(二)
闇から醒めるより早く、ローザは横ざまに転がり起きていた。
ひゅっ、と掠める風斬りの音、地を震わせ、どっ、と鈍い音が響き――ローザは頭を振って顔を上げる。
視界に映る、草と、空と、――草の向こうの緋。
跳ね起き、ローザは跳び退る。
草地を挟んで、緋色の魔が、虚ろげにローザを見ていた。腕の先の鉤爪は、露間の地面に突き立っている。
一拍の後、ローザは状況を理解して、素早く自分を確かめた。傷は無い。
魔に注意を向けつつ、辺りに視線を走らせる。吹き薙ぐ風の草原、雲がちの空――見覚えのない景色。
恐らくは別の土地だ。魔は、逃げるために、空間を渡ったのだろう。
魔の後方、少し離れて草の揺れ間に、女性らしきの倒れた体。
ここからさほど離れていない。
ローザは小さく呪を唱えつつ魔へと向かい走り、一瞬の交戦の後に彼を地に倒し、女性のもとへと駆け抜け、特別な術を魔に放つ。
生じた光渦が魔を飲み込む、その刹那。
ふいに、魔が笑い声を上げた。
「愚かなる不浄、」と、影は既に光渦の内に、狂喜の声だけが響き渡る。
「お前には分かるまい?この地が如何なる地であるか…もはや、生きて還ることなど望めぬぞ。――ここは、」
けたたましい嗤いが響く。
「我ら魔の棲む、魔の界だ。」
狂笑は響き続け、「気の朽ちて死するが先か、この地の魔どもになぶられ死するが先か…」高く低くこだまして、やがて光と共に消える。後にはただ、風に吹き散る緋い砂金。それもすぐに空に溶け、消えてゆく。
塵化と消滅。魔の完全な消滅を意味する現象。
じっと見詰めていたローザは我に返り、振り向き、傍に屈んで女性を診る。
女性は、ひどく気を消耗していた。
ローザは手早く術で周囲を結界し、回復の術を女性に紡ぎ、コートを取り出し彼女をくるむ。そして彼女の気が回復し始めたのを確認してから、結界の外に出た。
意識を澄ませ、辺りの気配を探る。
辺りに満ちる、心ざわめく不穏な気配。人間の気を侵食し、枯らそうとする力の流れ。
それは、間違えようもなく、魔性の気だった。
魔族が近くにいる、というのではなく、辺りの大気そのものが魔の性質を帯びている。
ローザは術を紡ぎ、自分にも結界を纏わせてから、辺りを見回す。
吹き荒れる風、見渡す限りの草原。世界が奇妙に明るく感じる。傾き始めの陽が夕日に変わる前の、狭間の時間なのだろうか。薄紅染めの雲が流れ、雲間の空は青く、浮き立って見える。
じっと眺めてから、ローザは結界の中に戻る。
女性を看る。意識は失ったままだが、気は確実に回復を続けている。ローザはほっとしながらも、再び空を見上げて、息を一つ。
“魔の界”。
緋い魔の告げたその言葉を抱き、ローザは静かに、記憶の海を探り始めた。
魔界。
それは今のところ、人間の間で、架空の存在でしかない概念だった。
魔族達の棲むというその世界を、実際に見た人間はおらず、見た者がいるとの記録もない。
魔界だけではない。そもそも魔族についても、未だ解明されていないことは多い。
解っているのは、見た目は人間とあまり変わらず、だが人間より遥かに強堅な体と強大な力を持つこと、人間には原理さえ理解出来ない高度な術を使うこと、そして、人間の気を食糧とすること、一方で人間の気とは相容れない、互いに打ち消し合う気を持つこと…、そのくらい。
更にはそれらの知識さえ、持つ者は限られている。それは殆ど、魔の討祓に関わる立場の者達だけだ。民間には、魔族が実在することを知らない、或いは信じていない人も少なくない。
だから、人間の間で語られる、魔界についての噂、学説、お伽話、創作物語…そのいずれも、今の状況に反映させるべき確実な情報とはならない。
