01
もう秋だというのに、夕方のじめじめとした暑さが身体中を蝕んでいる。しかし、蝕んでいるのは熱気だけではなかった。
つまんない。つまんない。つまんない。
古川亜季は心の中で同じ言葉を反復させ、盛大な溜息を吐き出した。前を歩く友人二人は女子高生らしく恋愛話に花を咲かせ、亜季の溜息になど気付きもしない。
何がそんなに楽しいんだろう。
恋愛話に夢中になれることが、亜季にとっては不思議でならなかった。いつも同じような内容の繰り返しではないか。あの子が誰かと付き合いだしたとか、彼氏の愚痴であったり、芸能人の噂話、可愛い洋服ショップやいま話題になっているのスイーツの話。興味が無い訳ではないが、亜季には女の子特有の雰囲気が苦手でならなかった。
それに、つまらない理由はそれだけではない。学校での日々の繰り返しも苦痛だった。何の刺激も無い限られた空間の中で、ただ良い大学へ進むためだけに勉強を続ける毎日。生徒を導く立場の教師でさえ、皆同じに見えた。
それに、家では両親の口論を聞く羽目にもなる。子供が居ようが居まいが関係ない。離婚をするしないについての話が永遠と続くのである。
自分の居場所なんて何処にもない。亜季は常々そう思い続けていた。
何処か遠くへ行きたい。誰も知らない、見たこともない景色が広がる場所がどこかにあるはずだ。その場所へ行けば、私はきっといまより幸せになれる。
確証など何も無かったが、どこか確信めいたものが亜季の中にはあった。
ここではないどこかでだったら、絶対に幸せになれると。
ふと、亜季はまだ明るさの残る夕日を見つめて思い出した。
そういえば、今日は自分の誕生日だったような気がする。ここ何年も、誕生日らしいことは何一つしていない。
両親に最後に祝ってもらったのはいつだっただろう。それすら思い出せないくらい、特別な日ではなくなっていた。
今年もまた、いつもと同じ一日として、今日が過ぎていくのだろう。
「ニャア」
猫の声が道路沿いに伸びる草木の間から聞こえ、亜季は思わずそちらに目を向けた。
漆黒の猫が、こちらをじっと見つめている。警戒しているように見えるが、手を伸ばせば少しは触れることができるかもしれない。
亜季はおいでおいでをするように手を差し出すと、少しずつ猫に近づいていく。もう少しで触れられる。そう思った瞬間、「フーッ」と荒い声を上げながら猫は背中の毛を逆立てた。
そんなに怒らなくてもいいじゃない。少しくらい触らせてくれてもいいでしょ?
声に出さずに猫に抗議する亜季だったが、猫の視線の先が自分では無いことに気づき、振り返って視線の先を確かめる。
「何も居ないじゃない。キミ、何見てるの?」
もちろん答えを期待して話しかけた訳ではなかったが、どこか動物相手には話しかけてしまう習慣が亜季にはあった。
猫は未だ毛を逆立てて警戒していたが、それでも触りたくて、亜季がもう一度触れようと手を伸ばした瞬間――
自分の手が透けて光っているように見えた。
「え? 何これ……?」
驚いている間にも、光はどんどん強さを増し、身体中が透明になっていくのが分かる。
「嘘でしょ!? ちょっと!?」
驚きと恐怖で声が震えた。
こんなこと普通じゃない。きっと何かが起こっている。
光に包まれ不安に駆られたが、光そのものには邪気のような、禍々しいものは感じられないことに気付いた。
大丈夫。この光は安心できるものだ。
そのことに少しほっとしたが、光はなおその輝きを増していた。
やがて身体が完全に光に覆われた後、亜季はこの世界から跡形も無く姿を消していた。
その場に残った漆黒の猫は、「ニャア」と眠そうに鳴いた。