(三)
ざわり、と風が吹く。
「禍つ気なる女。」
紅玉眼の男が口を開く。
瞳と同じ、深淵の氷を思わせる、厳然たる響き。
「答えよ。此の地を侵せるは何故か。」
峻厳たるその問いに、ローザは、紅玉眼を真っ直ぐ見据えて、答える。
「望んで来た訳じゃないわ。魔族の界渡りに巻き込まれちゃったのよ。」
紅玉眼は、静かにローザを見下ろしたまま。どこか、観察をしているかのような、何かを見極めようとしているような深い眼差し。
紅玉眼の男の隣から、「へえ」と明るい声がする。
白銀の短髪の男が「で、その――」と楽しげな表情を浮かべて腕を組んでいる。
「お前を巻き込んだやつってのはどうしたんだ?」
彼の問いに、「倒したわ。」とローザが答えると、その男が何かを言うより先に、「ほう」と厳然たる声が応えた。
「先刻あの緋を討ちしは、やはり貴様であったか。」
ローザは紅玉の眼をじっと見た。
「あの緋い魔族は、あなた達の仲間?」
隣から白銀髪の男が「いや、違う。」と軽く手を振った。
「あいつは別の王んとこの将。結構しぶといやつだったのに、倒しちまうなんて。」
――別の、王。
「お前、やるな。」
白銀髪の青年がローザに近付き、ずい、と身を屈めて来る。綺麗な琥珀色の瞳。
「いいな。可愛い。オレの女にならないか?」
「え?」
「アンバー。」
”アンバー”、と厳然たる声に制され、琥珀眼の青年は笑いを含んだまま身を退いた。
「なあ、隊長。この子――」
「禍つ気なる女。」
琥珀眼の青年の言を制して、紅玉眼の青年が言う。
「――魔、五たり。一度の内に殲撲した事はあるか?」
その問いの意味を、ローザは一瞬、理解できなかった。
男が紅玉眼をローザに据えたまま、意識の片端を、ちらりと彼の後ろに向ける。そうローザは感じて――空白が弾けるように、その意味を悟った。
ざわり、と苦い緊張がローザに走る。
「此処なる魔、其の数五たり。」
すう、と紅玉眼が細くなる。
「殲してみせろ。」
「え、おい、隊長、」と、ローザの前から慌てたような声が聞こえる。
ローザは紅玉眼を見据えたまま、斜め後方に――結界に気取られぬように――後退った。
口の中で呪を唱えながら。
「なあおい隊長、待ってくれって。この子はオレが…」
「下がっていろ。」
白銀髪の青年を一瞥で制し、紅玉眼は再びローザを据える。
そして、
「――行け。」
男は命じた。
男と白銀髪の男、二人を除いた魔族が一斉に動き、ローザへと向かい来る。
ローザは間合いを得つつ唱えていた呪を以ち、応戦した。
彼らはいずれも、かなり強い魔族だった。
強さで言えば――緋翼の魔との遭遇以前の――過去に見てきた魔族の中での、一番強い部類に属す。
だから、未知の強さでは無い。
でも――。
五体目を討ち、ローザはその塵化の始まりを視認する。
砂金へと変わりゆく男の手には、長剣が握られている。
強い部類の魔族は、剣を使うことがある。ローザが過去に見てきた魔族の内の、最も強い部類の魔族だけが、そうして戦うことがあった。
ただしそのいずれも遭遇直後には使わず、窮地を悟った時に初めて武器としていた。
だが今討った五名は違う。
戦闘開始からさほど経ずに、剣での攻撃に切り替えた。
人間に対して剣を使うこと――本気で戦うことに、抵抗を感じていないかのように。
ローザは見詰める。塵化は一瞬の間に、男の手にした剣にも及び、諸共に風に巻き上げられ散ってゆく。
それを見送り、ふいに気配を感じたローザは素早く振り向く。
「お前、本当に強いな。」
楽しげな声、逆光の夕陽。立っていたのは、琥珀眼の青年だった。
その手に提げられているのは――長剣。
地を向く刃先が、夕照の金色にきらりと光る。
楽しげな青年は、顔だけ後ろに向け、隊長、と声を投げた。
「次、オレが行っていいよな?」
青年の問いに、離れた向こうから、「行け」との声が返る。そこに心なしか、呆れ気味の響きをローザは感じた。
「あと、オレが勝ったらさ。この子、オレが貰うから。」
「ちょっと待って。」
ローザは思わずつっこみを入れる。琥珀眼が振り向いてローザを見、ローザは――複雑な心境のまま――興に乗じる。
「そういう相談。先ず、本人の了承を得てからにしてくれる?」
「ああ、そりゃそうだな。悪い。」
青年は朗らかな笑みのまま、頭の後ろを掻いた。
「じゃあ、改めて。オレの名はアンバー。お前の名は?」
「ローザ。」
「ローザか。うん、じゃあ、ローザ、」
