04
自室を出たアキは一直線にダイニングキッチンへと向かった。近づくにつれ、耳に届く二つの声が大きくなっていく。帰宅した父親と、母親の諍いの声だとアキは直ぐに察した。アキは扉を小さく開くと中を覗き見た。最近は居合わせても互いに見向きもしない状態が続いていた為、会話を交わす姿を見たのは久しぶりのことであった。
いつも見るスーツとは違い、見たことのない私服を着る父親はいつもよりお洒落をしている様に見えた。電話を終えた様子の母親と、激しく言い争いをしている。ここまで強い口調で争う姿は初めてのことだった。
「もううんざりだわ。貴方とはやっていけない」
「何だ、離婚するとでも言うのか。そんなこと簡単に許すことは出来ん」
「貴方だって離婚したいと思ってるんでしょう? なのにしようとしないのは、自分の体裁が悪くなるからなんでしょう? いつもいつも、自分のことばかり」
「お前だって、本気で離婚したら好き勝手買い物したり遊んだり、思うように金を使えなくなるから躊躇ってるんだろう? 自分のことばかり考えているのはお前だろう」
開いた扉から、険悪な空気が苦しいほどに漂い、アキの心を痛めつける。こんな二人は見たくない。互いに罵りあう姿を、黙って見ていられなかった。
「お父さん、お帰り! 今日は、二人とも早かったんだね」
堪らず、二人に割って入って声をかけた。震える声を悟られないよう、必死に喉の痛みを堪えた。
アキに気付くと二人はじろりと目線を下げる。見下ろされる視線が酷く冷たく見えた。
「あ、あのね。お母さんとお父さんに、見せたいものがあるんだ。今日、ずっとこれを作ってたの」
後ろ手に隠していた花冠を二人にそっと差し出した。丁寧に扱ったつもりだったが、それでも時間が経過した所為か、花や茎は萎れ気味であった。本当はもっと綺麗に出来上がった状態で見て欲しかったが、それでも輪っかに出来た嬉しさを二人に伝えたかった。
何て言うかな。褒めてくれるかな。喜んでくれるかな。笑ってくれるかな。
少しでも、二人の意識がこっちに向いてくれたなら。諍いを止めることが出来たなら。
しかし、返ってきた言葉はアキの欲するものではなかった。
「ちょっと、そんな物家の中に持ってこないでよ。汚れるじゃない」
花冠を見た瞬間、母親の表情が更に歪んだ。身体を仰け反らせ、汚い物でも見るような目を向けている。
「そんなくだらん物を作ってどうする。必要ない物は捨ててきなさい」
続く父親の表情も同じく歪んでいた。二人の様子に咄嗟に言葉が出てこないアキは、花冠をぎゅっと握り締めることで痛みを抑えた。父親は深い溜息を吐いて嫌悪感を露にすると、今度は母親に矛先を向ける。
「お前がそんなだから、亜季も遊びまわる不良になるんだ」
「また私の所為にするつもりなの? 自分のことは棚に上げて、よくそんなこと言えるわね」
アキの存在を無視したまま、アキを問題に挙げる。しかしアキのことを考えているように見えて、実は全く考えてなどいない。今度はアキを使って、相手を罵っているにすぎない。
幼いながらも、アキにはそれが解った。子供だからこそ敏感に感じ取り、そしてその言葉は深く心を抉った。
ああ、伝わっていない。聞こえていない。私のことなんて、見えていない。
だけど、それでも二人のことが好きだから。大好きだから。喧嘩なんてしてほしくない。いつかみたいに、笑ってほしい。また仲良く三人で、笑い合いたい。
懇願の瞳で見つめるアキに気付かず、二人は再度諍いを始める。加熱する勢いは、もう口を挟む隙もない。
「いい加減にして! 貴方に行動を制限されるなんてまっぴらなのよ!」
「養ってもらっておいてその言い草は何だ! こっちだってお前の浪費癖にはうんざりなんだよ!」
「それじゃ、やっぱり離婚しかないわね」
「今すぐには無理だ。せめて亜季が二十歳になるまでは」
「また世間体? 嫌よ、そんなに待てないわ!」
「それなら高校を卒業するまでは待て。お前だっていま離婚しても、良いことなんて何もないだろう」
「分かったわ、高校ね。高校を卒業したら、即離婚よ」
取り決められた事柄は、アキを絶望させるに十分だった。離婚が何なのか、どんな意味を持っているのか。知らない、解らないと簡単に言ってしまえる年齢でもない。するしないを繰り返していた言葉であったが、いざ決定付けられると、その言葉がずっしりと心に重しを乗せる。一番恐れていたことが、起こってしまった。
言わなきゃ、言わなきゃ。嫌だって。離婚しないでって。私は、三人一緒がいいって。
「亜季、高校を卒業するまでに、どっちに付いて行くのか決めておきなさいよ」
直ぐ傍に居るのに、母親の声が遠くに聞こえる。どちらかなんてそんなこと、考えたくも無い。
