06
あのあと何が起こったのか、リゼルヴァーンはあまり覚えていない。あとになって家臣たちの噂話を聞くに、リゼルヴァーンの部屋は天界の者たちに襲撃されたらしかった。
城には術で防御壁を張り巡らせていたし、警備に対してもかなり厳重な体制がとられていた。安易に攻撃されることはないと思われたが、天界側は狙いを一つに絞り、一点集中で穿つことにしたらしかった。そして目論みは見事に上手くいき、警護の目をかいくぐり、窓を突き破ることに成功したらしかった。
そして、悲劇は起きた――
標的はリゼルヴァーンだと思われた。魔界では白髪の忌子と忌避されているが、天界側から見れば魔王の正統な子息である。まともな術も扱えぬリゼルヴァーンを、いまのうちに亡き者にしようとしていたらしい。窓から侵入した天界の者たちは、リゼルヴァーンを斬殺しようとした。しかし、その狙いは外れてしまった。前に飛び出したユリシアがその刃を受けたからだ。
このときのリゼルヴァーンの記憶は曖昧だ。しかし倒れたユリシアと、手の中で冷たくなるクールウ、そして静かに佇むシリルの姿は、しっかりと脳裏に焼きついていた。
その後、助けに入った近衛兵たちが見たのは、散乱した部屋の中でこと切れる天界の兵たちと、気絶したリゼルヴァーン、そしてユリシアの傍で蹲るシリルの姿だったと聞く。天界の兵たちは少数精鋭の部隊だったらしいが、惨たらしい姿になって床に転がっていたようだった。
天界の兵を殲滅したのは、恐らくシリルだ。リゼルヴァーンは自分が何かをした記憶はないし、そもそも震えあがって何もできないでいた。ユリシアが倒れた直後にやって来たシリル以外には考えられないことだった。
兄上……いまどうしているかな。ずっと自室に閉じこもっているらしいけれど、大丈夫かな……。
シリルの塞ぎようは相当に酷いものらしかった。誰ひとりとして、部屋に入れようとしないのだ。家臣や召使いたちは当然のこと、父親のギルヴァーンやミゼリアまでも部屋に入ることを許さないらしかった。
意識を取り戻したリゼルヴァーンも、体調を考慮して部屋に閉じこもっていた。以前の自室は封鎖され、リゼルヴァーンは別の部屋に移された。けれど何もない内装が味気なく、堪らなく寂しい気持ちが沸き起こり、ミゼリアに頼み込み、自室にあった数々の品物を運んできてもらっていた。大きく重いものは無理でも、小さいものなら飾るくらいはできる。なぎ倒された拍子に破壊してしまった物もあったが、それでもリゼルヴァーンにとっては大切な品であった。だから、壊れていてもなるべく収集してもらい、リゼルヴァーンは棚に飾りたてた。
その中のひとつ、並べていた黒い陶器の花瓶を手に取る。僅かに欠けた部分はあるが、まだ立派に花瓶の役目は果たせるだろう。下部は闇のように暗く、上部にいくにつれ次第に赤みが増すように彩られている。全体に散る小さな点が、銀の星が煌めくような模様に描かれていた。それは以前、いつだったか、ディルクの課題を見事成し遂げたときに、褒美としてユリシアが与えてくれたものだった。褒めてくれたことも、喜んでくれたことも嬉しく、この花瓶を見るたびに、そのときのことを思い出すのだった。
「あの頃、僕は兄上とよく花摘みをして遊んでいたっけ。ミゼリア母上とユリシア母上が喜んでくれるのが嬉しくて、いつもたくさん摘んで……。ユリシア母上は、自分の部屋にも花を飾るといいと言って、だから花瓶を送ってくれたんだっけ」
記憶の中のユリシアリが快活な笑顔を見せ、頭を撫でてくれる。蝋燭の炎のようにぽっと温かなものが胸に宿る。しかしその炎は、風に煽られたように不安定に揺らめき、消えてしまいそうな儚さをも持ち合わせている。
すうっと一筋、ゼルヴァーンの瞳から、溢れ出る滴が頬を伝う。あれ、と気づいたときには既に遅く、熱くなる目頭から涙はどんどん零れた。片手で目元を拭いながら、リゼルヴァーンはシリルのことをおもっていた。シリルのことが、気がかりでならなかった。
「兄上に会いたい」
口にすると、そのおもいが一層強く感じられた。
そうだ、会わないといけない。いまの兄上は、悲しみと苦しみのどん底にいる。部屋を出れば、連れ戻されるかもしれない。注意されたり、叱られたりするかもしれない。だけど、それでも、会いに行く。会いたい、いますぐに。
リゼルヴァーンはごしごしと目元を拭う。自室で悲しみに暮れるシリルの姿が眼裏に浮かび、ぎゅっと拳を握りしめる。そしていままさに部屋を出ようとしたときだった。
突然、扉が開いた。扉を打ち付ける合図もなしに開いたことにびっくりしたが、姿を現した人物を見てリゼルヴァーンは「あっ」と声を漏らした。
「兄上……!」
シリルは扉を閉めると、俯きがちな顔をあげてリゼルヴァーンを見た。少しだけ頬を緩めた笑顔が無理をしているように見えて、リゼルヴァーンの胸が痛む。
シリルに駆け寄り真正面から顔を覗き込む。近くで見るとよくわかる。顔が青白い。目の下のクマがくっきりと見える。以前より身体の線が細くなった。シリルは明らかにやつれていた。
