花籠み (五)
夕映えの空を、飛翔は続く。
風の鳴き声が絶え間なく、ローザの頬を耳をかすめ、髪をもてあそびながら流れてゆくが、風の勢いは、高度と速度のわりには強くない。
目を開けていることにも呼吸をするにも障りはなく、寒さを感じることもない。
術か何かで調整されているのか、それとも元々この世界ではこうなのかは、ローザには判らなかった。
今ローザ達がいるのは、広大な森の遥か上空。
金紅の光を浴びて広がる森、所々に鏡のような湖や川が見え、絞ったオレンジジュースのような地平の空には、目映い夕陽にうっすらと遠景の山並みが続く。
青年の肩越し、開かれた翼の向こう空は群青の色。天頂近くで夕陽空とのむら染めをなす。
見た目は、人間界と変わらない世界。
力強い自然の息吹き。人間界の自然の中で感じるそれと、とてもよく似ている。
大気が魔性の気であるというだけの、まるで、人間界との鏡映しだ。
青年の肩越し、深い空の海に浮かぶ、星の瞬きがひとつ、ふたつ。
見つめるローザの視界の端で、ふいに、ひときわ鮮やかな光が散る。
目を移して、曳き靡くそれが、青衣の後首で束ねられた――青年の長い髪であると認識する。
認識して、ローザは首を傾げた。
紺青の空を背景に、鮮やかな白金の光を散らして翻る、その、髪の色。
知らず、ローザは手を伸ばしていた。
掬い寄せ、開く手のひらの中のそれを見る。
――色が、変わった…?
ローザの手のひらの上で、髪は神秘的な輝きをゆらめかせている。白とも金ともつかない、その、不思議な髪の色…。
「何の真似だ。」
ふいに落ちて来た声に、ローザが見上げると、こちらを射下ろす紅玉眼がそこにあった。
「…不思議な髪の毛だったから、つい。ごめん。」
謝罪し、ローザは手を放す。
紅玉眼はじっとローザを見下ろしていたが、やがて視線を戻し、元のままに前を向く。
夕照を受け、真っ直ぐ前を見据えたままの、冷然たるその横顔。
それは空を飛び始めてからずっと変わらないものだった。
飛び始めた直後、ローザは魔界や魔王のことなど、いくつかの質問をしたのだが、その時もずっと、青年は無反応・無応答だった。
だがそこに作為は感じられず、とても自然な感じを、ローザは受けた。
まるで、とても広く高いところから全てを見渡し調整する、統制者のような――そんな印象を、この青年からは受ける。
空みたいなひとだ、と思ったローザの中にふと、小さな疑問が浮かぶ。
――このひとの名前、何ていうんだろう。
アンバーの場合は、彼そのもの。
明るく澄んだ琥珀の瞳、自由で楽しい風のような、一瞬のきらめきを沢山抱いてどこまでも流れゆく旅人のような。
彼が名前で名前が彼で、二つはぴったりはまって彼を成す、そんな不可分な感じがする。
だがこの青年の場合、“紅玉”ではそういう感じにはならない気がする。
空、統べるもの、導くもの…ローザの中に浮かぶ言葉のどれも、彼の全てを表すには足りない。
「隊長さん。あなたの名前って何て言うの?」
ローザは訊いてみたが、青年の反応はない。
その紅玉眼は真っ直ぐ前を見据えていながら、同時に全てを視野に入れているような、どこか超然とした眼差し。
大空、俯瞰の統制者。そんな言葉がローザの中に浮かぶ。
――このひとを従える魔王って、どんなひとなんだろう。
献上品としての自分の身の危険はさておいて、ローザの中で、魔王なる人物への興味は募る。
どう見ても魔王なこの青年からは王への忠誠が見え、王を優しいと評したアンバーからは、王に対する親近感が見えた。
ローザは、そんな王なる人物と、できることなら少し話してみたいと思うし、それは、もし流れに沿うならば叶うだろう、とも思う。
この先どうなるかは分からないが、確かなことはひとつ。
――生きて、もとのところに還る。
あの女性が無事に帰還できた今、それがローザの望む未来であり、その未来へつながる道なら、どれもが、正解の道だ。
ローザは青年の腕の中で、向かいゆく空の夕映えに顔を向けた。
と、その風景の内の一点に、ローザの目は留まる。
遠い山々の内の一つ、夕陽近くのひときわ高く大きな山が、奇妙な輪郭を描いている。
例えるなら、中腹から山頂にかけて、王冠を被っているかのような形だ。
その正体は、近付くにつれて見えてきた。
――お城…?
輝く赤い山肌の中腹から山頂にかけてを覆っているのは、夕光にきらめく何か巨大な建造物。
遠目に白っぽく見えるそれからは、城、宮殿、或いは寺院とも呼べそうな、不思議な印象を受ける。
青年は、どうやらそれを目指しているらしかった。
やがて、空は茜の薄染めに、陽は山の端に溶けゆく頃、ローザ達は宮殿の細部が見てとれる程の距離に達していた。