震えるのは拳だけではなかった。悲しみと苦しみと寂しさで身体中が震えていた。乾いた口を無理やり開く。伝えなければと必死だった。
「離婚、しないで。嫌だよ。私は、お父さんが居ないと……お母さんが居ないと……!」
三人、一緒じゃないと。
「お母さんが居なくたって、亜季は大丈夫でしょ? 器用だから、一人で何でも出来ちゃうし」
「え……?」
思わぬ言葉に、アキは悚然と立ちすくんだ。いま何と言ったのか、瞬時に理解出来ない。
「それなら、お父さんが居なくたって、亜季は平気だな?」
父親の言葉に、更に打ちのめされる。
何で、そんなことを言うの。何でそんな、悲しくなるようなこと。それじゃあ、まるで――
「ちょっと私に押し付けないでよ。貴方の方が給料高いじゃない!」
「ふざけるな。男が居るんだろう、知ってるんだぞ!」
「それなら貴方だってそうでしょ!」
声が響く距離に居るのに、伝えても響かない。手の届く距離に居るのに、伸ばしても届かない。
母親の怒号が、いやに耳に付いて鼓膜を震わせた。
「だから言ったのよ! 子供なんて産みたくないって!」
――まるで、私は要らないみたい。
もう、その場にとどまっていることは出来なかった。争いが続く中、アキはダイニングキッチンを抜け出した。
あまりにも強く握り締め過ぎて、花冠は輪っかでなくなってしまっていた。
中学に上がってからも、アキは家事をこなしていた。当然、母親と父親の関係が良くなることはなく、互いに帰宅の時間は更に遅くなった。家に帰ってこない日も増え、アキは一人きりで一日を過ごすことが多くなっていた。
「亜季ってさ、ノリ悪いよね」
いつかの放課後の教室で、そんなことを友人に言われた。反射的に返したのは、乾いた笑いと「ごめんね」の言葉だった。
「部活にも入ってないのに、寄り道は出来ないとか言うし。本当はさ、あたし達のこと嫌なんじゃないの?」
「そんなこと、ないよ」
アキの言葉に、友人は目を細める。眉間に刻まれる皺が、訝る様子を見せていた。
「……亜季って嘘っぽいよねー。笑ってても本心じゃなさそうっていうか。何か冷たいよね」
「そんな、こと……」
あ、やばい。またこんな。
言われて余計に表情が固くなる。蛇に見込まれた蛙の如く、アキは動けなくなった。
「どうせあたし達なんて居なくたって、亜季は一人でも平気なんでしょ? っていうか、どうせ一人の方がいいんでしょ?」
やめて。お願い。聞きたくない。
「ま、亜季が居なくても、あたし達は楽しく寄り道してるから、別にいいんだけどねー」
きゃはは、と笑う声が胸に突き刺さる。何か言い返さないとと思えば思うほど、言葉が喉に痞えて出てこない。
私だって寄り道したい。皆とおしゃべりして、笑って、そんな何気ない下校を楽しみたい。
……今日ぐらい、いいんじゃない? だって今日も二人共遅いはず。少しくらい遅くなったって、二人は居ないんだからバレやしない。そうだ、絶対にバレない。だから、今日は。今日こそは皆と一緒に寄り道しよう。
開きかけた口を噤んだのは、アキより先に別の友人が話し始めたからだった。
「そう言えばさ、亜季ん家って両親の仲悪いんでしょ? 離婚するかもしれないんだって?」
「マジで? 最悪じゃんそれ。もしかして、寄り道出来ない理由と何か関係あるとか? 可哀想~」
労わる素振りをしながら、アキを意味ありげな視線で、冷たい瞳で見つめている。
何で、そんなことを言われなくちゃならない。何で、そんな目で見られなくちゃならない。
拳を握り締め、対抗するように目を見据えて口を開く。緊張から、声が小さくなった。
「私は可哀想なんかじゃ、ないよ」
「あたしは可哀想だと思ったんだけど。……ま、いいや。あたし達帰るから。じゃあね亜季、ばいばーい」
友人達が楽しげな笑い声を上げて遠ざかって行く。周囲のクラスメイトも、皆明るい声で話し、笑い、遠ざかる。
自分一人、誰からも見えていないかのような錯覚に陥る。それとも自分が、居るべきでない場所へ迷い込んでしまったのだろうか。
嫌いだ。嫌い嫌い嫌い。
違うと言っているに聞きもせず、決め付けて、嘲笑うだけの友人達が嫌い。
私が寄り道できないのも、明るく笑うことが出来ないのも、全部お父さんとお母さんの所為だ。
偉そうで傲慢で、自分勝手なお父さんも。汚くてずるくて、産みたくもない私を産んだお母さんも。
自分達のことばかり考えて私を見ようとも、分かろうともしてくれないお父さんとお母さんが嫌い。
皆、私が一人でも大丈夫だなんて、そんなの勝手に決め付けないで。
嫌い嫌い、大嫌い。
こんな、醜い感情を抱いてしまう、自分自身が一番、大嫌い――




