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空の杯に朝が来る ~酒で死んだ俺、飲むほど人を救える異世界で〈呪い呑み〉になり、王立断魔院へ入れられた~

掲載日:2026/09/03

一 金の杯


「これを飲め。さすれば、王都の八万人が助かる」


大神官はそう言って、俺に金の杯を差し出した。


広場を埋めた群衆が、俺の名を呼んでいる。


――呪い呑みのマコト。


――万能浄化の勇者。


――どうか、私たちを救って。


勇者というのは便利な言葉だ。


本人が断れば人でなしになる仕事を、拍手つきで押しつけることができる。


杯の中では、濃紺の液体がゆっくり渦を巻いていた。魔力酒〈星蜜〉を百倍に煮詰めたもの。一口で、俺を最盛期に戻す量だ。


花と雷、それから、まだ起きていない思い出の匂いがした。


俺の指は震えていた。金の縁が前歯に当たり、小さく鳴った。


あのときの俺は、それを使命感だと思った。


今なら分かる。嬉しかったのだ。


これほど堂々と飲める理由を、俺は二つの人生を通じて初めて手に入れた。


酒呑みは、飲む前に一度だけ正しいことを考える。飲まない方がいい、と。


それから、その正しさに乾杯する。


金の縁を唇へ運ぶ。


その向こうに、前世の台所が見えた。


流しに積み上がった空き缶。カーテンを閉めた昼。取れなかった妹からの着信。「もう飲まない」と書いた紙の上にできた、丸い染み。


この世界で俺は、飲むほど人を救えた。


前の世界で俺は、飲むほど人でなくなった。


先に言っておく。この夜、王都には雨が降る。


二つの人生で俺が口にしたものの中で、二番目にまずい飲み物だった。


一番まずいものは、その少し前に、ゴブリンの手で出てくる。


話は、王立断魔院で目を覚ました朝に戻る。


そのときの俺はまだ、自分を勇者だと思い、医者を看守だと思い、上着の胸裏に隠した小瓶を「非常用」だと思っていた。


二 勇者ではなく患者


祝勝広場の事件から三日後、俺が目を覚ましたのは王宮の天蓋つき寝台ではなかった。


月の裏側みたいに白い病室で、窓には鉄格子があり、両手首には青銅の輪がはまっていた。


枕元の診断票には、達筆でこう書かれていた。


患者名 マコト・サカキ


年齢 三十八歳


職業 勇者・特級浄化士


診断 重度魔酔症、浄化技能依存、急性魔力中毒


備考 病識なし


三十八歳。前世で死んだ歳まで、あと一年。


その計算より先に、最後の一行が目についた。訂正が必要だと思った。


俺は自分の状態を誰より正確に把握していた。星蜜を一日に何滴使うか。どの濃度で手の震えが止まり、どの濃度から記憶が飛ぶか。全部、数字で言えた。


酒呑みは、自分の酒量について誰よりも詳しい。人に聞かれると半分に減るが、あれは嘘ではなく、換算率の問題だ。


それを告げると、診断票を書いた女は眉一つ動かさなかった。


「自分の首を絞める縄の長さに詳しくても、絞められている事実を認めなければ、病識とは言わない」


王立断魔院長、エッダ・ロウ。


五十前後の人間族で、灰色の髪を後ろで束ね、白衣の袖には薬草の染みをいくつもつけていた。この国で唯一、魔法を一切使わない一級治癒師でもある。


「これは拘束です。王国法では、勇者に対する不当な――」


「治療だ。君は三日前、祝勝広場にいた三百十二人を勝手に浄化した」


「あの人たちは疲れていた」


「疲労は呪いではない」


「頭痛を訴えた人もいた」


「祭りの翌朝なら私にもある」


「結果的に死者は出なかった」


「墓碑銘には便利な文句だな」


浄化された三百十二人の多くは、半日ほど笑わず、怒らず、腹も減らなかった。元に戻るまで三日かかった者もいた。


赤い頭巾の母親は、幼い娘に袖を引かれても振り向かなかった。振り向く理由を、俺が燃やしてしまったからだ。


俺の技能は、相手の中にある悪いものだけを選んで消す。そう信じられていた。


実際には、毒や呪いを俺の身体へ移し、そこで魔力に変えて燃やしている。燃やし切れなかった星素は、足元へ捨てた。地脈は広い、と昔誰かが言った。俺はその言葉を気に入り、祝勝広場の石畳の下に何が通っているかは、考えなかった。


星蜜は、その流入口を無理やり広げる。素面なら細い糸でしか吸えないものを、飲めば一息で呑み込める。ただし、量が増えるほど、毒と一緒に何を奪っているのか分からなくなった。


問題は、悪いものと必要なものの境目が、思っていたほど明瞭でなかったことだ。


不安を吸えば、危険を避ける心まで薄くなる。


悲しみを吸えば、失った誰かへの愛情まで欠ける。


空腹を吸えば、パンを欲しがる力も消える。


そして他人の苦痛が俺の中で燃えるたび、世界はひどく簡単になった。


音は澄み、身体は軽く、できないことなど一つもない気がした。


それが〈万能浄化〉の正体だった。


「君は広場の人々を助けたかったのか」


エッダが聞いた。


「当然でしょう」


「質問を変えよう。誰も苦しんでいなければ、君は安心したか」


俺は答えなかった。


青銅の輪が、脈に合わせて冷たくなった。


記憶を持ったまま転生した俺の場合、胃袋だけが新品で、言い訳は中古だった。


前世の俺は榊真琴という名の広告営業だった。三十九年のうち、最後の十年ほどを酒に貸し出した。最初は眠るため、次に働くため、その次は飲んだことを忘れるために飲んだ。


最後の頃には、理由を考えるために飲んでいた。


二十歳の春に初めて飲んだ夜、世界が急に親切になった。それ以来、俺はあの親切を買い戻すために飲んでいた。値段は毎年上がり、品質は毎年下がった。それでも、他の店を知らなかった。


