05
ユリシアは、リゼルヴァーンがたどたどしく淹れた紅茶を一口すると破顔した。緊張した面持ちで見つめていたリゼルヴァーンはほっと安堵の息を吐く。上手に淹れることが出来たのだと嬉しくなり、リゼルヴァーンは自身の紅茶を手にとった。
いつもは召使いが用意してくれるし、自分で淹れようとすると制される。家臣の目を盗み、一度だけ紅茶を淹れてみたことがあったが、とてもではないが口にすることが出来ない代物になった。小さなことではあるが、成長できたことが嬉しくて満面の笑みを浮かべた。
どれほどの腕前に上がったのだろうと期待しつつ、リゼルヴァーンはカップに口をつけ、こくりと紅茶を飲んだ。
「……んんっ!」
瞬間、吹き出しそうになり、慌てて両手で口を覆い、必死に喉に紅茶を流し込む。ぜいぜいと荒い息を繰り返し、ようやく呼吸を整えると、目の前のユリシアが大笑いしていることに気が付いた。
「ユリシア母上、笑うなんて酷いです!」
「ご、ごめんなさい……だって、リゼルの百面相が面白くってつい……!」
込み上げる笑いを押しとどめようと努力しているみたいだが、身体が小刻みに震えている。リゼルヴァーンはむすっと唇を尖らせた。
「やっぱり僕の淹れた紅茶は美味しくならないんだ……僕は何をやっても上手くいかない……」
不器用すぎる己が、怒りを通り越して悲しくなる。出来損ないは白髪だけで十分なのに。
「確かに、リゼルの淹れてくれた紅茶はびっくりするほど不味かったわね」
ユリシアの遠慮のない言葉に、リゼルヴァーンは「ううっ」と呻き、しょんぼりと肩を落とす。
「けれど、美味しかった。リゼルがあたしのために、一生懸命淹れてくれたんだもの。美味しくないわけがないじゃない」
ユリシアの言葉に顔を上げる。先程とは違って、温かさが滲む微笑みを浮かべるユリシアに、リゼルヴァーンは胸がぎゅっとなるのを感じた。悲しいときばかり、胸が締めつけられるわけではないのだとリゼルヴァーンは思考する。
ユリシアのはっきりとした物言いはときにリゼルヴァーンの心をぐさりと刺すこともあるが、それと同じように、裏のない言葉はリゼルヴァーンに喜びももたらしてくれるのだった。
「ありがとうございます、ユリシア母上」
「リゼルのそういう素直なところ、大好きよ」
もう一度紅茶に口をつけ、「やっぱり紅茶は不味いけど」と苦笑混じりに付け足された。
ユリシアの明瞭とした性格を好ましく思うのは、羨ましさや憧れを抱いているからだろう。常に周りの目を気にしてしまうリゼルヴァーンにとって、気高く堂々とした立ち振る舞いが堂に入るユリシアには、羨望の眼差しを送ってしまうのだった。
「僕もユリシア母上が大好きです。父上もミゼリア母上ももちろん大好きだし、兄上のこともだーい好き!」
「ギルもミゼリアももちろんリゼルのことが大好きよ。それにシリルだって、リゼルのことを大切におもっているわ。……近頃リゼルと会えていないせいか、シリルの元気があまりないのよ。だからあたしがリゼルの様子を見て、シリルに報告してあげようと思ってね。こっそり尋ねたってわけ」
「元気がないって、兄上は大丈夫なのですか?」
いつも快活な笑みを浮かべるユリシアが柔く微笑む。
「リゼルに会いたいって、言ってるわ」
シリルも同じ気持ちでいるのだとおもうと、リゼルヴァーンは堪らなく嬉しくなった。けれど、それと同じくらい悲しくもあった。
「……ごめんなさい。本当は貴方たちをこうやって閉じ込めておくのは良くないってわかっているのだけれど、でもいまは我慢してくれないかしら。天界との争いが落ち着くまで、もう少し待ってほしいの。でないと、貴方たちになにかあったら、ギルやミゼリアがどんなに悲しむか……もちろん、あたしだって」
膝に置いている手が、ぎゅっとドレスの裾を握りしめたのがわかった。沈痛な面持ちのユリシアを見ると、我が儘を通すことはできないとおもった。
半分閉じ込められた状態は息苦しく、精神的に参ってしまう。それにシリルにも気軽に会うことが出来ないのはつまらないし、楽しくもなかった。だから本当は部屋を飛び出してしまいたい。こんなことをするのはやめてと、ギルヴァーンやミゼリアに訴えたい。けれど、自分を大切におもってくれての行為だということも、リゼルヴァーンは痛いほど理解していた。
だったら、やっぱり我慢した方がいいんだろうな。それに、ずっとこの状態が続くわけじゃないんだろうし。天界との戦が終わるまでのことだ。それまでだったら、僕は我慢する。父上や母上たちの悲しい顔は見たくないもの。
リゼルヴァーンが胸の奥で新たに決意したときだった。肩に乗るクールウが突然、激しく羽ばたきを繰り返し、甲高い鳴き声をあげた。いままでにないほどの暴れ具合に驚いて、リゼルヴァーンはどうやってクールウを宥めたらいいのかわからず、おろおろとするばかりになった。肩から離れ、天井で旋回しだしたクールウは、断続的に鳴き声をあげた。
「どうしたのクールウ! 落ち着いて!」
叫ぶリゼルヴァーンに応じることなく、クールウは飛び回ることをやめようとしない。途方に暮れるリゼルヴァーンの向い側で、ユリシアが天井のクールウを見上げていた。しかし、その表情はリゼルヴァーンの困惑顔とは違い、深刻なものであった。クールウに目を向けているが、別のものを見ているようにおもえた。
唐突に変わってしまった部屋の空気に、リゼルヴァーンは不安になる。突然奇声を発して宙を飛び回るクールウも、物も言わず神妙な顔つきでなにかを思案するユリシアも、リゼルヴァーンを怯えさせるには十分だった。
「ユリシア母上……?」
恐る恐る声をかけた瞬間――
リゼルヴァーンは吹き飛ばされていた。凄まじい衝撃波が横殴りに襲い、一瞬で床に倒れ伏す。なにが起こったのか理解しようとするが、頭が混乱してまともな思考ができない。程なくして身体の痛みを感じた。ズキズキする腕や足を庇いながら頭を上げると、リゼルヴァーンは言葉を失った。
部屋のものが全て倒され、散乱していた。花瓶や絵画、小さな棚といった比較的軽いものから、ソファーや寝台、円卓といった重いものまで、全て等しく同じ方向になぎ倒されている。割れた窓の破片が床に飛び散り、倒れたカップから零れた紅茶が、真紅の絨毯に濃茶の染みを作っている。
一体、なにが起こったの? どうして突然こんなことに……!
