第1話:鉄屑とオイルの診療所
世界は、いつだって錆とオイルの臭いがする。
俺が住むこの街――階層都市バビロンの「最下層」には、朝という概念が存在しない。
頭上を覆うのは、数百メートルにも及ぶ分厚い鋼鉄の天井だ。
それは中層や上層といった「選ばれた人間たち」が住む世界の床であり、俺たちにとっては、決して晴れることのない永遠の曇天だった。
カン、カン、カン……。
遠くで、巨大な廃熱ダクトが熱膨張できしむ音が響いている。あれがこの街の時計代わりだ。
俺――ヴェインは、その不協和音で目を覚ました。
万年床から体を起こすと、背中の古傷が湿気で疼く。
この区画の空調システムは一世紀前に壊れており、空気は常に重く、淀んでいる。
天井の配管から滴り落ちる結露が、コンクリートの床に黒い染みを作り、そこからまた新たなカビが生まれる。
「……最悪の目覚めだ」
俺はため息をつき、サイドテーブル代わりのドラム缶から、飲みかけの合成コーヒーを手に取った。
豆など一粒も使っていない、焦げたゴムのような味がする黒い液体。だが、このカフェイン代わりの興奮剤が入っていないと、俺の低血圧な脳は起動しない。
部屋の隅にある作業台には、昨日分解しかけた義手のパーツが散乱している。
壁には、拾ってきたジャンクパーツで組み上げた工具類が所狭しと並び、薄暗い部屋の中で鈍い光を放っていた。
ここが俺の城であり、職場だ。
職業は「機工医」。
このゴミ溜めのような最下層で、正規のメンテナンスを受けられないサイボーグたちの不調を直し、時には生身の人間よりもタチの悪い機械の身体を延命させる、無免許の修理屋だ。
プシューッ……ガガガッ。
入り口のエアロックが、油切れの悲鳴を上げて開いた。
開店時間はまだだというのに、招かれざる客の登場だ。
「よう、ヤブ医者。……またツケで頼めるか?」
入ってきたのは、身長二メートルを超える巨漢、ガルドだった。
全身の六割を機械化した「重機化歩兵」の成れの果てだ。
かつては中層の工場で危険作業に従事していたらしいが、事故で体を欠損し、補償金代わりに安い義体をあてがわれて最下層へ捨てられた「廃棄民」の一人だ。
彼の右腕――工業用の削岩機を無理やり溶接したような無骨な義手が、バチバチと火花を散らして痙攣している。
「……ガルドか。言ったはずだぞ、その腕のサーボモーターはもう寿命だと」
俺はコーヒーの残りを飲み干し、作業用の白衣(といっても油汚れで灰色だが)を羽織った。
「そう言うなよ、ヴェイン。……こいつが動かねえと、今日のゴミ拾い(スカベンジ)ができねえんだ。頼むよ、この通りだ」
ガルドが診療台代わりの手術台に、ドスンと腰を下ろす。
その重みで、錆びついたスプリングがギシギシと悲鳴を上げた。
彼の体からは、古いグリスと、酸化した鉄、そして風呂に入っていない獣のような体臭が混ざった強烈な臭いが漂ってくる。
「……ハァ。分かったよ。だが、今回が最後だ。次はパーツごと交換しないと爆発するぞ」
俺は工具棚から電動ドライバーと、電圧調整用のテスターを取り出した。
慣れた手つきでガルドの右腕の装甲板を外すと、むっとするような熱気と共に、焦げ臭い白煙が立ち上る。
内部は酷い有様だった。
断線しかけた動力ケーブルを絶縁テープで無理やり補強し、磨耗して歯が欠けたギアの間には、ヘドロのような黒い油汚れが詰まっている。
まさに、この街そのものだ。継ぎ接ぎだらけで、今にも壊れそうなガラクタ。
「痛むか?」
俺がテスターの針を当てると、電流が流れて筋肉繊維がピクリと反応した。