朝の最初の一杯は、両手で持った。片手では零れるからだ。零れたぶんは床が飲んだ。台所の床板は、俺より先に酒臭くなった。


妹の電話を取らなかったのは、嫌いだったからではない。呂律が回らない時間帯だったからだ。俺は妹の前では、しっかりした兄でいたかった。そのために、もう一本開けた。


病院の白い天井を見上げ、もう一度だけ人生があるなら水だけで生きる、と誰にともなく誓った。


その夜、心臓が止まった。


気がつくと俺は、アステリア王国の貧しい猟師の家で、産声を上げていた。


二度目の人生というのは、一度目の続きにしかならない。頁は新しくなったが、書いているのは同じ手だった。


十五歳の祝福式で授かったのが〈万能浄化〉である。


毒蛇に噛まれた幼なじみへ手を触れたとき、黒い毒が光となって俺へ流れ込んだ。身体の中心で弾け、森の葉の一枚一枚まで数えられそうなほど意識が冴えた。


二十歳の春の、あの夜の味がした。


幼なじみは助かった。


村人は泣いて喜んだ。


俺も泣いた。


前世で誰の役にも立てなかった男が、今度は人を救える。


初めのうち、それだけだった。


やがて俺は治癒師となり、兵士の毒を吸い、貴族の呪いを呑み、竜の瘴気を一人で引き受けた。国王から勲章を授かり、吟遊詩人は俺を〈呪い呑み〉と歌った。


戦いがない夜は、眠れなくなった。


誰も苦しんでいないと、身体の奥に穴が開いた。


そこで治療用の星蜜を一滴だけ舐めた。


酒ではない。薬だ。


酔うためではない。技能の調整だ。


前世とは違う。人を救う仕事に必要なのだ。


一滴は二滴になった。二滴は小瓶になった。


ガイルは五度、俺が星蜜を使うところを見つけた。「今夜くらい眠れ。お前は皆を救った」と言い、報告書を閉じた。五つの「今夜だけ」が重なり、俺の勲章は一つ増えた。


ガイルは悪い友人ではなかった。悪い友人の仕事というのは、たいてい良い友人がうっかり引き受ける。


俺の理屈はいつも立派だった。広告営業をしていた頃より、よほどよい商品を売っていた。


客は俺一人だったが、毎回よく売れた。


「星蜜の使用を止め、青銅環で技能を封じる。重い魔力離脱が予想されるため、少なくとも三十日は院内で管理する」


エッダは事務的に言った。


「三十日? 東部にはまだ呪われた兵がいる」


「別の治癒師を送った」


「あの程度の使い手では間に合わない」


「君一人を壊しながら成立する医療を、私は医療とは呼ばない」


「俺が望んでやっている」


「そこを治療している」


会話は終わった。


俺はこの女が嫌いだと思った。


翌日、診断票の備考欄に一行増えていた。


主治医への嫌悪 離脱症状の一つと思われる


三 月裏療養塔


王立断魔院は、王都を見下ろす丘の上に建っていた。


通称は〈月裏療養塔〉。


窓からは酒場の看板も、星蜜商会の青い煙突も見えない。代わりに墓地と薬草畑が見えた。景気の悪い眺めだが、どちらも人間を黙らせる点では優秀だった。


一日の区切りは鐘だった。


起床の鐘。食事の鐘。診察の鐘。消灯の鐘。


患者に「一生」を考えさせないためだと、ゴブリンの料理人ボロが教えてくれた。


「一生は長すぎる。次の鐘なら、まあ待てる」


ボロは右耳の半分がなく、緑色の手で巨大な鍋をかき混ぜていた。昔は攻城魔術師で、星蜜を樽で使っていたらしい。入院記録によれば、もう十七年使っていない。


ただし本人は、その年数を口にしなかった。


「数えると、それを担保に一杯やりたくなる日がある」


そう言って、俺の椀へ灰色の液体を注いだ。


「何です、これは」


「月苦草の茶」


「泥水では」


「泥に失礼だ」


飲んでみると、舌が逃げ場を探した。


月苦草には体内の星素をゆっくり結晶にし、排出しやすくする作用がある。ただし遅い。大量の水と、時間が要る。煮立てて水晶砂を触媒にすれば早まるが、それでも英雄譚には絶対に登場しない種類の薬だった。


「これを王都じゅうに飲ませたら、酒場が全部潰れますね」


「歌は多少ましになる。経済は死ぬ」


食堂には俺のほかに七人の患者がいた。


貴族の三男坊。夢見薬の老人。窓の錠前をいつも数えている若い獣人。誰もが、自分だけは事情が違うという顔をしていた。俺もそうだった。事情が違う点で、俺たちは見事に揃っていた。


