07
誰かが大声を上げている。その叫びは名を呼んでいるのだろう。何度も何度も、同じ響きが耳を打つ。
「何かあったのかな?」
声のする方へ視線を移し、アキはリゼルヴァーンに問いかけた。しかし反応が無い。窺うように覗き見ると、リゼルヴァーンは緋色の瞳を不安げに揺らし、視線を遠くに飛ばしていた。先程まで染まっていた頬は色を失い、変わりに蒼白に近い肌色を宿す。目を細めたまま微動だにしないリゼルヴァーンが心配になり、アキは堪らず肩を揺すった。
「ね、リゼル。行ってみよう」
我に返るリゼルヴァーンは「ああ」と短く返事をする。その様子に不安を覚え、アキの胸中は痛んだ。しかしそれを振り払うようにアキは頷き返すと、声が上がる庭園の外へともに駆け出した。
庭園を越え、回廊へと足を急がせる。途中にある、草木の生い茂った通りに人影が見えた。それが見知った人物だと分かると、アキとリゼルヴァーンは急いで駆けつけた。
こちらに気付いたロネットが緊迫した面持ちでリゼルヴァーンに駆け寄る。隣に居るナジは喘ぐ胸を押さえ、苦しそうに俯いていた。
「リゼル様……陛下が倒れたそうです」
ロネットの言葉にリゼルヴァーンは目を瞠り、一瞬言葉を失う。しかし直ぐに険しい表情へ戻すと、落ち着いた声で問いかけた。
「……母上はどこに?」
「第二私室に運ばれているそうです。先程ラースが城内へ入っていったんですけど……」
言葉を濁し、ロネットは困ったように眉を八の字にする。
「アイツ、場所も聞かないで行くなんて」
ロネットの呟きが耳に届いたアキは驚いた。いつも落ち着き払った態度で居るラースが、場所を尋ねずに向かうなど相当慌てていたのだろうと推測した。やはり女王に対しての忠誠心はかなり高いに違いない。
「分かった。俺も母上の許へ向かう」
言ってアキに向き直り、リゼルヴァーンは済まなそうな瞳を向けた。
「すまん、アキ。折角花冠の作り方を教わっていたのに」
大事そうに持つのはアキが作った花冠で、リゼルヴァーンは切なげな視線をそれに落とす。アキは力いっぱい首を振った。
「ううん。早く、女王陛下のところへ行ってあげて」
教えることはいつでも出来るから、と付け加えて微笑む。リゼルヴァーンはくしゃりと顔を歪めて笑みを返すと回廊を駆けていった。
「私達はどうしましょうね」
静かに呟くロネットの声は、リゼルヴァーンの後姿を見つめるアキの耳にも届いた。荒い咳払いを数回繰り返してから、ナジが言葉を紡ぐ。
「大勢で行っても、邪魔になるだけかと。俺達は控えた方がいいと思うっす……」
「そうね。リゼル様とラースに任せておきましょう」
アキは不安を宿しながらも、ロネットとナジの話に頷いた。自分が行っても出来ることは何もない。寧ろ邪魔になるだけだろう。ならば二人が戻った時に女王の様子も、事情も伝えてもらえばいいのだ。
アキは二人の後に続き回廊を渡る。もう少しで渡り終えるという寸前で、しかし、アキは足を止めた。
不意に襲った身体の震えに、我が身を両手で抱く。唐突に心臓が大きく跳ねた。それと同時に懐かしい感覚と、恐怖に似た気配を感じ取る。
これは……この感じは……!