「ううっ……」
呻き声に気づき視線を巡らすと、向い側でなぎ倒された机とともに伏したユリシアを発見した。重い身体をなんとか立ち上がらせユリシアのもとへ向かう。
「ユリシア母上! しっかりして! ユリシア母上!」
「リゼル……大丈夫? 怪我してない?」
ユリシアはゆっくりと身体を持ちあげると、存在を確かめるようにリゼルヴァーンの両腕を痛いほどに掴んだ。美しかったドレスはあちらこちら破け、ほつれてしまっていたが、ユリシア自身に大きな怪我は見られなかった。リゼルヴァーンは大きく息を吐いた。無事で良かった、と心底安堵する。
しかし次には、同じくこの部屋にいたクールウのことが気になった。天井を旋回していたが、いまはその姿もなく、鳴き声もしない。悪い考えが頭の中を駆け巡り、リゼルヴァーンは必死に部屋を見回した。しかし視界に映るのは乱れた風景ばかり。おもわず踏み出すリゼルヴァーンに、後ろからユリシアの制止する声が聞こえた。けれどクールウを探さずにはおれなかった。割れた窓から飛び立ったわけではないだろう。この散乱した部屋のどこかで倒れているに違いない。
「クールウ! クールウ!」
名を呼びながら、「どうか無事でいて」と必死に祈る。折角出来た友達なのだ。シリルと二人で世話をすると決めたのだ。無事でいてくれなければシリルが悲しむ。
部屋の隅に視線を送ると、紫紺の物体が目に飛び込んできた。艶やかな紫紺の翼が無残に広がり、頭にある真紅の模様がやけに大きく見えた。クールウは身動ぎひとつせず、床のうえに転がっていた。
「……っ! そんな……」
クールウの無残な姿に衝撃を受けるリゼルヴァーンは、弱々しい足取りで近づき、床に膝をつく。先程まで肩に重みを与えていた紫紺の鳥を、そっと両手で持ち上げた。温かな熱がリゼルヴァーンの掌に伝わる。けれど、微動だにしないクールウは既にこと切れていた。
なんでこんなことになったんだ。なんで、なんで……
クールウを見つめながら、頭の中で「何故、どうして」という単語が飛び交い、それがリゼルヴァーンを掻き乱した。
――それ故に、リゼルヴァーンの背後はあまりにも無防備であった。
「危ない! リゼル!」
その声は扉の方から聞こえた。けれど、鈍く、奇妙に耳につく音は背後から聞こえた。柔らかなものが素早く引き裂かれたような、心地よいとはいえない音。
振り向いたリゼルヴァーンが見たのは漆黒だった。しかし直ぐに、眼前に広がる黒が人の後ろ姿だと気づく。左右に広がる長髪、破れとほつれが随所に見られるドレス。それらは濃い影となって、リゼルヴァーンの視界を遮った。
「え……」
見上げる目の前で漆黒の髪の毛が宙に靡き、闇と真紅のドレスがふうわりと翻る。術を使っているわけでもないのに、その光景はゆっくりと流れてリゼルヴァーンの目に焼き付いた。
仰向けに倒れ込むユリシアに、リゼルヴァーンは絶叫した。
「ユリシア母上っ!」
ユリシアは胸から胴にかけて鋭い刃で斬りつけられていた。かなり深い傷だ。ユリシアから流れる血が、床に血だまりを作っている。
リゼルヴァーンは何度も何度もユリシアの名を呼んだ。ユリシアは弱々しく瞼と口を開いたが、焦点は合っておらず、唇から音が零れることはなかった。
だんだんと熱が失われ、掌で固く冷たくなっていくクールウ。目の前で、いまにも消えてしまいそうな命の灯火をともすユリシア。その事実が、リゼルヴァーンの心を粉々に打ち砕こうとしていた。
「母上……」
頭上で響く声に顔を上げる。そこには、表情を失ったシリルが立ち尽くしていた。瞬きもせず、一心にユリシアを見つめている。
ユリシアは焦点の合わない目で、必死にシリルの姿を探しているようだった。やがて少しづつ口を開き、苦しげに息を吐く。
「……シ、リ、ル」
唇を震わせながら小さく呟いた声は、慈愛に満ちた声音をしていた。