その中で最も目についたのが、アーデルという女だった。


金色の短髪。背筋は槍のように真っすぐで、左頬に古い火傷がある。元聖騎士隊長で、北方戦争では百騎を率いたという。


祝勝広場の日は、退院前の外出訓練中だった。事件後に隠し持っていた星蜜まで見つかり、俺より一足早く塔へ戻されたらしい。


目が合うと、彼女は俺を知っている顔をした。俺は思い出せなかった。


彼女は星蜜を使うと、死んだ仲間の声が聞こえなくなった。


だから使い続けた。


戦争が終わるころには、星蜜が切れて声が戻ることの方が怖くなっていた。


だから、さらに使った。


夕食後、患者は円形に椅子を並べ、空の木杯を一つずつ持たされた。


エッダが言った。


「今、欲しいものを一つ。次の鐘までにすることを一つ。立派な答えは禁止」


「星蜜が欲しい」


アーデルが最初に言った。


「次の鐘まで、一人で礼拝堂へ行かない」


隣の老人は、夢見薬が欲しい、食後の薬を看護師の前で飲む、と言った。


若い獣人は、逃げたい、窓をこじ開けない、と言った。


俺の番になった。


「特に欲しいものはありません」


沈黙が落ちた。


「次の鐘まで、東部戦線へ戻る方法を検討します」


ボロが椀を置いた。


「立派な答えは禁止だぞ」


「事実です」


アーデルが鼻で笑った。


「嘘つきは嫌いじゃない。元気だった頃の自分を見ているようで安心する」


「俺はあなたとは違う」


「ここでは全員そう言う。便利な合言葉だ」


夜になると、身体の内側を細い虫が這い始めた。


最初は指先だった。皮膚の下を、何かが列を作って歩いていく。掻いても届かない。虫は肘を通り、肩へ上がり、首の後ろで一度止まって、行き先を相談しているようだった。


汗が出るのに寒い。敷布が濡れて、乾いて、また濡れた。濡れた布の匂いは、前世の台所の匂いだった。幻覚ではない。記憶が、鼻へ引っ越してきただけだ。


目を閉じると青い光が弾ける。開けると天井が呼吸している。壁の罅が、脈に合わせて太くなったり細くなったりした。


遠くで誰かが呼んでいる気がして、耳を澄ますと自分の心臓の音だった。心臓は俺の名前を知らないはずなのに、明らかに呼んでいた。


そして、音がした。


プシュ、という短い音。


この世界に、缶はない。


それでも身体は、その音を救いの合図として覚えていた。一時間に一度、頭の中で誰かが缶を開けた。開けるだけで、誰も飲まなかった。それが一番ひどかった。


青銅環が技能を封じているせいだ。


俺はそう考えた。


輪を外せば治る。星蜜を一滴使えば眠れる。よく眠れば治療にも協力できる。治療に協力するための星蜜なら、むしろ治療の一部ではないか。


渇いている身体は、腕のいい弁護士に似ている。


証拠を捏造し、判例を曲げ、最後には裁判官まで兼任する。


俺は寝台から起き、入院時の上着を探った。


勇者の正装は王家の管理品で、断魔院でも縫い目までは解けなかった。胸裏に作った隠しポケットへ、小さな星蜜の瓶を入れてある。


非常用だった。


何に対する非常かは、その都度決めることにしていた。


瓶を月明かりへかざしたとき、背後で声がした。


「きれいだな」


アーデルが扉にもたれていた。部屋へは入らない。視線だけが瓶を追っている。


俺は瓶を握り込んだ。


「眠れないだけです」


「私は弟の婚約祝いで使った。祝いの日に震えていたら、家族がかわいそうだから」


「これは技能暴走に備えた薬です」


「私は仲間の葬式で使った。泣き崩れたら、部下に示しがつかないから」


「あなたと一緒にしないでくれ」


「もちろん違う。私の瓶は銀色だった」


「止めに来たのか」


「半分残せ、と考えた。そのことを、私一人の秘密にしたくなかった」


彼女は近づかなかった。取り上げようともしない。


「欲しくないなら、呼び鈴を鳴らしてエッダへ渡せ」


「命令するな」


「命令じゃない。私が近づけば、君から奪う。君が鳴らせ」


「では見逃すのか」


「今夜、君が嘘をついていることを、君以外にも一人知っている。私の欲も、君が知った。それで十分だ」


アーデルは自室へ戻った。


俺は長いこと瓶を見つめた。


やがて栓を抜き、一滴だけ舌へ落とした。


甘さより先に、世界の輪郭が戻った。身体の虫が静まり、窓格子の錆まで数えられた。缶の音が止んだ。


そこで栓を戻した。一滴で止めた。全部ではない。眠るためでもない。効き目を確かめただけだ。


朝までに、飲酒ではない理由を七つ作った。


一、薬である。


二、一滴である。


三、眠るために飲んでいないのだから、飲酒ではなく投薬である。


四、誰にも迷惑をかけていない。


五、明日から本気を出す。これは前世からの持ち越しで、こちらの世界でも通用するかを試した。通用した。


六と七は、朝には忘れていた。


翌朝、瓶は一滴だけ軽くなり、手のひらには蓋の形が赤く残っていた。


俺は両方を、勝利の印だと思うことにした。


診断票には、こう増えていた。


夜間、上着を長時間握っている


一滴のことは、書かれていなかった。


見つからなかった安堵と、見つけてもらえなかった苛立ちが、同じ場所にあった。


四 三日目の客


離脱の二日目は、手が主役だった。


匙が持てない。正確には持てるが、口へ着くまでに中身が全部、匙から降りてしまう。ボロは何も言わず、俺の粥を注ぎ口のついた器へ移した。


「赤ん坊用ですか」


「老兵用だ。うちの厨房では、そっちの方が数が出る」


水は両手で飲んだ。前世の朝と同じ持ち方だった。ここの床は石で、零れた水は、ただ乾いた。


三日目は、目が主役になった。


