表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

最後の晩餐

作者: りん
掲載日:2025/11/30

今日は世界が滅亡する日。



巨大隕石が地球に衝突するまで、あと8時間ほど。

どんなに現代の技術を総動員しても、その運命は変えられなかったらしい。

…本当にそんなことあるのだろうか。


ここ1ヶ月、ニュースもSNSも隕石の話題で埋め尽くされていた。

仕事を放棄する人、街で暴れる人、家族と静かに過ごす人。

もうすぐ死ぬのだからと、誰もが好き勝手に生き始めていた。


私はといえば、妙に冷静だった。

まるで他人事のように、いつもの朝食を作り、洗濯をして、カレンダーの最後のページをめくる。


「なあ、美緒。今日…デートしようか」


新聞を読みながら、夫がぼそりと言った。

彼は弁護士だったが、依頼人も裁判もすっかり消え、数週間前から自宅にいる日々が続いている。

ここ最近は2人でだらだら過ごすだけ。

外に出る理由が無いのだから仕方がない。


「デート?」


「そう。最後の日くらい、思い出を作ろう。行きたいところ、全部まわろう」


彼の目は、どこか少年みたいに輝いていた。

私は笑ってうなずいた。


こうして、世界の終わりのデートが始まった。




午前中は遊園地。

観覧車に乗ると、空にはぼんやりと隕石の光が見えた。

月のような、まるで元からそこにあるように静かな様子で空に浮かんでいた。


「ねぇ、あれが落ちてくるんだよ…すごいね」


「美緒、隕石のことは気にしないでおこうよ」


夫はそう言って、私の肩を抱いた。

冷たい風が吹いて、彼の手の温もりだけがやけにリアルだった。


映画館では、古い恋愛映画を観た。

途中で泣き出す人、笑い出す人、キスをするカップル。

世界の終わりに似合う映画館だった。



そして日が沈むころ、夫が言った。


「実は、レストランを予約してあるんだ。最後の晩餐的な」


「予約?今日、この日に?出来たのそんなこと」


「従業員の意向で最終日まで営業しますってホームページに書いてあったんだ。すごいよな」


「良かったね、行きたい行きたい!」




ミシュラン星付きと看板に記された、いかにも上品な店に着いた。

外観はシンプルで無駄がなく、黒い木製の扉と柔らかな間接照明が、静かに客を迎え入れている。

店先には花束やメッセージカードがいくつか置かれていた。


扉を開けると、温かい空気とバターの香りがふわりと広がった。

外のざわめきとは対照的に、店内は落ち着いた音楽が流れ、まるで別世界のように静かだった。


レストランには他にも数組の客がいた。

老夫婦が手をつないで窓際の席に座っている。

若いカップルは肩を寄せ合い、写真を撮りあっていた。

スーツ姿の男性が1人でワインを飲み、ゆっくり目を閉じて味わっている。



世界が終わるその日でも、ここだけは何一つ変わらず、粛々と良い夜を続けているようだった。


「いらっしゃいませ。ご予約のお名前は?」


「橘です」


席に案内され、ワインが注がれる。

夫は終始穏やかで、美緒は久しぶりに心から笑っていた。

料理はどれも信じられないほど美味しかった。


「こんな日に、こんな美味しいもの食べられるなんてね」


「うん、死ぬ前に知れてよかったな」


時間がゆっくり流れていく。

やがて他の客が帰り、レストランに残ったのは私たちだけになった。


そのとき、黒服の従業員が近づいてきた。


「お食事はいかがでしょうか?」


「最高でした」

夫が答える。


