覚で自分を検証するのが癖になっている。
なぜか彼を感じ取ってしまう。
そしてついには見てしまう。
これは何かの感情なのだろうか、それとも直感か。ならばそれは何なのだ、と。
こんなに必死で見つめているのに、それ以上の何かが欲しいとか、そんな気分ではない。
彼のアッシュブラウンの髪の毛がさらさらしてて触ってみたい…というよりは、遠くからでいいから、その雰囲気やアイスブルーの瞳をちらりと望んでみたい。
そんな感覚。
でもこの感覚–––感情について明確な答えを自分でも見つけることができなくて、もう一度彼の背中を見つめてみる。
…これを繰り返しているうちに、毎回授業は終わっているのだった。
「–––メイア・ローグさん…は君だね?」
授業後、教室を出ようとするところで魔法世界学の教鞭をとって40年以上と自称するのおじいちゃん先生に声をかけられた。
ローグはわたしの名字だ。
「あ、はい、わたしです」
何か用事があるのか、または心当たりのあり過ぎる授業態度についてなのか判別がつかずに、声をかけられた理由に触れるのを躊躇ってしまう。
私が言葉を待っていると思ってくれた先生がおっとりした声を出した。
「魔力学のグレイ先生が、『君の取っている講座ではないけれども、良かったら明日の五時限目にある自然魔力組成学の特別授業に出るといい』と、君に伝言だよ。『伝える機会が最近なかった』そうだから、僕から君にね」
眼をかけられているようだからしっかり励むといい、と先生がにこにこ微笑む中、わたしの気持ちは微妙になった。
魔力組成などの授業を担当するグレイ先生は、なかなか癖のある男性教員で、爽やかに笑いながら相手の痛いところをちょんと突くのが趣味だ。
性格にしても成績にしても、生徒にとってなんとも言えないウィークポイントを常に把握するのが趣味ではないのだろうか…。
ちょんと突くだけであって非道なわけではなく、細やかな心遣いもできる教師なのだが、癖のある感じが苦手な生徒はことごとくグレイ先生を嫌っている。
逆もまた然り。
二極化した人気というやつだ。
しかし、グレイ先生は自分を嫌っても好きでもない生徒層に独自の観察対象を認定しているようだった。
わたしはその中の一人らしい。
ちなみに、グレイ先生は観察対象となる生徒に対して、黙っていられずに積極的構うことが多い。
だから観察対象となる生徒は自覚している者がほとんど。
授業はとてもわかりやすくて面白いから、いいのだけれど。
わざわざ伝言をくれたのは、その授業はわたしに向いていると思ってくれたから、ということなのだろう。
でも珍しい。
グレイ先生なら生徒を呼び出しそうなものなのに。忙しいのだろうか。
おじいちゃん先生の微笑みにわたしも微笑んでみる。
「伝言ありがとうございます。特別授業に出てみる」
ことにします、と言い終わる前。
突如現れた斜め左後ろの気配に気付いてしまって、思わず言葉を止めていた。
「–––お話し中すいません。
その授業、他の生徒も受けることって出来ますか?」
彼だ。
–––––キルトレイ・ファントナス。
…待って。彼がどうしたの。
わたしは彼を認識しているのに、頭が状況を分析できない。
「ファントナス君かね。自然魔力組成に興味があるのかい?」
「はい。…実は二年までは授業を取ってたんですが、今年は他にも取りたい授業とかぶってしまって取らないことにしたんです。
授業を受けることができるなら、受けたいんですけど…特別授業というのは明日だけのものなんですか?」
彼の声が、斜め後ろから。
待って。斜め後ろ、向きたい。
いや、そうじゃない。先生を見なきゃ。
いやそれも違う、会話を聞かなきゃ。
待って、待って、まずは落ち着こう。
「これから三ヶ月間毎週あるらしいよ。
基本的に受ける生徒はグレイ先生の授業を取っている生徒か彼が声をかけた生徒がほとんどだろうが、授業を受けたいなら受けることができるはずだ。
明日の五時限目前にローグさんと一緒に行って、グレイ先生に願い出るといい。
どっちみちローグさんも授業の前に先生に出席の旨を伝えなければならないからね」
おじいちゃん先生はニコニコとわたしの斜め左後ろの彼と話した後、わたしに向かって再び微笑む。
「場所は…ローグさん、グレイ先生の色素魔力学の教室でと聞いているんだが、ファントナス君に教えてあげてくれるかい。
僕は教室まで聞いていなくてね」
後ろを振り向きたい衝動を抑えながら、できるだけさりげない様子を維持する。
「あ、はい、わかりました」
いま何が大事って、そう、場所だ。
大丈夫。状況を咄嗟に分析できなくても、記憶しておいてゆっくり噛み砕いていけばいいの。
彼じゃない、斜め後ろじゃなくて、場所。
「場所はわたしが教えますね」
わたしが、彼に。
先生はうんうんと頷いた。
「じゃあ頼んだよ。僕はこれで」
手を蝶々みたいにひらひら振って、白髪の可愛らしいおじいちゃん先生は去っていく。