夕方から、壁の罅が動き出した。血管のように枝分かれし、脈打ち、寝台の脚を伝って敷布へ這い上がってくる。


払っても消えない。


目をつぶると、瞼の裏でもっとよく見えた。


消灯の鐘のあと、窓辺の椅子に男が座っていた。


皺だらけの背広。緩めた紺の縞ネクタイ。襟の黄ばんだ白いシャツ。右手に、五百ミリの缶。


顔は、むくんでいた。目の縁は赤く、頬には剃り残しがあり、鏡を避けていた時期の顔をそのまま持ってきたような顔だった。


俺は、その顔を知っていた。


「元気そうだな」


榊真琴が言った。三十九歳の、死ぬ少し前の声だった。


「こっちは死んだ」


彼は缶の口を起こした。プシュ、と音がした。三日間、頭の中で鳴り続けた音が、初めて出所を持った。


「一本くらい、どうだ」


缶が差し出された。


「俺は飲んだ。ほら、死んでも大丈夫だった」


幻覚の恐ろしさは、姿ではなかった。理屈だった。相手が俺である以上、その論法には一つも穴がない。俺が自分に言い聞かせてきた言葉を、俺より上手に言う。


「妹は、まだ着信履歴を見ているぞ」


俺は敷布を握った。


「お前は幻覚だ」


「そうだ。だから正直だ」


彼の手は震えていなかった。当然だった。震えるのは、やめた方の手だ。


俺は窓辺から目を逸らそうとして、逸らせなかった。彼が缶を傾けるたび、喉が勝手に動いた。飲んでいるのは向こうで、味がするのはこちらだった。


上着は、寝台の足元にあった。手を伸ばせば届く。俺は上着を見なかった。見なかった、ということを、朝まで何度も確かめた。


そこで俺は、自分が声に出して話していたことに気づいた。


扉の外に、人の気配があった。


「誰と話している」


アーデルだった。廊下の床に座り、扉の枠へ背を預けている。部屋には入らない。


「前世の俺だ」


しばらく間があった。


「紹介しろ」


「やめておく。奢らせると長い」


「そうか。私の方には、廊下に百人ほど来ている」


俺は扉の方を見た。廊下には、月明かりと彼女しかいなかった。それでも彼女の目は、明らかに何かを数えていた。


「北方の連中だ。全員、装備が揃っている。私が揃えさせたからな」


「こっちは一人だ」


「羨ましい。こっちは廊下が満員だ」


俺は笑った。笑うと喉が痛んだ。窓辺の男も笑った。同じ笑い方だった。


「消えないのか」


「消えない。三日目は消えないと、エッダが言った。四日目は少し薄い。五日目に、声だけになる」


「その先は」


「知らん。私はいつも、五日目のあたりで瓶を見つけていた」


アーデルは膝を抱えた。


「だから、今回は聞きに来た。六日目に何がいるのか」


俺たちは扉を挟んで座っていた。彼女は廊下に、俺は寝台の縁に。窓辺の男は缶を飲み続け、廊下の百人は装備を鳴らし続けた。誰も部屋の敷居をまたがなかった。


「何が欲しい」


彼女が聞いた。夕方の質問だった。


「あの缶だ」


初めて、そう言った。


「次の鐘までにすることは」


「この椅子に座らない」


「立派な答えではないな」


「事実だ」


起床の鐘が鳴ったとき、窓辺の椅子は空だった。


缶もなかった。床は乾いていた。


俺は椅子に、座らなかった。


厨房でボロは、俺の顔を見て何も聞かず、椀へ茶を注いだ。


「三日目に、俺は鍋の中で昔の隊長が泳いでいるのを見た」


ボロは鍋の縁を叩いた。


「四日目には、背泳ぎになっていた。五日目から出てこない。あれはたぶん、月苦草が嫌いだったんだ」


「いい隊長でしたか」


「悪い隊長だった。だから鍋に入れた」


俺は茶を飲んだ。相変わらず、泥に失礼な味だった。


診断票には、こう増えていた。


三日目夜 幻視。患者は相手を「知人」と申告。


翌朝「本人」と訂正。


エッダの字は、訂正の方が少しだけ丁寧だった。


五 星降り祭


治療六日目の夕方、王都では星降り祭が始まった。


千年前、空から落ちた星の雫を初代国王が民へ分け与え、魔法の時代が始まった。それを祝う祭りである。


今では王都の地下に大貯槽があり、星蜜は銅管を通じて各街区へ配られる。成人は薄めた一杯を飲み、子どもは青い砂糖菓子を舐める。


塔の窓からでも、街が青く輝くのが見えた。


俺は夕食のパンをちぎりながら、何度も窓を見た。


窓辺の男は、四日目から薄くなり、五日目には声だけになった。六日目の今夜は、何も見えない。その代わり、街の灯りが全部、あの缶の色をしていた。


「戻りたいか」


向かいに座ったアーデルが聞いた。


「事故が起きたとき、対処できる人間が必要です」


「祭りを見たいか、と聞いた」


「興味はない」


「私は見たい」


意外だった。


アーデルは空の木杯を指で回した。


「青い灯りは、きれいだからな。欲しいものは醜いとは限らない。それが面倒なんだ」


指先が白くなるほど、木杯を握っていた。


「消灯の鐘まで、ここにいてくれ」


今度は命令ではなかった。


「何を話せばいい」


「二つの世界で食べた、一番まずいものの話」


俺は月苦草の茶を指さした。アーデルが小さく笑った。


彼女は今夜の計画を持っていた。


一人にならない。食事を抜かない。窓辺へ近づきたくなったら看護師へ告げる。弟から届いた手紙は、明日の朝まで開かない。


俺は大げさだと思った。


前世の俺も、金曜の夜に計画を持たなかった。計画を持たない人間の金曜は、だいたい月曜まで続く。


そのとき、塔のどの鐘よりも大きな音が王都から響いた。


青い光の柱が広場から立ち昇り、夜空を貫いた。


一拍遅れて地面が揺れた。


食堂の木杯が一斉に倒れる。


扉が開き、鎧姿の男が転がり込んできた。


王国騎士団長ガイル。かつて俺と三つの迷宮を攻略し、二度俺に命を救われ、五つの「今夜だけ」をくれた男だ。


