あかしの夜 (八)
後宮の中に満ちるやわらかな光は、月の明かりを想わせた。
月長石にも似た、玉らしき質感の壁も柱も床も、それ自体が薄く透けて発光しているかのよう。眠りに落ちる前の安らぎのように、微睡むような光が、仄かな明滅をゆったりと繰り返している。
通路は、進むにつれて流麗な分岐をいくつも重ね、曲がる時に他の支線を振り返れば、その突き当たり奥に扉らしきが確認できる――それが何度か続き、ローザは女官達に訊ねた。
「ここには、全部で何人くらいの側室のひとが住んでいるの。」
誰からともなく答えが返る。
「薔薇姫様をお迎えし、合わせて千と百十五の姫君がお住まいになっています。」
「そう、千百…」ローザは頷き掛け、
「千百十五!?」
思わず復唱する。――自分の他には千百十四名か、と心中で訂正しつつ、
――お妃って、そんなに要るものなの?
との疑問に、ローザはひとり、首を傾げる。とはいえ、さして重要ではないその疑問はすぐに消え、
「その、千百十四人の内、人間の姫って何人くらいいるの。」
と、ローザは質問を重ねた。
彼女達に会えたら、情報を共有し、ゆくゆくは彼女達を救出、或いは協力して共に脱出出来るかもしれない…そんな風にも考えていたローザに、しかし女官から返って来たのは、
「おられません。」
との答えだった。
ローザは瞬きをひとつ、訊き返す。
「いないって…一人も?」
「はい。」
ローザは少し考えて、
「…以前はいたけど、今はいないってこと?」
「いいえ。人の身にて御側室としてお上がりになった例は、此度の薔薇姫様の例が初めてでございます。」
ローザが初めて――では、あのラザードなる青年の、王の興趣に、という発言はどういう意味だったのだろう。
「“側室”じゃない何か他の目的で、王に所有されている人間はいるの。」
「御饌、がございます。」
「それ以外には?」
「わたくし共の存じ上げる限りでは、御饌の他には無きかと存じます。」
「内情を詳しく把握する役職のひとはいる?」
「おりません。其を知ろし召すのはただお一方、陛下のみでいらっしゃいます。」
ということは、他にも囚われている術師がいるかどうかは、魔王に直接訊かなければ分からないかもしれない。
それと、魔王がローザを側室にした目的も――こちらも確認のため、女官に質問してみる。
「私はどうして側室にされたの。」
果たして、女官から返って来た答えは、
「わたくし共は臣なれば、然は存じ上げません。」
やっぱり、とローザは頷き、そして思考を緩めた。
今は、これらの問題のどちらも、答えが明くべき時期ではないのだろう。
そう理解して、どちらも心の奥に留め、他の問題を考えることにした。
そうして他の、脱出の方法や魔王対策などをあれこれ考えつつ歩いていたローザだったが、やがていくつめかの岐路を経た時、ふと、視界に現れたものに思考から醒める。
分岐を曲がった先、前方奥に見えたもの。
突き当たりの扉を背に立つ、三名程の女官らしき女性達――その先頭の、紅い髪の女性にだけ、光が当たっているように、ローザの意識は吸い寄せられる。
ローザを見る、その紅い瞳。
目が合った瞬間、ローザの心の内を、月光が差し照らしたようだった。
その瞳を見つめたまま歩いてゆくと、やがてその女性はにこりと微笑み――そして、たおやかに礼をした。
しゃら、と簪ひとさしが揺れ、つややかに結い流された蘇芳色の髪が、細い首筋に、さらりと零れる。
女性が、ゆっくりと顔を上げる。
「此度の御入内、歓迎申し上げます、薔薇姫様。」
輝く美貌に笑みを浮かべて、女性は言った。
――なんてきれいなひとなんだろう。
満月が照らすような、或いは月下に咲き誇る紅い花のような――そしてどこか遠くて、それでいて近い…不思議な雰囲気の女性だと、ローザは思った。
その女性は、自らを女官長だと明かした。次いで、優美な所作で扉を示す。