一瞬言葉を失ったリゼルヴァーンに、シリルは平坦な声で言った。
「久しぶり。この間は災難だったね。まさかあんなことになるなんておもわなかった。気を失ったリゼルが心配だったよ。突然だったから、リゼルもびっくりしたんだよね?」
平然と言ってのけるシリルに、返す言葉が見つからない。心中には暗くて深い悲しみが、夜空のようにどこまでも広がっているのだろう。母を失った悲しみがどれほどのものか、想像しただけでリゼルヴァーンは涙が零れてしまいそうになる。だからシリルは、悲しみを殺そうとしているのだとおもった。リゼルヴァーンに心配をかけさせないために、悲嘆の心を隠しているのだとおもった。
けれど。ぞくりと、肌を撫でる冷たさが感じられるのは何故なのだろう。淡々とした言葉、穏やかに微笑む表情が、怖ろしくおもえるのは何故なのだろう。一度感じた疑問は、次第にリゼルヴァーンの胸の中で灰色の靄を発生させていく。
シリルは困惑するリゼルヴァーンに構わず足を進め、室内をぐるりと見渡す。そして棚に置いてある、リゼルヴァーンが大切に保管してある品々に目を留める。近寄りそれを手にとるシリルに、リゼルヴァーンは声をかけた。
「……兄上、覚えていますか? それは以前、僕がユリシア母上から頂いた花瓶です。リゼルも部屋に花を飾ったらいいと下さったのです。僕はその、黒から赤に変わる色合いが気に入っています。それからその隣にあるぬいぐるみは、小さなころ母上とユリシア母上が与えて下さったものです。少し汚れてしまっているけれど、いまでも大切にしているんですよ。それから壁にかかっているその絵は、以前腕の良い絵描きに描いてもらいましたよね。ひとつの枠の中に、みんなが一緒にいるのを見る度に、僕はすごく嬉しくなります」
そのときばかりは、沈黙が耐えられなかった。シリルを元気づけたいとおもったのは本当のことであったが、果たしてそれだけで舌が回っているのか、自分でもわからない。
絶えず口を開いていると、隣で、喉元で低く笑ったような声が聞こえた。その笑いは次第に肩を震わすほど大きなものになり、仕舞いにはシリルは腹を抱えて大笑いを始めた。仰天するリゼルヴァーンは、ただ目と口をぽかりと開いてシリルを見つめるしかなかった。
いままでのシリルの笑いは、いつだって穏やかなものだった。静かに、柔らかく、美しく清らかな『朝の月』の光みたいに笑う人だった。だからこのように哄笑をあげるのを見るのは初めてで、それに鬼気迫るものを感じてしまい、リゼルヴァーンは驚きに後退った。
――こわい。
シリルにいままで感じたことのなかった感情が、リゼルヴァーンの中で渦巻くのを感じた。直後――
耳を劈く音が部屋中に響いた。一瞬、なにが起こったのかわからなかった。
シリルが、棚に飾った品々を腕でなぎ倒しはじめたのだった。勢いよく振り回される腕で、棚から物が落下する。陶器や硝子といった壊れやすいものは叩きつけられ、既に欠けていたうえに痛めつけられて粉々になった。ぬいぐるみのように柔らかく壊れにくい物は床に放られたあと、無残にも靴底で踏みつぶされる。壁にかかっていた絵画は、懐から取り出した短刀で容赦なく切りつけ突き刺しズタズタにする。その間、シリルはずっと高笑いしていた。
我を忘れてしまったような姿が恐ろしく、いまにも逃げ出したい気持ちに駆られたが、それでもリゼルヴァーンはその場から動かなかった。恐怖に足が竦んでしまったのもあった。けれど、このまま逃げてしまったらいけない気がした。シリルを置いていくような、切り捨ててしまうような、そんなことはしたくなかった。そうしたら二度と、以前のようにはいられないとおもった。
「……っ、兄上、やめて下さい! 兄上!」
喉に詰まった塊を吐き出して無理やり声をあげたような、苦しい叫びがほとばしる。シリルは動きを止めるどころか、寧ろ身体を激しく捩りながら部屋中を荒らしていく。リゼルヴァーンはたまらずシリルにしがみついた。
「もうやめて下さい、兄上! どうか、どうか、静まって……!」
瞬間、身体が浮遊したとおもったら床に叩きつけられていた。打ちつけた背中と腰の痛みに呻きながら顔をあげると、哄笑をやめたシリルがリゼルヴァーンを睨めつけていた。
別人かとおもった。黄金の瞳は硬質な光を放ち、いままで向けられたことのない目つきに、凍てつくような冷たさと残酷さが垣間見えた。そこには確かに、魔王の血をひく者たる威厳や威光といったものが厳かに溢れている。
「ずっと、気に入らなかったんだ」
冷淡に、吐き捨てるように言うシリルにぞっとした。
「父上や母上たちから愛情を注いでもらっていながら、白髪故に怯えるリゼルが。すぐに傷ついてしまうリゼルが。弱いリゼルが。ずっとずっと、憎かった」
ひゅっと、喉元から変な音が出た。上手く息を吸い込むことができない。身体から力が抜けていく。シリルが発した言葉に刺し貫かれる。
そうか、兄上はずっと、僕のことを嫌っていたんだ。ひとりではなにもできない僕が、弱い僕が、本当は憎くてたまらなかったんだ。