「マコト、来てくれ!」


彼の額から血が流れていた。


六日目に何がいるのか、とアーデルは聞いた。答えは鎧を着て、額から血を流していた。


「大貯槽の封印が破れた。星蜜が地脈へ逆流している。十分以内に貯槽そのものが裂ける」


「封印が? 千年もったんだぞ」


「亀裂は祝勝広場の事件以来、広がっていた。錬金院は三日前に祭典局へ報告したそうだ」


祝勝広場。あの石畳の下。


俺は、そこで考えるのをやめた。考える代わりに、身体の虫が一斉に羽化した。


指先まで熱が走る。


俺は立ち上がっていた。


「青銅環を外せ。俺が吸収する」


「終われば、俺が必ずここへ戻す」


ガイルの言葉に、聞き覚えがあった。


「五回とも、似たことを言ったな」


「俺はお前を守っていた」


「何から。治療からか」


「待て」


エッダが俺とガイルの間に入った。


「錬金院へ月苦草と水晶砂、それに七つの沈殿枠を運ばせろ。七つの大鍋へ一つずつ取りつけ、星素を分ければ中和できる」


「四十分かかる」


「作業者を増やせば縮められる」


「十分しかない!」


ガイルが王命書を突き出した。


羊皮紙には、俺を一時退院させ、技能封印を解除する命令が記されていた。


国王の印は本物だった。


「八万人が死ぬかもしれない」


俺はエッダを睨んだ。


「それでも患者を病室へ閉じ込めるのが、あなたの医療か」


エッダは静かに言った。


「君は今、救助と渇きを区別できるか」


「今は言葉遊びをしている場合じゃない」


「だから聞いている」


「外せ!」


俺が両手を上げると、青銅環が鳴った。


ボロが厨房から顔を出した。背には月苦草を詰めた大袋を負っている。


「街を救いに行く顔じゃないな」


「何だと」


「ずっと待っていた商人から、値引きの知らせが来た顔だ」


ガイルが剣の柄へ手をかけた。


だが、エッダは道を開けた。


「封印を解く。ただし、私たちも行く」


「足手まといです」


「その台詞を口にした時点で、同行が必要だ」


アーデルが倒れた木杯を立て、外套を取った。


「今夜の予定を変更する。一人にならない」


ボロは大袋を背負い直した。


「経済を殺しに行くぞ」


こうして勇者一人を呼びに来た馬車へ、医師一人、患者一人、料理人一人、それから月苦草六十斤が乗り込んだ。


英雄譚としては、かなり匂いの悪い一行だった。


魔導馬車が丘を下る間に、エッダは鍵を二度回し、俺の青銅環を外した。


外れた瞬間、世界が半歩近づいた。街の灯りの一つ一つに、飲みたい人間の顔が見えた。


そのほとんどは、俺の顔だった。


正門では衛兵が、保管庫から出したアーデルの古剣を彼女へ渡した。


中央広場まで、二分とかからなかった。


六 最も正しい言い訳


中央広場は青い霧に沈んでいた。


石畳の隙間から星蜜が噴き出し、空中で蛇のようにうねっている。触れた人々は笑い、泣き、意味のない呪文を叫んでいた。


魔力に酔った火炎術師が屋台を燃やし、浮遊術を使った男が噴水の上で逆さまになっていた。


まだ笑える段階だ。


酒場なら、まだ誰も店主に絡んでいない時刻だ。


大貯槽が裂ければ、八万人分の意識へ一度に星素が流れ込む。術者は魔力暴走を起こし、術を使えない者は記憶を焼かれる。


広場の中央には、地面へ続く亀裂があった。


亀裂の底で、巨大な青い心臓が脈打っている。


大神官と錬金院の幹部たちが、俺を待っていた。


「勇者よ!」


大神官は両腕を広げた。


「星が再び地上へ落ちようとしている。そなたの御業で民を救いたまえ!」


その合図で、神官が金の杯を運んできた。


「これを飲め。さすれば、王都の八万人が助かる」


群衆が俺の名を叫び始めた。


金の杯を受け取る。重さはほとんどない。なのに、腕を上げるまでに二つの人生がかかった。


花と雷の匂い。震える指。嬉しさ。


ここまでは、最初に話した通りだ。


話していなかったのは、ここからだ。


唇まであと一寸のところで、俺は気づいた。


杯が、冷え切っている。


星蜜を百倍に煮詰めるには半日かかり、煮詰めたばかりの液は半日は熱を持つ。俺は、その両方を数字で知っていた。


酒呑みの知識というのは、たいてい役に立たない。それでも一つ二つは、役に立つ夜がある。


「事故から、まだ二十分も経っていない」


自分でも驚くほど平坦な声が出た。


「この杯は、いつ作った」


大神官の笑みが、一瞬だけ止まった。


「……万一に備えたのだ。祭りの最終日には、そなたの御業を民に見せる予定もあった」


つまり国は、俺の退院日を、俺より先に決めていた。


「亀裂の報告を受けて、それでも祭りを続けたのか」


「王都八万人の信仰と商いを、罅一つで止められようか。それに、そなたがおる」


国にとって俺の病気は、欠陥ではなかった。手入れの面倒な救命設備だった。


「ガイル。知っていたか」


「杯のことは知っていた。亀裂の報告は、今初めて聞いた」


彼は王命書を見た。そこに答えが増えるはずもなかった。


万一に備えた瓶なら、俺の胸裏にもある。


俺のは硝子で、国のは金だった。違いはそれだけだ。


「それに、だ」


大神官は声を低めた。


「私はそなたを一人として数えておる。それでも、一人より八万人を選ぶ。憎むのは飲んだ後にせよ」


さらに、金の杯を俺へ押しつけた。


「封印に罅を入れたのは、先日のそなたの御業だと、錬金院は申しておる。償いたまえ、勇者よ。民はそなたを責めぬ。救えばよい」


渇きに、許可と負い目までついた。


酒呑みがいちばん弱い、三点盛りだ。


俺は杯を上げ直した。


