05
「やっと三分の一、終わったってところかな」
アキは長い廊下を見つめ、小さく息を吐いた。あれから夢中で箒を動かし続けていたが、まだその長さの半分にも満たない。どれ程時間が経ったのだろう、窓の外の月を見る限りそれ程時間が経過したようには見えなかった。
「よし、もうひと頑張り!」
自分に言い聞かせるように呟いて、アキはまた箒を動かし始める。
「うーん、偉いわねー!」
突如聞こえた声に、アキは顔を上げた。目の前には先程の金髪の女性が、関心した様子で佇んでいた。いつの間にそこに居たのだろう。ラースと同じく、気配を全く感じなかった。
「えっと……ロネット、さん?」
「さんは付けなくていいわ。ロネットで十分」
にこりと微笑みアキに近づく。そして、頭の天辺から足の爪先までをロネットの視線が往復し、じろじろと見つめられる。
何だろう。何でこんなに、観察するみたいに見られているんだろう。
疑問の中に不安と羞恥が生まれる。まるで鋭い矢に射抜かれているような気分になり、堪らずアキは口を開いた。
「どうかしたんですか? 私に何か用でも?」
努めて明るい声を上げる。ロネットは視線を絶えず動かしたまま、変わらぬ口調で答えた。
「うん。アキちゃんに少しだけ質問したくてねー」
「し、質問……ですか?」
「そんなに身構えなくても大丈夫。二三、訊きたいことがあるだけだから」
やっと視線をアキの目に据えると、すっと真剣な眼差しへと変化させる。その瞳を、逸らすことが出来ない。金縛りにあったみたいに、アキはその場から動けなくなってしまった。それ程、彼女の瞳には不思議な魔力のようなものが宿っていた。
「貴女、リゼル様に召喚されたのよね?」
「はい、そうみたいです」
「貴女は、人間……なのよね?」
「人間ですけど……何故ですか?」
何故、そんなことを訊くのか。その問いに、何か意味があるとでもいうのだろうか。不安がずしりと胸を占めた。彼女は何かを探っている。その何かは分からないが、確実に疑惑に満ちた眼を向けているのは明らかだ。
くすぶる気持ちを抱くアキに、ロネットはくすりと笑ってみせる。
「ごめんなさいね。別に貴女のことを疑ってるとか、そういうことじゃないの」
「じゃあ、一体……」
一体、何だというのだろう。
アキの不安を感じとったのか、ロネットはそれまでの計るような眼差しから一変して、優しげな笑みを浮かべた。こんな笑顔を向けられれば、大抵の男性はイチコロなんじゃなかろうか。ふわりと花が舞うような笑顔に、アキは見惚れてしまっていた。
「ちょーっと、アキちゃんに興味があってね。それだけ」
ロネットは言って可愛くウインクする。こんな動作も無理なく似合う。不安を和らげようとしているのが分かり、アキは安堵し笑みを零した。
悪い人では無さそうだ。何か探ろうとしていることは確かだが、彼女の明るさや纏う雰囲気が悪意を持っていないのが分かる。
微笑むアキの表情に、ロネットは驚いたようにまじまじと見つめた。さっきとは違う、窺うような眼で見つめてから、ロネットはぎゅっとアキの手を握った。
「アキちゃん、貴女笑ったほうが絶対良いわ。その方が可愛らしい」
「え、あ、そ、そうですか?」
「そうよ! 可愛い顔してるんだから、笑顔でいないと勿体ないわよ!」
握り締める手に力を込める。そこまでして力説する程自分が可愛いとは思えないが、好意はとても嬉しかった。何せ力いっぱいに可愛いと言われた例がなかっただけに、嬉しくないわけがなかった。しかも相手は魅力的な年上の女性だ。そんな彼女にここまで言われて光栄だと思うと同時に、喜ばしくもあった。
「はい、有難うございます」
素直に好意を受け取り、アキは頷き自然と微笑んでいた。
その様子に満足そうな笑みを浮かべるロネットの頬が、少し赤い。よく見ると、小刻みに肩と手が震えている。どうしたんだろうと思っていたら、我慢も限界とばかりにロネットが正面からアキを抱きしめた。甘い香りが鼻腔を突く。慌てるアキを余所に、ロネットは抱きしめる腕に力を込める。