なんだかすごいことになってしまった気がする。
いや、いや。
別にこんなの大それたことではない。ただ先生に伝言と頼まれごとをされただけ。
あの先生だってグレイ先生に伝言を頼まれていたではかいか。
わたしがいつも見ている人だから。
そんな観察対象な人と少しだけど近ずくことになって、動揺してしまっているだけ。
わたしからしたら大変なことでも、他から見たら全然そんなことではない。
これはそういうもの。
いつもより近い距離で彼を眺めることができるという、珍しい特典つきなだけだ。
これを機に、なんでわたしは彼を見てしまうのか、少し解明できるかもしれないし。
ていうかなんでこんなに動揺しているの、私。
アイスブルーの瞳にもお目にかかれるし。
そう、これは「ただの」いい機会。
「メイア・ローグさん、だっけ?」
その声に冷やりとした。
–––待って。わたしまだ後ろ向いてない。
「ローグさん?」
「あ、はい、合ってます。メイア・ローグです」
くるりと後ろを向いて、目線の少し上に彼の瞳。
いつもみたいに遠くではないアイスブルーがそこにある。
「あ、まずは自己紹介か。
俺はキルトレイ・ファントナス。
ローグさんとは、1年の時から世界学の授業で一緒だよね」
彼はそう言ってわたしの目を見つめて、その後すこし申し訳なさそうにほほえんだ。
「ごめん。明日の特別授業の前、ここで待ち合わせてもらってもいいかな?
場所もわからないんだけど、グレイ先生にどっちにしろ会うなら、教室を聞くよりその方がいいかなと思って。途中からメイアさんと先生の話に割り込んじゃったわけだし。
ローグさんの都合がよければなんだけど」
大丈夫?と聞く彼に、頷いた。
後ろを振り向く前と違って、なぜか冷静だった。
「大丈夫。四時限目が終わったらここに来るね」
「ありがとう。
突然話の途中に割り込んだのは俺の方なのに、いろいろお願いしてしまってごめんね」
そして彼は「ローグさん優しいから助かったよ」と言い添えた。
そのセリフ、案外爽やかさが似合う人でないとキマらないよな、とか心の声を言いたくなってしまう。
もちろん彼はキマっていた。
「…」
すると彼が少し、何か言いたそうな顔をした。
なんとなく、あまり聞きたくない。
どう声をかけていいかもよくわからないのでいつものように彼の瞳を見ていたけれど、実際に彼が何か口を開きそうになったことに気付いたら、自分から声をかけていた。
「…どうしたの?」
「ローグさんて、俺が特別授業を受けたそうにしながら話を聞いてたの、わかってた?」
「…え、」
「俺が話に割り込むの、待っててくれた感じがしたから」
彼は少し不思議だったというような顔をして、わたしを見た。
「あ、もう次の授業いかなきゃ。
ありがとね。また明日よろしく、ローグさん 」
彼はそう言って慌てると、人気のなくなった教室にわたしを残してすぐに去って行った。
わたしは先程、彼の存在に、先生との会話を止めてしまった。
彼を待っていたからじゃない。彼に気付いたという、それだけの理由だったのだけど。
彼は勘が鋭いのかもしれない。
だから何事もそつなくこなすのだろう。
でも。
わたしが彼に気付いたから言葉が出てこなくなってしまったことには気付いていない。
確信はないけど。
だって、あんな風に聞いてくるわけだし。
だから、本当のことに気付かれたわけではないから、そのことで動揺はしていない。
もちろん直感なのか何なのかなんて、本当のことはわたしにも分かってないし、名づけられない何かに気づかれたって、動揺するかはなってみないとわからないのかもしれないけれど。
思い出しているのは彼の瞳。
アイスブルーに冴えて光る彼の瞳は、今日も特別に見えた。
近い距離だったから、なおさら。
–––でも案外、綺麗だと思えなかった。
それだけでは済まされない、そんなアイスブルーの瞳。
わたしが動揺してしまったのは、彼の話を聞きながらもそんなことを冷静に考えてしまった自分に気が付いたからだった。
そして同時に、もっと深く探ってみたい、と思ってしまったから。
わたし、もっと見つめたいの?
それで何かを知ろうとしているのだろうか。
彼の、何かを?
それとも、この見つめたい気持ちの正体を?
そもそも、気持ちなんてあるの?
よくわからない。
彼も自分も、よくわからない。
わたし、客観的思考力、弱いのかな。
–––ただ、彼を見つめると、わたしはどこか無意識になってしまうみたい。
がらんとした教室の窓の外は、終わりを告げそうな冬の曇り空が物憂げにしていた。
こんな天気は物憂げになるのがつきもの、と言われている気がして。
わたしは物憂げなわけじゃないんだからねっと、無いはずの誤解をなぜか解いて主張したい気持ちがむずむずしてしまう。
次の授業に行く時間が静かに迫っていた。
わたしはひとまず、物思いとアイスブルーの瞳を忘れることにした。