「さ、此方が薔薇姫様の御部屋でございます。」
彼女の後ろの女官が、扉を開く。
ローザは、扉の向こうに視線を向けてから、
「…魔王は、中に?」
と訊ねる。女官長は「いいえ」と答えた。
「陛下は後程お見えになりますゆえ、薔薇姫様にはその前に御準備をなさって頂きます。さ、中へ。」
促されてローザは入り――そして思わず足を止めた。
広い室内。清らかに白い壁は朝露の白薔薇を思わせ、つややかな床は、ブランデー色に澄んで輝いている。
奥には窓があるのか、カーテンと思しき紅の帳が垂れ、右手奥には、こちらは天井から垂れた、紅地に金の刺繍の緞帳――かなりの横幅があることから、小部屋か何かを仕切っているのかもしれない。
かつて見たこともない程に美しい部屋は、だが何故だろうか、ここが以前からずっとローザの部屋であったような、しっくりと馴染む感じが、ローザにはした。
不思議な部屋だ、と思いながら見回していると、女官達がローザを促し、左手奥へと導く。
そこは扉の代わりに薄緑の布の垂れた、何かの入り口と見えた。木漏れ日の風を思わせる垂布をくぐると、その先には白い石造りの部屋が広がっていた。
少し先には陽射し色の羅でできた几帳があり、その奥へと導かれて――その先に現れたものを目にし、ひたり、とローザの足は止まる。
四隅を柱で支えた天蓋、その深い紫の帳の間に見える、花の浮かんだ、ゆらめく水面。
香気を含んだ湯気、温かな空気に満ちたそこは、白い石床に開いた、広い広い――浴槽。
ローザの中で、側室の意味が改めて閃く。
即座に回れ右をしたローザの体を、しかし左右からの女官達の手が止める。
「失礼致します、薔薇姫様。」
「え、ひゃあ、だ、だめ」
反射的にじたばた暴れるローザの、その全力の抵抗をものともせず、女官達はローザの衣服をすいすい脱がせて剥ぎ取ってゆく。
途中から抵抗を止めたローザは、導かれるまま、すっかり裸になった体を湯の中に浸し、髪も体も洗い上げられ、近くの長椅子に寝かされる。
側の台に並んだ小瓶の一つを女官が手に取り、蓋を開けた。
ゆらり、と流れた香りに、ローザは素早く顔を上げ、
「待って。」
と女官を制した。怪訝な顔をする女官。
ローザは嫌な予感を認識しつつ、小瓶を指差して問う。
「…それ、何に使うの?」
「御身にお塗り申し上げます。」
女官の答え。――ローザの悪い予感は的中した。
ローザは女官の目を真っ直ぐ見上げ、
「だったら、断るわ。」
と宣言した。
――この香り。
これをローザは、職業柄、良く知っている。これは、人間の理性を奪い狂わせる魔性の香り。通常、魔族がその身から漂わせているものだ。
――そう言えば…、とローザは思い出す。
今にして思えば、魔界で出会った魔族からは、この香りを感じない。
この香気は魔族の体自体が発するもの、というのが術師内での定説だが、そうでなく、実際にはこうした香油などを使って身に纏っていたのだとしたら――この香りを纏うことには、魔族にとっての何らかの意味があるのかもしれない。
“断る”とのローザの宣言を受けた女官は、一瞬目を見開き、しかしすぐに元に戻る。
「薔薇姫様、御身はこの後陛下に侍りなさるべきものにて、こちらを召さぬことなど許されません。」
ローザは彼女の目を見つめて問う。
「“誰から”許されないの。」
女官が目を見開いた。その目の奥を真っ直ぐ見据え、ローザは続けた。
「魔王は私のままの私を望んでいるのでしょう。その香油を使って、私が私で無くなることは、魔王の意図に反するわ。それに、私の都合にも反するし。」
この香り――術師であるローザはこの香りの持つ効果への耐性があるため、その影響は、さほどには受けない。だが相手は魔王、彼と話し合うにしろ回避するにしろ、可能な限りの万全の状態で臨みたい。
「だから、それは塗らない。」
ローザが宣言すると、女官達は、瞳に怒りと戸惑いを映しながらも、言葉を紡ぐことなく固まる。