だが…。
「――人の界とは異なる界に、魔の棲みたる界は在り。」
ふいに、ローザの口から紡がれる言葉。
紡ぎながら、これは古い伝承の言葉だ、と、ローザの意識が認識していた。
「人の界とは異なる界に、魔の棲みたる界は在り。――彼の地に、王なる魔あり。」
続きの文言。意識の底から、くっきりと浮かび上がって来る。
いつどこで知ったかは思い出せない伝承。だが内容そのものはローザの中に鮮やかに刻まれており、それが警告めいた強さで、ローザに訴え掛けて来る。
他の情報とは違う何か。
警告に従うべき、とローザは直感し、伝承の言葉を抱いて思考する。
本当に、ここが異世界なのだとしたら。
今のところ、ローザは、自力で元の世界に帰るすべを持っていないことになる。
界を渡る術は魔族だけが持つ術だ。
また、魔王という存在が実在するとしたら。
魔王それ自体の持つ脅威は勿論、他にも、今まで見た魔族より遥かに強い魔族、更には、統率された魔族の群れも存在する可能性がある。
現に、あの緋翼の魔。負傷した体で討祓術を重ねて耐え、窮地にあって思考を保った。
過去に見て来た魔とは異質な、比類なき強さ。あのような魔が存在したし、そして彼を追い詰めた程の単体或いは複数の魔もまた、存在するのだろうから。
魔の大気に満ちたこの地、異世界かもしれないこの地で。
緋翼の魔と同じかそれ以上の実力を持つ魔、意志と思考と統率力を持った魔族の集まり、軍隊のような大規模な群れ。
そして、魔王。
或いはまた他の、想像を超えた何か――。
そういうもの達が、存在するかもしれない。
ローザは傍らの女性を見る。
――この人と一緒に、元の場所に、必ず帰る。
ローザの心の奥が、そう望んでいる。
ならばその通りに進むだけ。
予想の未来も予想外の未来も、起こり得る全ての未来を抱き締めて、ローザは今を考えた。
先ずは安全確保と現況把握、そして帰還の道の探察を。そう決めて、行動に移す。
結界の中で女性を休ませたまま、ローザは一人、辺りの地勢の確認に出掛けた。
ささめく草原。風はいつしかおだやみ、夕陽間近の金色を撒いて波寄せる。
結界から離れ過ぎない際限まで歩いて、ローザは周囲を見渡す。
四方の地平は草波の色。果ては見えず、どこまでも同じ景色が広がっている。
地平寄りに嵌め込まれた太陽が、超然と見下ろしていた。
辺りには、変わらず、魔の大気が遍満している。
注意深く気配を探り、魔族の気配が無いことを確認しながら、結界を振り返る。だが女性が目覚めた気配は見えず、ローザは調査を再開し、結界からの際限の距離の円周上を歩き始める。
見上げた空の、醒めかけの青。
雲は吹き払われたように空の片側に寄り集まり、日は反対側の空に。西はあっちなのか、と一瞬考え、すぐにその考えを手放す。
――おんなじとは限らないよね。
水鏡を映し観る気持ちで、未知の世界を歩いてゆく。
その時ふと、緩やかな風が吹き抜けて、何とはなしに、ローザは振り返った。
今度は強い風が吹いて、ローザは思わず瞼をぎゅっと瞑る。顔に髪に全身に打ち付ける風、乾いた草原の匂い。
目を開けて、薄く金色の光を視界に映す。
視界に色が醒めた時、ローザは目を見開いたまま凍り付いた。
見開く瞳の碧が映す。
風にはためく青い衣。
靡く、金の長い束の髪。
地まで届く白い大翼。
正眼の紅い瞳。
紅玉の目が、すっと刃を引くように細くなる。
刹那、よく知る感覚が、ぞくりとローザの内に迅り、直後、紅玉眼の男の後方の空間に、別の男が――男達が、出現する。
紅玉眼の男に従うように、男達は一様にローザを向く。