金の縁が唇へ触れた。


「マコト」


アーデルの声がした。


「飲むな」とは言わなかった。


「何が欲しい」


月裏療養塔で、毎夕聞かれる質問だった。


「時間がない」


「何が欲しい」


「八万人を救う力だ」


「立派な答えは禁止だ」


青い液面に、自分の目が映っていた。


前世の俺は嘘をつくたび、もっと孤独になった。


この世界では、嘘をつくたびに勲章が増えた。


「……欲しい」


声にすると、喉の奥が痛んだ。


「違う。必要なんだ。いや、逆だ。欲しいから、必要だと思いたい。八万人を言い訳にして、俺はこれを飲みたい」


言葉が一度、喉につかえた。


「病棟でも一滴飲んだ。効き目を確かめただけだと思って、黙っていた」


群衆の声が、少しずつ止んだ。


大神官の顔から血の気が引いた。


「勇者よ、今はそのような告解をしている場合では――」


「俺はみんなを助けたい。俺は飲みたい。どちらも本当だ」


認めたところで、欲望は消えなかった。


むしろ匂いは濃くなった。口の中に唾が溜まり、身体は正直に、ここへ来た目的を果たそうとした。


告白は解毒魔法ではないらしい。


亀裂の底から轟音が上がった。


青い心臓が大きく膨らむ。


あと数分。


俺は金の杯を石畳へ置き、亀裂へ両手をかざした。


飲まずに〈万能浄化〉を発動する。


星蜜の奔流が細い糸となり、指先から身体へ入り込んだ。


瞬間、世界の輪郭が研ぎ澄まされた。


広場にいる全員の鼓動が聞こえる。


火炎術師が次に吐く炎の形まで分かる。


亀裂を塞ぐ方法も、王都を救う未来も、自分が神になる手順も、すべて理解できた気がした。


これだ。


俺は治療が始まってから、この瞬間を待っていた。


星素だけを吸うつもりだった。


だが青い糸には、人々の感情が絡みついていた。


家へ帰りたい。


子どもを守りたい。


死にたくない。


明日のパンを焼きたい。


祭りの続きを見たい。


欲望は、呪いとよく似ている。


そして、あまりにうまかった。


もっと吸えば、全員が静かになる。


恐怖も混乱も消え、俺の指示に従う。


もっと。


あと少し。


全部。


広場の最前列にいた少女の泣き声が止んだ。


瞳から光が消えていた。


祝勝広場の、あの母親と同じ顔だった。


「マコト、切れ!」


エッダの声が遠くで響いた。


切りたくなかった。


俺ならできる。


俺にしかできない。


全員を救えば、誰も俺を止められない。


そのとき、アーデルが俺の前へ立った。


青い糸が彼女の胸からも伸びている。


「祝勝広場で、君は私の恐怖を吸った」


彼女の声は震えていた。


「三日間、弟の顔を思い出せなかった。あいつを失うのが怖いという気持ちごと、君が呑んだからだ」


「どけ。今止めれば――」


「私は、君に救われたかったんじゃない」


アーデルは俺の手首をつかんだ。


冷たくて、汗ばんだ手だった。百騎を率いた隊長の手ではない。今夜も欲しい、と毎夕口にする女の手だ。


「怖いまま、誰かとここにいたかった」


手首の感触が、研ぎ澄まされた世界へ小さな傷をつけた。


そこから、音が戻ってきた。


泣き声。怒鳴り声。割れる皿。ボロが月苦草の袋を引きずる音。


俺は技能を切った。


膝をつき、石畳へ吐いた。青い光が唾液に混じり、すぐ消えた。


身体中が、もう一度つなげと叫んでいる。


亀裂の心臓は、さらに大きくなった。


俺は一本だけ糸をつなぎ直し、大貯槽からあふれる星素を身体へ少しずつ逃がした。これなら破裂を遅らせられる。長くて二十分。それ以上つなげば、今度こそ俺が止まれなくなる。


「エッダ」


「ここにいる」


「さっきの七つの釜をやる。俺は何をすればいい」


「星素を身体へ通し、釜へ少しずつ逃がせ」


「成功するのか」


「この規模では試したことがない」


エッダは一度、息を吸った。


「私も怖い」


彼女の恐怖は青い糸になって見えた。俺は触れなかった。


俺は広場を見渡した。


逃げ惑う群衆。酒場の主人。屋台の料理人。神官。騎士。魔術師。患者。医師。


広場には手があった。問題は、俺がそれを借りられるかだった。


俺は拡声術の石を拾った。


「聞いてくれ!」


声が広場に響いた。


「俺一人で全部吸えば、大貯槽は止められる。だが俺は、星蜜を安全に扱えない。今も欲しくてたまらない。続ければ毒だけでなく、みんなの恐怖も、願いも、明日を欲しがる心も吸ってしまう。あの祝勝広場でそうしたように」


「なら飲め!」


最初の声に、いくつもの声が重なった。


「病気は明日から治せ!」


「今夜だけだろうが!」


「こっちは子どもが広場にいるんだ!」


どれも聞き覚えがあった。俺が二つの人生で、自分に向かって叫んできた台詞だった。八万人で合唱すると、なかなかの説得力があった。


青い砂糖菓子が俺の額へ当たり、砕けた。甘い匂いがした。


大神官が俺の腕をつかんだ。


「民の声を聞いたであろう。騎士団長、勇者に務めを果たさせよ」


ガイルは王命書を開き直した。


「王命は、技能封印の解除までです。飲酒命令は記されていない」


「この非常時に文言を論ずるか」


「五度、こいつの使用を報告しませんでした。六度目はありません」


ガイルは大神官との間へ入り、群衆に向き直った。


「勇者一人に呑ませるな」


俺は大神官の手を外し、続けた。


「だから手を貸してくれ。大鍋を七つ。水を運ぶ者。月苦草を刻む者。火を起こす者。術を使える者は水晶砂へ魔力を通してくれ。錬金院の沈殿枠を鍋へ取りつける。俺は作業が終わるまで亀裂を押さえる。俺一人では無理だ」