彼は身を屈めて、明るい琥珀の瞳で、ローザの目をじっと見た。
「今からオレと勝負して、オレが勝ったら。オレの彼女に、なってくれ。」
――彼女。
ローザは瞬きをひとつ。
複雑な今の状況を忘れ、思わず笑いを零す。
「面白い言い方をするのね。」
”あれ”を、そんな風に表現するなんて。
「うん?そうか?」と、彼は少し首を傾げ、楽しげな琥珀の瞳でローザを見ている。
ローザは彼のユーモアに微笑みつつ、
「でも、アンバー。」
琥珀の目を見て問い掛ける。
「アンバーは、私が何なのかを知っているよね?」
ローザが何者であるか。
それを知りながら、敢えてローザを“それ”に望もうという彼の意図が、ローザには分からない。
ローザの問いに、「勿論、」と彼は口の両端を上げ、
「術師。」
と答えた。
”術師”。その答えは、ローザにとって、少し意外なものだった。
術師、という呼称はあくまで、人間の間で使われるもので、ローザが過去に見てきた魔は皆、術師――討祓者のことを、”不浄”や”穢れ”などの呼び方で呼んでいたのだ。
魔族にとっての術師の気は――人間が魔族の気をそんな風に感じるのと同じように――そういう、不快なものであるという。
それなのに。
「どうして、術師を”彼女にしたい”の?」
琥珀眼を真っ直ぐ見上げて、ローザは問う。
ローザは彼の真意が掴めない。
敢えて術師を”彼女”に――”食糧”にしようとするその理由が。
「どうして、ってそりゃ。」と、アンバーは肩を竦める。
「可愛いから。」
「真面目に答えて欲しいわ。」
「真面目に答えてるよ。」
ローザは琥珀眼をじっと見詰める。
琥珀の色の、楽しそうな様子は相変わらず。だが心と言葉とを違えているような様子は見えない。
ローザは困惑して、質問を重ねてみた。
「術師の気って、美味しくないんでしょ?」
琥珀眼はいたずらっ子のような笑いを見せた。
「気が旨いかどうかは関係ないだろ。付き合うのには、さ。」
彼の返答に、ローザは首を傾げた。彼の言の意味するところが、さっぱり読めない。
ふいに、アンバーがおかしそうに笑い、ローザは更にきょとんとする。
「お前。やっぱり勘違いしてるな。」
笑い混じりに言って、アンバーはローザに身を屈める。
「…勘違い?…って、どういうこと?」
「こういうこと。お前は、オレがお前を喰おうとしてるんだって思ってるだろ?」
ローザは瞬きをひとつ。ふたつ。
「…違う、の?」
「うん。違う。」
どういうことだろう。
ローザが訊ねようと口を開き掛けた時、
「――アンバー。」
凍てつくような響きが、風と共に流れ来た。
ぴた、と、アンバーを笑顔のまま固まらせたその声は、どうやらアンバーの後ろ、離れた所から発せられたらしい。至近で聞いたかという程に威力のある声だ。
冥府の底の氷獄があるとしたら、こんな風が這うのではないか。そんな声だ。
アンバーは首を巡らせ、
「分かった。今からやるから。」
宣言を投げ、顔をこちらへ戻してから、溜め息をひとつ。
「ねえ、アンバー。」ローザは訊ねる。
「あなたが隊長って呼んでるあのひと、何者なの。」
「え?ああ。あのひとは…オレらの城で、陛下を別にして、多分一番強いひと。そしてオレから常に自由を奪い取るひとでもある。」
――王を別にして。
「王じゃなかったのね…あのひと…」
ローザは思わず呟く。
彼の持つ強い気や纏う雰囲気は、王なのではないかと思わせる程のものだった。隊長、と呼ばれてはいても。
「ああ確かに。あのひとはある意味王みたいなもんだな…。」
アンバーも呟く。
「さっき、あのひとの強さは、王を別にして一番だって言ってたよね。王様っていうひとは、あのひとよりもっと強いの?」
アンバーは、「うん。」と頷いた。
「陛下は優しいけどな。」
「…優しい、の?」
「うん。誰かさんみたいに厳しくない。
例えば、任務中に一目惚れした女を口説いてても、殺気を向けたりしないだろうからな。」
言ってアンバーは剣の腹で自分の肩を、とんとん、と軽く叩いた。
「じゃ、そろそろ始めよう。あのひとを怒らせると、殺されるからさ。」
確かに彼の言う通り。離れているにも関わらず、殺気のような威圧感が辺りを支配している。
「分かったわ。」
「じゃ、始めよう。」
「あ、そうそう。」と間合いを取りながらアンバー。
「さっきの話。オレが勝ったら、お前はオレの彼女ね。」
「それ、まだ了承した覚え…」
「はい決まり。始め。」
待って、とローザが抗議する間も持たず、戦闘は始まる。