思うこと
一応お返事的な。
あるいは旗幟鮮明。
どちらにしても独り言。
なるほど。
感想欄を閉じることに関しては、私も肯定できません。
「自作の物語をウェブに公開します。だれでも読めるところで、広く衆目に晒したいからです。でも読んだ人はそれをしないでね。褒めてくれるなら良いけど、貶されるのは嫌だから、少なくとも私の目の届くところでしないでね。だって見たくないから。そんなことされたら傷ついちゃうもん」
自己顕示(小説を書いて投稿)しても、反応を受け止める覚悟のないそのエクスキューズを、無邪気な恫喝とエゴイズムで振りかざす幼い作者に大したものが書けるとは思えないからです。
しかし全編を通して拝読し、多分、非常にお若いか人生と読書が密接ではない方なのだろうと思いました。
欠けたものを埋める物語、原因と結果が応分に報いる小説は小説の広大なジャンルの一部分でしかありません。
酷いことをしたから罰があって当然。
もちろんハンムラビ法典の範囲で!
それが小説だとするならば笑止。
せいぜい童話や寓話の類でしょう。
確かに、小説内での事象の扱いがアンバランスな小説はあります。
なぜアンバランスなのか、アンバランス足り得る理由もなくアンバランスである。
それは作者の力量の問題であるとする見方は当然ですが、力量に関係なくプラスマイナスを整合させるべきである、となると大きく首を傾げざるを得ません。
それは読み手の単なる願望であり、作者が読み手を規定するのが越権であるなら読み手もまた作者や小説を規定してはならないのではないでしょうか。
そもそもなぜ、罪と罰、略奪と復讐を読み手に納得できるよう整合させなければならないのでしょう。
そんなもの、作者とキャラクターの勝手です。
読者が納得できるとできないとに関わらず、小説内でキャラクターが納得できていればそれで終わりです。
そこに説得力を持たせられなかったのならそれは作者の非ですが、だからと言って「私を納得させろ」とごねることはできません。
「こうこうこうでないと納得しない!」というのは、思い通りの慰めでなければ泣きやまない幼児のようです。
「なろう」という双方向性のある場に限って言えば説得力のない部分と理由を分析し提示することは作者にとって有用でしょうが、 こうするべき!とするのは僭越ですし、差し出口もいいところです。
性暴行と正当防衛としての殺人に言及されていますが、書き手が男性でなおかつ未熟な場合レイプは軽く扱われがちです。圧倒的人生経験のなさによる想像力の欠如から女性に対する暴力の象徴として手っ取り早く使うのですが、おっしゃってるとおり作者の未熟さを露呈するに終わることがほとんどでしょう。
強姦犯に対する女性の憎しみや恨みについては「I spit on your graiv」が非常に良く描いていると思うのですが(元々の作品がポルノであったことは驚きです。そしてあれでも足りないと大抵の女性が思うことにも驚きです)、あれを「作中の挿話」として出来る作者はプロでもなかなかいないと思います。
しかしそれとは別にレイプが「ラノベ」で描かれない最大の理由は、出版側の良心です。
大人としての責務といってもいい。
人格と密接に結びつくセックスに対する「圧倒的な暴力」に購買ターゲットである人格が成長途上の、性行動を学習中の青少年(特に少年)を晒さない、という。
そういった制約は見えないところでたくさんあります。
だからこそ夜神月は死ななければならなかったし、高見広春は太田出版でなければ出版できなかったし、マルドゥック・スクランブルはラノベレーベルでは出版が難しかった。
ライトノベルであるからこその制約が強姦を、近親相姦を、犯罪の肯定を作中で描かせない最大の理由で、生きて行くための(執拗な言い訳のついた)最小限の殺人が辛うじて許される理由ではないでしょうか。
また、正当防衛としての殺人が容易であるとの意見をお持ちのようですが、それがなぜなのかは理解されていないようです。
正当防衛としての殺人が容易に為されたように見えるのは、それが意図されないものであるからです。
殺されかけ、それを防ごうとして結果として殺してしまった。
そこにはもしかしたら衝動的な瞬間の殺意はあったかもしれませんが、殺人を成そうという明確な犯意はないわけです。
だからこそ正当防衛が成立し、殺されかけた自分を自力で救ったから心的外傷後ストレス障害も発症しにくい。
それなりの罪悪感はあっても仕方なかったと自分を納得させることができる。
だからと言って意図した殺人も一括りにするのは乱暴です。
「殺されそうになったから対抗の結果相手が死んだ=殺した」のと、殺すべきだと「判断」したから殺すのとでは全く意味が違います。
人口の2%程度を除いて、殺す為に殺すことへの心理的抵抗は考える以上に強固です。
ベトナム戦争を例に出されていますが、第一次大戦~ベトナム戦争で敵に向かって発砲できたアメリカ軍戦闘員は半分もおらず、以後アメリカ軍は認知心理学的社会的反射的本能的脳科学的なありとあらゆるアプローチと手段を使って「敵に向けて確実にしとめるために撃てる」兵士にするべく訓練という涙ぐましい努力を続けていますが、それでも平均8割に届かなかったと思います。
だからこそ湾岸では空爆を初手で始めたのです。
国の為、正義の為、平和の為と大義名分を掲げてもそれほど、人が人を情動ではなく理性で殺すことは難しい。
蛇足になりますが、ベトナム戦争でのPTSDの発症はすでに戦地で始まっていることがほとんどで、ただ異常環境下で目立たないだけです。
帰国後人権団体に責められて発症したわけではありません。
書かれた文中に
───これに関しては老舗の小説雑誌の選考の感想に良く書かれています。
「小説はまず読む人がいることを意識しなければならない」
これが大前提です。
誰もが見れる場所に発表する以上、それは覚悟しなければなりません。
雑誌ならば載った後に感想で読んだ人からの反応が返って来るわけですし、なろうでは感想で返って来るわけです。
ですので、感想欄を閉鎖している事に関しても聊か疑問を呈しているわけです。(部分閉鎖は荒らしがいる以上、プロと違って編集が止めてくれるわけではないので致し方ないかもしれないなとは思います。)
とありますが、これは書かれているように感想反応読者という存在の想定といった意味でなく、常に他者の視点でもって書け、ということです。
書き手はすでに登場人物とストーリーを知っているので、そのつもりで書く。
だから、書き飛ばし書き漏れ説明不足描写不足が生じ、「わからない」小説になる。
そうではなくて白紙の状態で読み始める読者にわからないところの無いように常に、読み手の理解を前提に書かなければならない、ということです。
こうあるべき。
こうでなければならない。
それは、意見にしても押し付けがましい。
感想や意見を言うことは読者の当然の権利です。
ですが、「こうあるべき」「これが本当だ」となったとたん、一個人の好みの強制でしかなくなります。
小説の内容と方向性に関する決定権は作者のみにあります。
それをやりたいなら自分で書くべきで、他者に要求するのはあまりに我が物顔ではないでしょうか。
本来、書き手と読み手はかなり距離があります。
ツイッターやブログで直にやりとりできるようでも創作者と鑑賞者では立ち位置が違います。
「なろう」は書き手と読み手が同じ場で発言し距離も近いように思えるので、読み手である自分と書き手である他者との区別がなかなか難しいのかもしれないと今回思いました。