広場は静まり返った。


赤い頭巾の女が、人垣から出てきた。


祝勝広場で、娘に袖を引かれても振り向かなかった母親だった。


「この男は、娘の声を聞きたい気持ちまで、私から盗った」


群衆が道を空けた。女は俺を見たまま、娘の手を握った。


「許してはいない。許すのは後だ。最初の鍋は、どこへ運ぶ」


次に動いたのは、噴水の上で逆さまになっていた男だった。


地面へ落ち、首をさすりながら、近くの酒場を指さした。


「うちに、煮込み用の大鍋が二つある」


酒場の主人だった。人に飲ませる商売の男が、最初に鍋を差し出した。俺はこの夜以来、酒場の主人を一括りにする癖をやめた。


次に屋台の女主人が叫んだ。


「水なら樽ごと持ってきな!」


ガイルが剣を抜き、騎士たちへ命じた。


「中央通りを空けろ! 厨房から釜を集めろ!」


アーデルは広場の階段へ上がった。


「百人ずつ七列! 走るな、押すな、空の手で戻るな!」


誰も動かなかった。


アーデルの手が反射的に剣へ伸び、途中で止まった。


「……違う。七列の先頭を引き受ける者を、七人だけ貸してくれ」


赤い頭巾の女が一列目に立った。酒場の男、屋台の女主人、消防組の若者たちが続いた。


神官たちは大神官を見た。


大神官が命じた。


「神殿の聖水庫を開けよ」


若い神官が声を上げた。


「あれは戴冠式のための水です!」


大神官は金の杯を抱えたまま、神官たちをにらんだ。


「王が生きていれば、また汲める」


ボロが月苦草の袋を切り開いた。


「王都じゅうを月苦草漬けにするぞ!」


歓声は上がらなかった。罵声と泣き声の中で、それでも鍋と水は動き始めた。


七 七つの釜


それからの十五分を、後に吟遊詩人は〈七釜の奇跡〉と呼んだ。


実際は、かなり泥臭い作業だった。


酒場から運ばれた鍋には昨日の煮込みがこびりついていたし、水晶砂を入れすぎた一釜は固まり、騎士三人がかりで底を叩くことになった。


月苦草を刻んだ者は全員泣いた。


感動ではない。汁が目にしみただけだ。


錬金院から届いた七つの沈殿枠は、酒場から集めた七つの大鍋へ一つずつ固定された。水晶砂を敷き、月苦草を煮立てた即席の沈殿釜だ。


俺は亀裂の前に立ち、準備の整った釜へ順に浄化の糸を伸ばした。


大貯槽からあふれる星素をいったん身体へ通し、釜へ逃がす。


全部を自分へ入れるより、はるかに難しい。糸を釜へ逸らすたび、両腕が痙攣した。


口に含んだものを飲み込まずに吐き出す作業を、十五分続けるようなものだった。酒呑みなら分かるはずだ。それは飲むより、ずっと辛い。


「第一釜、沈殿開始!」


「第二釜、水が足りない!」


「第三釜に煮込みの肉が入っているぞ!」


「うまそうなら残せ!」


ボロが叫び返した。


怒号が飛び交う。


金の杯は、俺の足元に置かれたままだった。


大神官が「万一に備えて」と、わざわざ俺の右足のそばへ寄せた。エッダはそれを見ていた。何も言わなかった。


青い心臓が脈打つたび、星蜜の甘い匂いが濃くなった。


彼らは遅い。間違える。鍋さえまともに洗えない。


だから俺が全部吸えばいい。その考えは、星蜜と同じ匂いがした。


第五列が崩れた。


火の粉が跳ね、水樽を運んでいた男が転び、後ろの三人が将棋倒しになった。列の先頭で少年が泣き出す。


俺の指が動いた。


糸を一本増やせば、あの列ごと静かにできる。恐怖を吸えば転ばなくなる。泣かなくなる。


「アーデル!」


俺は叫んだ。


「第五列が――」


「見えている!」


アーデルは階段を駆け下り、転んだ男を引き起こし、泣いている少年に自分の水筒を渡した。


「泣いていい。運びながら泣け。どっちも仕事だ」


列は、五秒遅れて戻った。


俺が吸えば、一秒だった。


その差の四秒で、少年は泣きながら樽を運び、俺は誰の恐怖も食わなかった。


第四釜の沈殿枠が、甲高い音を立てた。


留め金が一本飛び、煮立った薬湯がボロの腕へかかった。緑色の皮膚から白い湯気が上がる。


俺の指から、反射的に一本の糸が伸びた。


「戻せ」


エッダが俺の手首を打った。


「火傷している!」


「見れば分かる。大貯槽を押さえろ。この患者は私が診る」


魔法を使えない女は水を浴びせ、軟膏を塗り、包帯を巻いた。その間にガイルが盾を釜へ押し当て、アーデルが剣の柄頭で留め金を打ち直した。


ボロは歯をむき出した。


「俺を煮込みにするなら、せめて塩を入れろ」


第四釜は止まらなかった。


上着の内側で、硬いものが胸に当たった。


隠していた小瓶だ。


飲めば糸を安定させられる。非常用という言い訳は、とうとう本物の非常事態を見つけた。


片手を上着へ入れる。


瓶をつかむ。


人垣の向こうに、皺だらけの背広が見えた。


六日目には何も見えないはずだった。それでも彼はそこにいて、缶を高く掲げていた。拍手ではない。乾杯だった。


「エッダ」


声がかすれた。


「ここにいる」


彼女は俺のすぐ後ろにいた。脈を測り、瞳の色を見て、一定の間隔で水を飲ませている。


「これを」


小瓶を差し出した。


「捨ててくれ」


エッダの顔が、初めて崩れた。自分の見落としを、初めて物として突きつけられた顔だった。


それでも、受け取らなかった。


腹が立った。


「聞こえなかったのか!」


「君の手を開け。私の掌へ置け」


「同じことだろう!」


「違う」


青い光が視界を焼いた。


指は瓶を握ったまま動かない。


欲しい。


今すぐ飲みたい。


誰かに奪われたことにしたい。


奪われたなら、俺は被害者でいられる。飲んだ後の言い訳まで、身体はもう用意していた。


アーデルが隣に立った。


「急げ。私も今、それが欲しくなっている。それでも、次の鐘までだ」


「鐘なんか聞こえない」


「なら、私が鳴らす」


彼女は剣の柄頭で、俺の足元にある金の杯の細い脚を叩いた。濃紺の液面が揺れた。


澄んだ音が、青い霧の中へ広がった。


一度。


二度。


三度。


国が俺のために用意した杯が、ただの鐘になった。


俺は指を一本ずつ開いた。


親指が最後まで抵抗した。前世でも、缶の口を起こすのは親指の仕事だった。


瓶がエッダの掌へ落ちた。


小瓶だけが手を離れた。渇きは残った。


人垣の背広は、いつの間にか消えていた。乾杯の相手がいなくなったのだろう。


「第七釜、準備完了!」


ボロの声が響いた。


七つの釜から、月苦草の蒸気が立ち昇る。


七本の浄化の糸を、一斉に太くした。


青い奔流が釜へ注ぎ込んだ。


街じゅうから運ばれた水が沸騰し、水晶砂が光り、月苦草が星素へ絡みつく。


青が白へ変わっていく。


液体が、細かな結晶になる。


第一釜、成功。


第二釜、成功。


第三釜は煮込み肉ごと固まった。


第四、第五、第六。


最後の一釜を前に、地面が大きく裂けた。


青い心臓が亀裂からせり上がる。


巨大な滴となって宙へ浮かび、王都全体を映した。


俺の顔も映っていた。


笑っているように見えた。


――全部、呑め。


自分の声がした。三十九歳の、死ぬ少し前の声だった。


――お前ならできる。


ああ、できる。


できるから、やってはいけないことがある。