「ありがとうございます。実は、シェフが最後のお客様にご挨拶をしたいと申しておりまして」


「いいですよ、ぜひ」


数分後、厨房の扉が開いた。

出てきたのは、白いコックコートを着た青年。

年は夫と同じくらい、30歳前後だろう。

すっと歩み寄り、私たちの前で立ち止まった。


「今日という日にお越しいただき、本当にありがとうございます」


その瞬間、目が合った途端、心臓が止まった。


その声、その顔、その瞳。

数年前、大学を卒業した春に別れた私の元恋人。

海斗だった。




数分後、夫は「ちょっとお手洗い」と席を立った。


それを目にした海斗が、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。

厨房で見せる職人の顔ではなく、どこか戸惑いを含んだ表情だった。


「……お前、なんで」


「あなたこそ、なんでよ」


「なんでって…ここは俺の店だ」


「いつ日本に帰ってきたのよ。10年は帰らないって言ってたじゃない」


「俺の予想よりも俺に才能があっただけだ。予定より早く店を出せることになって」


「…なにそれ。相変わらず自信家でウザい」


一瞬、ふたりの間に沈黙が落ちた。


「…お前こそ、もうほかの男見つけたのか」


「人聞き悪いわね。あなたが海外に行った後すぐ、高校の同窓会で再会した」


「何してる人なんだ」


「弁護士。元カレと違って、突発的に海外になんて行かない職業でしょ」


「…なんだそりゃ」


皮肉っぽく言い合いながらも、懐かしさが喉の奥にひりつく。

そのとき、夫が戻ってきた。


海斗は一瞬で外向けのシェフの顔に戻る。

プロの、淡く微笑む表情。


「それでは、残り少ない時間ですが…どうぞ、お食事をお楽しみください」


そう言って、彼は静かに厨房へ戻っていった。




夫と食事を続ける。


目の前に置かれた皿から、濃厚で香り高い湯気が立ちのぼる。


「おいしい…私の好きな味だ」


今日の一皿は、“白トリュフのリゾット パルミジャーノの泡を添えて”

鼻に抜ける香りは強いのに、口当たりは驚くほど軽い。


「美緒ってこういうの好きだったっけ?」


「うん。クセの強いのは苦手だけど、香りがふわっとしてるものは好き」


「へぇ…全然知らなかった」


「家で作れるようなもんじゃないし」


「そっかあ」


スプーンを口に運ぶたび、胸の奥がざわつく。

どうしてだろう、この味、知っている。



海斗と暮らしていたころ。

料理が苦手な私の代わりに、彼は毎日キッチンに立っていた。

深夜のバイト帰りでも、修業の日でも、必ず手料理を作ってくれた。


その中でも、私が心から好きだった料理がある。


数分後、次の皿が運ばれてきた。


皿には、柔らかく煮込まれた肉の香りが漂っていた。


“ポルケッタのハーブロースト レモンとサルサ・ヴェルデ添え”

豚バラ肉にローズマリー、フェンネル、レモンの皮。

外はパリッ、中はとろけるような食感。


夫が一口食べて目を輝かせた。


「これ…うまいな。美緒」


「…うん」


美緒の指が一瞬止まる。

この味は、知っているどころではない。



毎日、毎日。

海斗が修業前に『自分の味を完成させたい』と言って、私に食べさせていた料理だ。


「この料理は、私がイタリアに修業に行く前から得意としていたものでして」


厨房から、海斗の声が控えめに聞こえてくる。

プロとしての説明だ。

だが、海斗と私には、別の意味を宿す言葉だった。


“あの頃からずっと、お前の好きな味だろ”


