(七)
青年達の導のままに引かれて歩く、通路はどこまでも真っ直ぐ続く。
脱出に備えて城内の構造を少しでも理解しておきたいローザは、周囲を観察しつつ、青年達に訊ねる。
「この通路って、“後宮”っていう所への一本道なの?」
ローザは前方、先導役の青年の後ろ姿の向こうを、ひょいと覗いてみたが、遥かな突き当たりに、一枚の扉らしきが見えるのみ。途中に分岐らしき造りは見えない。
質問に対して、ローザの左やや後方から「否」と応えが返る。
「この路は、女官の詰所への路です。」
丁寧なその物腰。先程、ローザに訓諭を授けた青年だ。
「そこには、何のために行くの。」とローザは彼に質問を重ねる。
「女所より先、後宮迄は女官共がご案内申し上げます故。」
「…もしかして、男の魔族は後宮に近付いちゃいけない?」
「いえ、そういう訳ではございません。」
「じゃあ、女官に交代するのはどうして。」
「女所より後宮へ続く路は、女官の領域だからです。」
“女所より後宮へ続く路”という言い方からして、ひょっとして、他にも後宮への経路があるのだろうか。
そう思い、ローザはそれを訊ねてみる。
すると、
「ございます。」
との返事。「但し、」と青年は続ける。
「一つは陛下のお通りになる路、故に御側室方をはじめ、いずれの臣も通るべきにはあらず。また今一つは将の詰所を経由する路――、こちらは、薔薇姫様がお通りになるには危険です。」
「危険?」
「はい。」
と青年は頷く。「御身は人間にてあられます故、将共から御自身を守ることは難きかと存じます。」
その言は、ローザには意外に感じられた。
「将校達が、私を襲うの?」
「その可能性がございます。」
「…食べるために?」
「それのみならず、魔は、魔を討つ人の気、殊にその気の濃きを、排除せんとする傾向がございます故。」
青年は言う。
ローザは首を傾げる。確かに、魔族には討祓者である術師の気を嫌い、排除する傾向はあるが…でも。
「でも、あなた達は私を襲わないように見えるわ。」
この青年からは――この三名からは、ローザに対する敵意も拒絶も、全く感じられないのだ。
だからローザは今の今まで、“側室”なるものは身の安全を保証された存在なのだ、と思っていたくらい。
ローザの言に、青年は少しの間、考える様子で沈黙してから、
「私共は他の官達とは違い、陛下御一方にお仕え申し上げる官なのです。」
と答える。
「陛下の御意志が私共の意志。故に他心はございません。」
静かな言の彼の目を、ローザは思わず見上げた。左右異色の紫と黄色の瞳の奥に、ちゃんと心の宿りが見えることからして――自我を消されているとか、操られているとかといった訳ではなく、心から望んで魔王に仕えているようだ。
「そう」とローザは頷く。
様々な心、立場、生き方の魔族がいるものだ、と改めて思う。そして“側室”が安全な立場である訳ではないという事実を心に留めた後、ローザは、他の、ずっと気になっていた疑問に思考を向ける。
「ところで、」とローザはその疑問を口にする。
「側室っていうのは、そもそも、具体的にはどんなものなの?」
“側室”の意味。
それは側室にする宣告を受けて以来、魔王に問い質しそびれたために、未だ謎のままである。
勿論、人間の間で言う“側室”の意味とは違うだろう。
人間の理と魔族の理が同じとは限らないのだから。
魔界での側室の意味について、ローザは初めは、“食糧”のことではないかと考えていた。
あのアンバーという青年との会話――彼曰く“彼女”とは“食糧”のことではない――はあったにせよ、広間を去る際に魔王が降した、
“閨にて乱すも愉しかろう”
という、あの大人発言。あれを受けてから、ローザの中では“側室イコール食糧”説が比重を増した。
だって、魔族の食事の方法とは、“そういうもの”なのだから。
人間の言葉で表現すれば、彼女にする、側室にする…そう喩えることもできる方法。
つまり、男女の関係を結ぶこと。
それが、魔族が人間の気を食べる方法だ。
だが、この異色眼の青年との会話を経て、食糧説も揺らぐ。
ただの食糧に対するにしては、青年の接遇は、丁寧過ぎる気がするからだ。
崇敬する魔王に献上する食物、を大切に扱うのは分かるが――その食物を貴人のように扱う必要があるだろうか。
側室というのは、何か、食糧以上に大切なものなのかもしれない。
そんな考えから問い掛けたローザは、しかし、自分がある可能性を見落としていることには気付いていなかった。
つまり、人間と魔族、互いに共通の慣習があるかもしれない、という可能性を。
青年が答を返す。
「如何なるもの、と仰られましても…その言葉の通り、陛下の御妃ですが。」
“御妃”
ローザは一瞬、その意味が理解できなかった。
訊き返す。
「お妃……って…?」
すると青年の異色眼が困惑を呈し、思案げにローザを見つめる。見つめることしばし、彼は再び口を開く。
「…人の間にも、男と女の契りがあるかと存じますが。」
「え…?」
男と女の…契り?