瞬間、アキはリゼルヴァーンが向かった入り口へと足を走らせた。進む方向とは逆へと走るアキに驚き、ロネットとナジが同時に叫ぶ。しかしそれに返答する余裕もなく、アキは逸る胸を押さえながら回廊を渡った。
◇ ◇ ◇
城内の歩廊を早足で進むリゼルヴァーンの心中は穏やかではなかった。ミゼリアの容態が心配でならない。
昔から臥せることはよくあった。身体が弱いミゼリアは、リゼルヴァーンが物心付く以前から床につくことが多かったという。それでも何とか、薬や術のおかげで今まで生き永らえている。悪魔と言えども、不死ではない。ただ長命で、老いがとてつもなく遅いというだけだ。確かに人間より、身体も随分と頑丈であろう。ちょっとやそっとのことで命が潰えたりはしない。しかしそれでも、不死身という訳ではない。人間と同じように、身体の弱い者、病に臥す者、傷を負う者は悪魔にでもいる。
悪魔にとって“死”は見え難く、霞の様なものだ。リゼルヴァーンにとってもそれは同じであった。しかし、ミゼリアは。女王であり、母であるミゼリアは、果たして“死”は遠い存在であるのだろうか。
淡く微笑むミゼリアの姿を思い出す。優しく、時には厳しく、リゼルヴァーンを温かく見守り、愛情を注いでくれる唯一無二の母親の姿を思い浮かべる。
大事が無ければいいのだが。
痛みを堪えるように拳を握り締め、唇を噛み締めた時だった。
突然、どくりと心臓が跳ねた。次第にその高鳴りは大きくなり、緊張と不安が胸を支配する。
懐かしい響きを感じ取った。それは静寂の中の闇。音も色も無い、絶対的な虚無。
リゼルヴァーンは足を止めた。今まで歩廊を歩いていた女中や兵士が誰一人として居なくなっていた。石壁をアーチ型にくり貫いて作られた通気孔から冷たく湿った風が吹き、リゼルヴァーンの白髪を靡かせる。目に覆った髪を払いのけると、いつの間にか前方で、背を壁に凭せかける男がこちらを眺めていた。
錆色のローブをポンチョの様に着こなし、『昼の月』の様に煌く橙の髪を風に靡かせる。金色の瞳は穏やで、微笑を宿すその顔は驚くほど端麗であった。
姿を認めて、またどくりと心臓が跳ねる。尋常でない程の喉の渇きを覚えた。薄く開いた口からは意味を持つ言葉が発せられず、瞳は真っ直ぐ男を凝視し続けた。
男は微笑を浮かべたまま、ゆっくりとした足どりでリゼルヴァーンに近づく。カツンカツンと、男の足音が歩廊に響く。それをどこか夢のような感覚で、リゼルヴァーンは耳にしていた。
足音が止まる。男はリゼルヴァーンの前まで来ると、にっこりと笑んで口を開いた。
「久しぶりだね、リゼル」
さも気楽に、愛想よく話しだした男はリゼルヴァーンを見つめる。リゼルヴァーンは未だ驚愕の表情を宿したまま見つめ返した。
「いつぶりになるのかな。もう数千年会っていなかったような気もするし、たった数年会っていなかっただけのような気もする」
くすくす笑うと更に目尻が垂れた。その様がリゼルヴァーンに“あの人”を思い起こさせる。痞える言葉を無理やり口に出した。尋ねずにはいられなかった。
「何故……どうして、ここに……」
リゼルヴァーンの発言に男は首を傾げる。顎に手を添える仕草が上品だった。
「どうしてって……駄目かい? 俺が居たら、変かい?」
「違う! そうではない! そうではなくて……っ! 何故っ」
まさか、本当に――
「リゼル!」
背後から聞こえた声に振り返る。息を切らして駆けつけたのだろうアキの表情が、瞬時に愕然としたものへと変化した。見つめる視線の先はリゼルヴァーンではなかった。少しも瞬かず男を見つめるその様子が気にかかる。ゆっくりと口を開くアキの顔には、不安と恐れの色が入り混じっていた。
「……やっぱり、貴方だった」
震えるように発する声には緊張が滲み出ていた。リゼルヴァーンはアキを見返す。
「アキ、知っているのか?」
そんな事あるはずがない。アキが知っているはずがない。この人を見たことがあるなんてそんなこと――
「こんにちは。また会えて嬉しいよ」
柔和な微笑みをアキに向ける男の言葉が、リゼルヴァーンの心を掻き乱す。知らぬ間にアキと男は会っていた。そのことがリゼルヴァーンを酷く不安にさせる。
「キミはアキっていうんだ。美しい響きの名前だね。……魔界では、あまり聞かない名だけど」
薄っすらと微笑む男はアキを見つめてから、ゆったりとリゼルヴァーンに視線を移す。男は更に口角を上げて、目尻を下げた。
「おや、リゼルは嫉妬しているのかい? そんなに眉間に皺を寄せて。綺麗な顔が台無しだよ?」
「……教えて下さい。一体貴方はいままでどこに居たんですか、シリル」
リゼルヴァーンの問いに男はくつくつと笑う。その微笑に嫌味はない。優しげな眼差しを向け、眉を下げた。
「悲しいな。また昔みたいに呼んでほしいよ、兄上って」
はっと息を呑む音と共に、アキがこちらを窺う気配がする。しかしリゼルヴァーンはじっと男を見つめ続けた。真向かいに見える黄金の瞳もまた、リゼルヴァーンを射て放さなかった。