そう言われた気がした。


美緒はゆっくりとフォークを動かし、噛みしめる。

舌に広がる懐かしい味に、胸の奥がじくりと痛んだ。




料理を食べきり、会計を済ませたあと、2人はレストランを出ようとした。

ふと厨房の方を見ると、従業員とシェフである海斗が入口まで見送りに歩いてきた。


「最後の日なのに、おいしい料理をありがとうございました。とてもいい思い出になりました」

夫がにこやかに頭を下げる。


「こちらこそ、私たちの料理を選んでくださり、ありがとうございました」

海斗は柔らかい笑みを浮かべた。

その表情は、先ほど厨房で見せた職人の顔とは少し違っていた。


夫は先に扉を出て行く。

美緒はその後ろ姿を見送りながら、なぜか足が止まってしまった。


扉の前で立ち止まり、そっと振り返る。


「……」


海斗が美緒に気づき、ほんのわずか眉を上げた。


「…聡くん、厨房の掃除お願いできる?」

海斗が従業員に声を掛ける。


「はい!」

従業員が奥へ消えていき、入口には2人だけが残った。



薄暗い店内。

外から差し込む街灯の光が、海斗の横顔を切り取る。

美緒は息を呑み、肩を震わせるように口を開いた。


「なんだよ。まだ言いたいことあんのか」


「…あの料理を食べて、すっきりした気持ちで最期を迎えられるわけないでしょ」


海斗は小さく笑った。


「まあ、あの料理…うちのレストランのメニューじゃないし」


「は、はあ?なにそれ!」


「俺らはさ、昔からこういう性格だろ。意地悪で中途半端に気取れねえっていうか」


ずるい、と美緒は言いたかった。

けれど言葉は喉の奥で固まってしまった。


「…なんか、その……謝ったほうがいいのかなって思って」


「別にお前に謝ってほしいなんて思ってねぇよ」


「…え」


そこで、記憶が一気に胸の奥まで押し寄せてきた。



海斗が突然、海外で料理を学びたいと言い出した日のこと。

同棲を始めて数ヶ月だったこと。

美緒はついていけないと言い、2人は喧嘩して、そのまま別れたこと。


あの頃の若さ。

焦りと情熱と幼さと、色んなものがぶつかっていた。



「俺もお前も、あの時はまだ若かっただけだよ」

海斗は淡々と言う。


美緒は黙って頷いた。


「…そう。じゃあ、また」


踵を返そうとした、その背中に声が投げられた。


「あ、そうだ」


「ん?」


「お前の旦那…お前の食べ物の好みすら知らねぇの?」


「料理人の元彼よりは知らないかもしれないけど…別に、人並みよ」


「へえ」


海斗の声は柔らかく、どこか悔しさの滲む音色を含んでいた。


「今、幸せ?」

明かりの少ない店内で、海斗の瞳だけがまっすぐに光る。


美緒は一瞬、息を止めた。


「…どっちにしても、あなたに簡単に言えるわけない」


「……そっか」


海斗はそれ以上は追及しない。

でもその沈黙が、2人の距離と、残りわずかの時間を痛いほど思い出させた。


「今度こそ、じゃあね。…残りわずかだけど、元気で」


美緒は静かに頷いた。


「うん」


震える心を押し込みながら、美緒は扉を押し開けた。

外の夜風がひんやりと頬に触れた。




「聡くん、おまたせ」


「……シェフ」


「はあ!?お前、なんで泣いてんの!?」


「だって……店長が良い人すぎて……」

聡は小さく俯き、肩を震わせる。


「おま、話盗み聞きしてたのか…まあ、もういいけどさ」

海斗は肩をすくめて笑う。


「良いんですか、店長」


「何が?」


「彼女さん、追いかけなくて」


海斗は少し間を置き、窓の外の街をぼんやりと見やった。


「別に、何年も前の元カノだし。いいんだよ、そっちの方が俺らしい」


「そうですか……」



ああ言えば、あいつは旦那と一緒にいる間、少しは俺のことを思い出すだろう。

俺のことを振ったくせに、勝手に幸せになっているのが気に食わない。

でも、それも当然のことだ。

俺に惚れられた代償だ。


胸の奥で、少しの嫉妬と自負が混ざった感情が膨らむ。


海斗は視線を窓に戻す。

遠くの空には、徐々に迫る隕石の光がかすかに見えていた。

それを見て、胸の奥のざわめきが少し静まる気がした。


「…でも、やっぱり、もう何もできないんだな」

呟くように言い、海斗は軽く息を吐く。

厨房の奥、鍋の音やグラスの触れ合う音だけが、静かな店内に響いた。




「ごめんごめん、ハンカチ席に置きっぱなしにしてて」


「ああ、そうだったんだ。じゃ、そろそろ展望台に行こうか」


「うん」



展望台に立つ2人。

下界の街は静まり返り、ところどころで灯りが瞬き、風に揺れている。

世界の終わりは、想像以上に静かで、容赦がなかった。


美緒は肩越しに夫の方を見る。

夫は手を伸ばし、そっと彼女の肩に触れた。

言葉はなかった。

口にしても、もう何も変わらない。


「…怖くないの?」


美緒の声は、かすかに震えていた。

夫は短く笑い、目だけで返す。


「怖いさ。でも、俺らがどうこうできるもんじゃない」


2人の間に、ほんの一瞬、安らぎのような空気が流れた。

しかし、下界の明かりを覆う黒い影、確実に近づいていた。


美緒は息を吐き、風に髪を揺らされながら思った。

後悔も、伝えられなかった思いも、まだ胸に残っている。

でも、今さらどうしようもない。



「最後に、どんな顔で終わるんだろうね」


夫は答えず、ただ街を見下ろす。

その表情には、諦めと覚悟が同居していた。

そして2人の手は、自然と触れ合っていたが、温もりを確認するようなものではなかった。

単に、そこに存在するだけのもの。



遠く、夜空を切り裂く光。

それがすべてを終わらせるまで、あと数分。


風が冷たく頬を撫で、街の灯りが小さく瞬いた。

そして、世界は静かに終わりを迎えようとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