「いんや。……神経接続はとっくにイカれてる。感覚なんざねえよ」
ガルドが自嘲気味に笑い、黄ばんだ歯を見せた。
最下層のサイボーグたちは、皆そうだ。
高価な純正のメンテナンスオイルを買う金がなく、不純物の多い廃油を代用して神経系を焼き切ってしまう。
痛みを感じなくなるのは幸運な方で、最悪の場合は脳が焼けて発狂する「廃人」になる。
「感覚がないほうが幸せなこともあるさ、この街じゃな」
俺は慎重にピンセットを入れ、焼きついた回路を迂回させる処置を施した。
繊細な作業だ。
指先の一つ狂えば、残ったわずかな神経まで焼き切り、彼の右腕をただの鉄屑に変えてしまう。
俺の目は、右目に装着した拡大鏡越しに電子回路の微細なサビを捉え、それをマイクロ・リューターで削り取っていく。
ウィィィィィン……。
リューターの微細な回転音が、静かな部屋に響く。
俺はこの時間が嫌いじゃない。
壊れかけたものを直す時だけは、この理不尽な世界に少しだけ抗っているような気がするからだ。
「……ヴェイン、お前はいい腕してんのにな」
治療の最中、ガルドが退屈そうに天井を見上げながら言った。
「なんでこんな掃き溜めにいんだ? その腕がありゃ、中層の整備局にだって潜り込めるだろ。もっとマシな暮らしができるはずだ」
「中層もここも変わらないさ」
俺は手を止めずに答えた。
回路の接続が完了し、緑色のステータスランプが点灯する。
「上からゴミが降ってくるか、自分がゴミになるかの違いだけだ。……それに、俺はここが気に入ってるんだよ。お前みたいな手の焼ける患者が尽きないからな」
「へっ、皮肉屋め」
修理を終えた右腕を回し、ガルドが満足そうに唸った。
モーターの異音が消え、スムーズに駆動している。
「ほらよ、今日の治療代だ」
ガルドがポケットから取り出したのは、金ではない。
古びた『圧縮食料』の缶詰が二つと、どこかで拾ってきたらしい『旧時代の電子基板』が一枚。
これが最下層の通貨だ。
「……悪くない」
俺は基板を受け取り、光にかざして検分した。レアメタルが含まれている。これなら闇市で抗生剤と交換できるかもしれない。
「ありがとな、先生! これでまた稼げるぜ!」
ガルドは機嫌よく手を振り、エアロックをくぐって灰色の街へと消えていった。
後には、オイルの臭いと、静寂だけが残る。
俺は再びコーヒーを啜ろうとしたが、カップの中身はもう空だった。
「……さて、仕事するか」
俺は白衣の襟を直し、診療所のシャッターを開けるスイッチを押した。
ガラガラガラガラ……ッ!
重いシャッターが巻き上がると同時に、最下層の喧騒が雪崩れ込んでくる。
物乞いの声、怒号、怪しげな露店の呼び込み、そして遠くで鳴り響く銃声。
混沌と絶望がスープのように煮込まれた街。
いつもの朝だ。
だが、俺はまだ知らなかった。
このありふれた灰色の日常が、今日、一人の少女との出会いによって完全に破壊されることを。
空から「天使」が落ちてくるまで、あと数時間。
(続く)
次回予告
平和な朝は、蹴破られたドアと共に終わりを告げる。
最下層で最も関わりたくない男、悪友ジーク。
奴が笑顔で持ち込むのは、いつだって金にならない仕事と、厄介な銃撃戦だけだ。
「よう相棒、景気のいい話があるんだが?」
断る。俺は医者だ、便利屋じゃない。
だが、運命の歯車は、腐れ縁という油を差されて軋みながら回り出す。
次回、『悪友ジークと、路地裏の銃声』。 ――腐れ縁は、錆びても切れない。