「ああ、もう、可愛いっ! そんな顔されちゃったら、堪んないじゃないのよ~!」
ぐりぐりと頭まで撫で回される。当然、そんな事態に慣れていないアキはただ戸惑うばかりで、ロネットの成すがままになっていた。
しかし、嫌だとは感じなかった。逆に温かささえロネットに感じていた。それは兄弟のいないアキにとっては、姉のようだと感じる親しみであった。
姉が居たらこんな感じだろうか。何でも相談出来るような、温かい気持ちを抱くような、そんな存在になったのだろうか。
そんなもしもを考えて、ふっと笑みが零れた。さっきまでの不安は、もう跡形もなく消え去ってしまっていた。
「あの……私からも、訊きたいことがあるんですけど、いいですか?」
「なあに?」
抱きしめられた状態のまま、アキはロネットに呟く。
「胸が苦しくなって、痛いとか、切ないとか、感じたことありますか?」
それは誰にも訊けずにいた、今のアキの最大の悩みであった。自分の身に降りかかったこの出来事の、対処の仕方が分からない。自分自身では到底解決出来そうにないと思っていた。そんな折の、ロネットの登場である。自分より遥かに経験豊富であろう彼女に意見を求めることは、アキにとっては自然な成り行きとも言えた。
アキの呟きにロネットは目を見開く。そしてにやりと、意味ありげな楽しそうな表情を浮かべた。
「なになに~? そんなことを訊くってことは、もしやアキちゃん、恋してる?」
「え!? 恋っ!?」
思わぬ返答に驚き、間近にロネットが居るにも関わらず、アキは大声を上げていた。
「やだ、何でそんなに驚いてるの?」
あまりの仰天ぶりに、逆にロネットが驚いて身を引いた。しかしアキはそんなロネットを気にするどころではなかった。
「だ、だって! 私、別にそんなつもりはなかったのに……っ! リゼルにそんな気持ちを抱くなんて……」
するりと口を衝いて出た言葉に、ロネットが目を細める。優しげな表情というよりは、面白い獲物を見つけたと言わんばかりの笑みを浮かべている。
「ふーん、リゼル様にねえ。ちょっと詳しく訊かせて頂きましょうか?」
「え、いや、あのっ! 私、恋なんてしてませんっ!」
「何言ってるの。胸が苦しい、切ない、なんてのは恋する乙女特有の症状じゃない」
「そ、そうなんですか……?」
今までそんな感情を抱いたことの無いアキにとって、恋とは未知のものであった。友達が恋愛話をしていた時も、遠くの出来事のように感じていた。自分には降りかかることのないものなのだと、勝手に決め付けていた。それ故に経験の浅すぎるアキは、自身が恋をしているなどと、思いもよらなかったのだ。
「アキちゃんって無垢な子なのねー。ますます気に入っちゃったわ」
満面の笑みを浮かべるロネットに対して、アキは頬を染めるしかなかった。
まさか、自分が恋をしているとは思わなかった。しかも、リゼルヴァーンに対して。いつから好きになっていたのか、きっかけは何だったのか。考えてみれば、リゼルヴァーンの部屋を訪れてからのような気もするが、もっと前から好きになっていたような気もする。
そうなのだ。リゼルヴァーンはいつだって真摯で、いつもアキを心配し、気にかけていた。優しい、温かい言葉をいくつもくれた彼を、好きにならない筈がなかったのだ。
そう実感して妙に納得した。あの苦しみも痛みも、泣きたくなるような切なさも。リゼルヴァーンのことを好きだったからこそのものだったのだと、今更ながら理解した。
そしてアキの胸に、今までとは違う穏やかな温かさが宿る。それは心地良い安らぎでもあった。
「……これが、恋、なんですね」
噛み締めるように呟いて目を伏せた。じんわりと広がる想いは、確信したことによって更に大きく澄渡っていくようだった。