「第七釜へ!」


俺は最後の糸を伸ばした。


一人では支えきれない。


アーデルが背中を支え、ガイルは崩れる足場へ剣を突き立てた。その後ろで、人々は水を運び、火を絶やさず、七つの釜を押さえていた。


ボロが鍋をかき混ぜながら叫ぶ。


「苦いぞ、覚悟しろ!」


「今さらだ!」


俺は叫び返した。


青い滴が崩れ、七本目の糸を通って釜へ落ちた。


白い光が弾けた。


王都に、苦い雨が降った。


一滴が開いた口へ落ちた。月苦草と、焦げた星の味がした。


人々は顔をしかめ、唾を吐き、悪態をついた。


誰も笑ってはいなかった。


誰も無表情ではなかった。


それでよかった。


地下の鼓動が止まる。


俺は膝から崩れた。


石畳の上に、金の杯があった。


まだ濃紺の液体が満ちている。匂いは、朝が来るまで続きそうだった。


俺は震える手でそれを持ち上げ、第七釜の縁まで這っていった。


飲まなかった。


杯を傾け、釜へ空けた。


濃紺が白い結晶に変わるまで、三つ数えるほどしかかからなかった。


前世で、流しに酒を空けたことは一度もなかった。捨てる決心をした夜も、捨てる前に飲んだ。


病棟で飲んだ一滴も、今夜この身体へ通した星素も、なかったことにはならない。


けれど金の杯は、俺の喉ではなく、釜の中で空になった。


それでいい。


薄れていく意識の中で、群衆が再び俺の名を叫ぶのを聞いた。


勇者。


臆病者。


鍋代を払え。


「違う」


声になったかは分からない。


「俺は、患者だ」


その言葉だけが、今夜の俺にはちょうどよかった。


八 空の杯


星降り祭の事故で、死者は出なかった。


重傷者二十七名。軽傷者は数え切れず。感情を吸われた最前列の少女も、翌朝までには母親の手を握って泣けるようになった。


酒場六軒が七つの大鍋を失い、うち一軒は百年継ぎ足した煮込みまで失った。店主は、人的被害より深刻な顔をしていたという。断魔院へ届いた請求書には、鍋代の下に「煮込み百年分」という項目があった。金額の欄は空白だった。値のつけられないものを失った人間は、だいたいそうする。


新聞は事件を〈勇者マコトと七釜の奇跡〉と報じた。


俺が星蜜を欲しがっていると広場で告白した部分は、紙面の都合で削除された。


紙面には、いつも都合がある。


金の杯は、正式な手続で事故の前に用意されていた。錬金院の帳簿には「濃縮星蜜 一杯分 勇者御業用」とあり、大神官と国王、両方の印が並んでいた。


罠でも陰謀でもなかった。それが、いちばん悪かった。


封印に何かあれば、勇者が飲む。誰もがそれを正しい備えだと思っていた。


国王は謝らなかった。「一人より八万人を選んだ」と言った。そのうえで、勇者一人を前提とする非常手順の廃止と、大貯槽の改修、王立断魔院の予算三倍を命じた。


詫びより書類の方が、次の一人を助けることもある。


ガイルは握り潰した五通の報告書を、第六報告書に綴じて監察院へ提出した。騎士団長の徽章も一緒だった。


面会に来た彼は、徽章のあった胸の位置を何度も指でなぞった。


「六度目を、もう少し早く言えばよかった」


「一度目に言われていたら、俺は怒って、お前と縁を切っていた」


「そうか」


「だから、六度目でよかった」


半分は嘘だった。残りの半分は、口にしてみると本当になった。


大神官は〈七釜の奇跡〉が星神の導きだったと説いた。人間は、一晩で別人にはならない。俺も知っている。


ボロは初めて国王を名君と呼び、厨房のかまどを四つ増やした。


俺は月裏療養塔へ戻った。


青銅環は、塔へ着くなり両手首へはめ直された。


退院は延びた。


当然だと思うまでに、さらに九日かかった。


エッダの事故報告書は、「入院時の所持品検査が不十分で、隠し瓶を発見できず」という一文から始まっていた。責任者の欄には、彼女自身の署名があった。


俺から受け取った小瓶は、目の前で排水口へ流してはくれなかった。封印箱へ入れ、日付、受領者、そして「本人申告 一滴使用済み」と帳簿へ記録し、二人の職員に署名させた。


金の杯も、同じ箱へ入った。帳簿の内容物の欄には、「空」とだけ書かれた。


俺はもっと劇的なものを期待していた。


回復というのは、たいてい書類仕事を伴うらしい。


診断票の「病識なし」は二本線で消され、その横に小さく書き足されていた。


病識 次の鐘まで、あり


窓辺の椅子には、あれから誰も座っていない。今夜も来ないとは言い切れない。次の鐘までは、空だ。


アーデルは弟の手紙を開いた。


結婚式は三か月後だった。


「出席するのか」と聞くと、彼女は言った。


「『行きたい』と一行だけ書いた」


「送ったのか」


「まだだ。次の鐘が鳴ったら、投函箱まで一緒に来い」


俺には、投函する相手がいない。妹は俺が死んだ世界にいて、まだ着信履歴を見ているかもしれないし、もう見ていないかもしれない。どちらにしても、俺が電話に出られる日は来ない。


だから代わりに、他人の手紙が投函箱へ落ちる音を聞きに行く。それくらいは、できる。


事故から十日後、朝食前の集まりに新しい患者が加わった。


若い宮廷魔術師だった。両手の震えを隠すため、袖を握りしめている。


円形に並べた椅子。


一人に一つの空の木杯。


エッダがいつもの質問をした。


欲しいものを一つ。


次の鐘までにすることを一つ。


若い魔術師は長い沈黙のあと、かすかな声で言った。


「星蜜が欲しいです」


誰も驚かなかった。


「でも、欲しがる自分を消してほしい」


彼は俺を見た。


「万能浄化なら、治せますか」


以前の俺なら、迷わずうなずいただろう。


相手の渇きを吸い、感謝と力を受け取り、それを治療と呼んだはずだ。


俺は両手を膝に置いた。


「治せない」


魔術師の顔が曇った。


「俺には渇きを消せない。自分のものさえ消えていない」


「では、どうすれば」


「一生分は分からない」


俺は空の木杯を持ち上げた。


「次の鐘までは、ここにいる。一人にしない。それならできる」


ボロが皆の杯へ月苦草の茶を注いだ。


相変わらず、絶望的にまずかった。


若い魔術師は一口飲み、泣きそうな顔になった。


「これを毎日?」


「安心しろ」とボロが言った。


「長く飲んでも慣れない」


小さな笑いが起きた。


俺も笑った。


俺は茶を飲み干し、ボロから水をもらった。


木杯の中で、朝の光が揺れていた。


卓に置いた杯の底から、丸い染みが広がった。


水でも、染みはできる。ただし、乾く。


前世で死んだ歳まで、あと一年。そこまで越えられるかは分からない。


渇きはまだいる。


飲みたい。けれど、次の鐘までは飲まない。


水は何も約束しなかった。


俺を英雄にせず、過去を許さず、明日を保証もしなかった。


ただ喉を通り、俺を朝の側へ残した。

作中には依存症や離脱、幻覚を思わせる描写がありますが、現実の診断・治療を説明するものではありません。現実にアルコールや薬物の使用を中断する場合には、離脱症状が重くなることがあり、医療的な管理が必要となることがあります。

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