しばしの沈黙、思考の空白。やがて理解は、空白から浮かび上がるように閃く。
男女の契り。
それは――つまり。
「そんな、だって、」
人間のと同じ意味――同じ意味の――“側室”。
「じゃ、じゃあ、それってまさか、」ローザの混乱気味の思考から、問いが飛び出す。
「魔王の赤ちゃん生むってこと?」
口をついて出たローザの問いに、青年は「陛下、と申し上げなさるべきですが…」との訂正を挟みつつ、
「陛下との子をお生みになった姫君は多くおられます。」
ローザは絶句した。
口語回路は凍結されるも、思考の方は、自動で働き情報を解析してゆく。
つまり、そういうことだ。
魔族も人間と同じ方法で子供ができ、それは魔王の場合も同じ。
そして、ローザは何故か、魔王のその相手の一人に選ばれた。
「な、何で」ローザは、まだ混乱の残る頭で問う。
「私、人間で、術師なのよ?」
まさか王はそれを知らないんじゃ、と言おうとして、ふいに、ラザードなる青年の言が顕在意識上に飛び出す。
“此の女、陛下の興趣に入るやもしれん”
「…魔王は、人間の術師が好みなの?」
「…それは臣下の存じ上げるところではありません。…薔薇姫様、陛下をお呼び申し上げなさる時は、陛下、と申し上げなさいませ。」
青年はやんわり何度も諭すが、今のローザには勿論その部分は聞こえていない。
――そもそも、よく考えたら人間が側室になるって…それ、人間にとっては、食糧になるのと同じことじゃない。
ローザは思う。
魔族と男女の関係になるということは、つまり、人間であるローザにとっては、実質、食べられるということと同義。
そして人間にとって、魔族に食べられるということは、人間としての心を失うということだ。
魔族に気を食べ尽くされた人間は、人間の心を失う。姿形は人間のまま、心だけは魔性化し、魔物と呼ばれる存在になる。
それが、一般的な例。
それとは別に、――ローザは実際に見たことはないが――力の強い術師の場合は、魔性化せずに絶命する例もある、と、術師の間では言われている。
だから、ローザが魔王の側室になるなら、魔性化するか絶命するか、そのどちらかの状態になる可能性は考えられる。
ローザは訊ねる。
「側室とは言っても私の場合、人間なんだから、実質的には食糧になるってことじゃない?だって食事と同じ方法をとるんでしょ。」
青年は、しばし考えてから答える。
「此度の勅宣は、御食事ならで御側室としての御召し。ですからやはり、御饌と同じきとはなさらないかと存じます。」
「…ということは、食糧と違って、私はすぐには死なずに、しばらく生きて、王の傍――後宮で暮らすかもしれない?」
「はい。」
「うう…」
ローザは思わず呻く。
――そんなの、いやだ。
とローザの心が拒絶する。
食糧なら、まだいい。
術師故に常に覚悟をしているからだろうか、食糧になることは、ローザにとって、受け入れられないことではない。
だが、側室になることは。
好きでもない者と結婚し子供を生む、それはローザの心が拒絶する。
ローザはふるふると頭を振り、
――絶対に逃げる。
決意する。
すぐに逃げられないとしても、魔王とそうなることだけは回避してみせる。
そうなるべきなら、そうなるはずだ。
決意も新たに、流れを映し観るように心を澄ませ、歩き続けてしばらくの後、例の扉に至る。
開かれる扉の先に数名の女官達。導役は彼女達へと代わり、路の様相も変わる。白と銀を基調とした通路の、壁は花を思わせる繊細な彫刻が流れるように続き、床は銀か水晶か、時の止まった水のよう。
こつん、と続く足音が、水琴の音にも似て響く。
ローザは、ローザの周りを囲んでしずしずと歩く女官達を見た。
彼女達が持つ雰囲気は、どこか、先程の三名の青年達のそれと似ている。
あのラザードという青年やアンバーとは違う、またそれ以外の、ローザが過去に出会った魔族達とも違う、独特の雰囲気。
それはどこか、神官、巫女、そういった存在の持つ雰囲気に似ている――そんな風に、ローザは感じる。
「ねえ、さっき聞いたんだけど。」ローザは彼女達に話し掛ける。
「このお城には、王にだけ仕えるひとと、そうでないひとがいるのね。」
「然様です。」
振り向いた女官達の内、前を歩く一人が答える。
ローザは彼女に質問する。
「あなた達は、王にだけ仕える官?」
「然様です。」
「女官のひと達は、みんな王にだけ仕えてるの?」
「はい。」
「このお城の中で、王にだけ仕えるひとと、そうじゃないひと。どっちの方が多い?」
「然は、存じかねます。」
「じゃあ、このお城には、全部で何人くらいのひとがいるの。」
少し間があって、
「存じかねます。」
との答えが返る。
「そう…」ローザは質問の方をひと休みにし、周りを観察する方に意識を向けた。
しばらく行くと、先の方から流れて来る、外の気配を感じた――その先は、宵闇に浮かぶ、透き廊になっていた。
薄青の宵闇の中、柱ごとに灯りがぼんやりと、淡い紅や紫、黄色や緑、青の光に灯っている。
ふわり、と宵風に微かな花の香り。後に残る清涼な香は森の香りだ。柱の外を見やれば、黒々とした木々の梢の闇絵が並ぶ。森の海の表面に、この透き廊は、浮かんでいるようだった。
廊を渡りきると、対の殿舎らしきに着く。着いた所は横広のエントランスのようになっていて、やはり淡い灯りが照らしていた。
その奥に、仄かな灯りに浮かぶ大きな扉。
近付くと、その銀白の扉の左右に控えた女性衛士が、音のない動きで扉を開く。
やわらかな光が零れる。
光の向こうに、立礼姿の数人の女性達。
彼女らは顔を上げ、真ん中の一人が言う。
「此度は、御入内、おめでとうございます。薔薇姫様。」
「さあ中へ」と、案内役の外の女官達がローザを促す。
…祝辞と歓迎を受けて喜べないのは、ローザにとって、初めての経験だった。
ともあれローザは少し考え、中に入ることを選ぶ。
背後で、扉が閉じられる。
「陛下より、薔薇姫様の御部屋が賜られております。御案内申し上げます。」
先頭の女官が言い、ローザを促す。
ローザは、静かに呼吸をひとつ。頷いて、歩き出した。