10. ”何か”
――突然、辺りを低い地響きが襲う。足から、耳から、激しい振動を感じたかと思えば、胸部を強く圧迫されるような息苦しさへと瞬く間に切り替わる。
「な、なんだ…!?」
「えっと…これ、大丈夫、なの…?」
反射的にとった身を庇う姿勢のまま動けずにいる者、状況を確認しようとしきりに辺りに視線を散らばせる者、腰が抜けたのか膝が笑って立っているのもやっとな者、学生に見られた反応はさまざまではあるものの、そのどれもが彼等の”混乱”と”恐怖”を浮き彫りにした行動だった。
「え、えっと…ど、どうしよう…?」
そしてそれはリカも例外ではなかった。唐突に訪れた非日常、予想外の出来事に理解が追いつかない。今までに類を見なかった状況に陥った時、とれる選択肢のどれが最適かの推測がまるで出来ない。
「――とにかく先生のところにいこう」
「そうだな。俺達の独断で行動するよかましだ」
「よっしゃ、なら他のヤツ等にも発破かけてやっか!」
…しかし、他の三人は別だった。メイは適切だと思われる行動を戸惑う隙なく提案し、レンはその意図をすぐに理解して頷く。そしてミオはそれを更に拡張した実行案を挙げる。リカが当惑で何も思考できない間でも、彼女等には全く迷う様子も見せなかった。
「よし、じゃあメイ、俺達はあっちから行くぞ」
「判った。だったらミオはリカを連れて反対からお願いね」
「おうよ。任せな。――ほら、リカ、ぼけっとすんな」
「…えっ?あ、待って…!」
三人は顔を見合わせ、即座に行動に移そうとする。リカがようやく動き出せたのは、ミオに手を引かれてからだった。
それから彼女達は二手に分かれ、講師がいる筈の場所へと向かいながら他の呆けた学生達にも声をかけてその背を押していく。メイとレンはそれぞれに対して下手に刺激しないよう慎重に且つ手早く声をかけ、ミオは大胆にも大きな声と勢いのある平手で肩を叩き半ば強引に向かうように促す。そしてミオに連れられたリカもそのうちに我を取り戻し、ミオの過度な呼びかけを制しようとしながら自分も助力し始めた。
「…なぁ、メイ」
そんな作業の合間。ふとレンがメイに話しかけてくる。いつものようなこちらの心象を探る声ではない。明確に彼女に語りかける意志を持った芯のある声だった。
「何?レン君、どうしたの?」
どこかいつもと様子が違う。そう感じたメイは怪訝そうに首を傾げて訊ね返す。すると彼はより表情を真剣なものに変えて、
「…さっきのあれ、お前は何だと思う?」
ここは魔術学院、魔法という力を行使するための技術である魔術を探究、教授することを目的とした人間側の最高学府、学術機関である。故に学院で過ごしている間にも、非日常的な体験は今までに何度も経験してきていた。…なのだが、こんなにも不安を煽られるようなことは一度もなかった。ただの失敗や検証という可能性も、安全性を考慮すればそもそも校舎内の他人が多い場所で行うことはあり得ない。だったら…?
「レン君、今はそれよりも皆に声をかけないと」
彼女とて真相が判るのなら御の字だが、こうして把握できない以上自分達がなんとかできる範囲を超えていることもまた事実だろう。それをあれこれ思案するよりも先にすべきことがある。そうメイは冷静にレンの目を見据える。そしてレンもその彼女の反応に視線を逸らさず頷き返して、
「…悪い、余計なこと考えちまった」
――その時だった。
「おい!な、なんだあれは…!?」
誰かの叫び声が響く。周囲にいた者が皆その声の主の方へと振り向くと、そこには目を見開き血の気の引いた顔で林の影を仰ぎ続ける男子学生の姿が。更には彼は足を震わせながらゆっくりと後ずさりを始めている。
一体何が?何が彼をああも怯えさせている…?
徐に意識は林の方へと吸い寄せられる。視線の先には相変わらず異変は…、
――いや、何かがいる。草の葉の陰から異様な気配が漂ってくる。獣か?しかしそれにしては図体が大きい。そこに漂う気配からは人の殺意や敵意などではない、獲物を狙う捕食者のそれらしいものがいやでも伝わってくる…。
「ゥウウ…グルガァ…ッ!」
瞬間、その陰から奇声ともに”何か”が飛び出してくる。あまりに俊敏でその姿が歪んで見える。
「っ!?危ねぇ…!」
それが宙を舞う軌跡、その先が一人の学生の元に向かっていることに気付いたレンは途端に魔術を行使する。簡易的な術式、しかして現状に有効なもの、それをなるべく無駄も迷いもないように掌を翳す。
「―うっ、うわあぁっ…!?」
……間一髪だった。尻もちをついた男子学生に飛びかかるすんでのところで、”何か”は彼の足元から隆起した土壁に阻まれる。更にそこにメイが勢いの籠った蹴りを入れる。
「ゲグラァ…!?」
「――君、大丈夫…!?」
吹き飛ばされていく”何か”。それを息も忘れながら見つめる学生。目前を掠める距離で繰り広げられた一瞬の攻防のうちに、自身がこと切れていた可能性を自覚して震えだす。
「あ、あぁ…なんとか…」
「早く行け!講師の誰でもいいから呼んで来い!」
応えられる、彼が無事であると理解したレンは返答を待たずに早く立ち去るように催促する。そうして頷きながら立ち上がり、未だ呆然と立っていた他の学生達と共にその場を離れていく。
「レン君、なに、あれ…?」
視線を”何か”の方に向け、警戒しながらレンへとメイが訊ねる。彼もメイと同じように警戒を続けながら再び掌に褐色の淡い光を灯し、それを地面に押し付けて細長い棒状のものを形成し始める。
「…知らねぇ。だが、こっちを食い殺す気があるのは確かだろ」
二人の視線の先。既に体勢を立て直して彼女達の様子を伺うその”何か”は、禍々しい赤黒い毛並みをした狼のような、しかし一回りも二回りも大きい獣が牙を剥きだして低く響く唸り声を上げていた。