ひと時の静寂を経て、
「ほほ、」
と、ふいに玲瓏たる笑い声が響く。
そちらを向いたローザの目に映ったのは、艶やかにも楽しげに笑う、蘇芳色の髪の美女の姿。
「是は、貴くも御心高き姫君に在しますこと。」
言も楽しげに、女官長はローザを向いた。その茜色の瞳の、興ありげな、どこか試すような眼差し。微笑を浮かべたまま、
「仰せのままに致しましょう。」
そう言って、彼女は女官達に香油を片付けるよう命じる。女官達は異議ありげな様子を示したが、女官長の一瞥に制され、渋々と従う。次いで指示のままにローザを仕上げ、柘榴色の薄いドレスに美々しく着飾られたローザは、彼女達に連れられて浴室を後にする。
明かりの落ちた部屋の中、真っ直ぐ導かれた先は、部屋の奥、あの緞帳のある場所だった。
その場所は、手前の床からは――階段状に、浅くゆるやかな段を少し重ね――やや高くなっている。厚みのある緞帳は、紅地に金糸の縫い取りで飾られたもの。
段の手前で歩を止め、女官長がにっこりと笑み、緞帳の方を手で示して言う。
「陛下は今にお見えになります。薔薇姫様には、此方でお迎え申し上げなさいますよう。」
女官長の言に、女官が二名、緞帳に手を添え、左右に引き開ける。
開かれた先をローザは目に映し――そして、首を傾げた。
仄かな灯に照らされたその中は、小部屋――と形容するには、奇妙な造りだった。
落ち着いた深い色味の布に覆われた、高さのある広い台。ふかふかとやわらかそうで、奥の方に、クッションがいくつか並べられた背凭れのあるそれは――
――ベッド…?
そう、ベッドだ。形だけはベッドそのもの。だが異様に広い。最低限の家具を揃えたら、中で質素な一部屋暮らしができそうなくらい。
ベッドと断定しかねて首を傾げたままのローザの耳に、ふいに扉の開閉の音が聞こえ――急いで振り向くと、傍から「ほほ」と女官長の笑い声がした。
「女官共が退室申し上げたのみにございます。陛下のお渡りではございませぬ。」
一瞬、王が来たかと焦ったローザは、「良かった…」とほっと胸を撫で下ろす。
女官長はもうひとつ笑って、「啓すべき事どもございますれば、私のみ残り申し上げました。」そう言い――そして、その場に跪き、伏礼した。
「此度、斯くもゆかしき姫君にお仕え申し上げること、真に嬉しく存じまする。」
いたずらっぽく言ってから顔を上げる。
その茜色の瞳が真っ直ぐローザを見た。
「吾が名を、ユーディア、と申します。以て参らせ下さいませ。」
と、再び伏礼を一つ、顔を上げたユーディアに、ローザは笑みを開く。
「宜しくね、ユーディア。」
そして、ローザも自分の名を明かす。
「薔薇姫様、」とユーディア。「其の本つ御名にてお呼びなされるは、ただ一所、陛下のみにて在します。是は、御側室となられた御方々の御慣習にございますれば、我ら臣共は、御側室としての御名にて、薔薇姫様、とお呼び申し上げまする。」
ユーディアの説明に、そうだったのか、とローザは納得する。
魔王からいきなり、薔薇姫、と妙な呼び方をされて以降、会う者皆からそう呼ばれていたが――重要な問題でもないから、突っ込みは入れていなかったけれど――そういう規則があったからなのか。
「分かったわ。」とローザが頷くと、ユーディアはにっこりし、
「また、今一つ。陛下に対し奉りては、どうか、“魔王”ならで“陛下”とお呼び申し上げられませ。――他の者共の前では殊更に。」
――“他の者の前では”…。
「うん、分かった。」
ローザは頷く。
「なれば、」とユーディアは笑む。「これにて私も退室申し上げます。――また明日に。」
「――うん。」
退室するユーディアを見送り、閉まる扉を見つめるローザ。
意識を澄ませ、気配を探る。程なくして、ユーディアが完全に遠ざかり、辺りに誰もいなくなったのを確認してから――ローザはそっと、扉を開けた。