それでも三人は、山を目指す
「っ!? あ、あれは!?」
そんなパトリシアの覚悟や思いに水を差すかのように、巨大な影が帝国軍を覆った。
ヨナが、ヘンリクが、クウが、パトリシアが、帝国軍の皆が上空を見上げる。
そこには。
――全身を漆黒で包んだ巨大な竜が、大空を駆けていた。
「お、大きい……」
巨大な漆黒の竜の姿に、ヨナは思わず声を漏らす。
その大きさは、『中央海の守り神』やあの海蛇の魔獣に匹敵するほどだった。
「あれが……『二匹の竜の番』のうちの一体、黒い竜……」
パトリシアは、瞬時に理解する。
所詮人の身では、伝説の竜に太刀打ちできないことを。
彼女が振り返ると、茫然と立ち尽くす騎士や兵士達。一部の者は絶望で膝をついていた。
だというのに。
「すごい……すごいや……!」
隣にいるヨナだけは、つぶらなオニキスの瞳を輝かせている。
それもそのはず。彼は自分の寿命を知り、残された時間を世界中の伝説に出逢うことに費やすと決めたのだ。その伝説の一つが、今まさに目の前にあるのだから。
「グオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッッ!」
「「「「「っ!?」」」」」
黒い竜が突然バルディア山に向けて咆哮を上げ、その場にいた全員が立ち竦んだ。
ここにいる者達は皆、こう感じているはずだ。
まるで『心臓を鷲づかみにされ、抵抗すらできずに握り潰されたようだ』、と。
すると、黒い竜はちらり、と地上を見やる仕草を見せた。
ひょっとしたら、こちらの存在に気づいたのかもしれない。パトリシアは我に返り、剣を抜いて構える。
そんな彼女の覚悟を嘲笑うかのように、黒い竜は何事もなかったかのようにバルディア山へと向き直り、そのまま飛び去ってしまった。
「「「「「…………………………」」」」」
どうやら脅威が去ったことで、気が抜けてしまったようだ。
全員が声を失い、その場で崩れ落ちる。
しばらくすると。
「パトリシア殿下! 今すぐ帝国に帰りましょう! あれは……とても人間が敵う相手ではありません!」
「そうです! カレリア王国の問題は、カレリア王国に解決させればよいのです! 我々には一切関係ありません!」
騎士の一部がパトリシアのもとに殺到し、口々に白い竜討伐を放棄するように訴えかける。
『二匹の竜の番』の伝説が真実だったことを目の当たりにし、番であり討伐対象の白い竜も、あの黒い竜に匹敵することは確実。もはや尻尾を巻いて逃げるしかない。この場にいる誰もが、そう思った。
だが。
「……去りたい者は去れ」
「っ!? パトリシア殿下!?」
「私はエストライア帝国第一皇女、パトリシア=ハイルヴィヒ=フォン=エストライア! 友好国カレリア王国から助けを求められて、みすみす背中を向けることなどできるかッッッ!」
パトリシアが剣を掲げ、この国から逃げるように説得する騎士達に向けて吠える。
たとえ身体が震え、かち、かち、と歯を鳴らし、膝が笑って立っているのがやっとだとしても。
それでも彼女は、『白銀の剣姫』として皆の前で振る舞う。
恐怖に塗り潰された心の片隅に宿る、小さな勇気と誇りを振り絞って。
たとえそれが無謀だと……蛮勇に過ぎないと分かっていても。
そんな中。
「今、『待っている』って……」
ヨナもまたバルディア山を見つめ、ぽつり、と呟いていた。
◇
「さあ! ここから去りたい者は今すぐ去るがいい! 引き続き私は、バルディア山へ向かう!」
「「「「「…………………………」」」」」
もはや聞く耳を持たないパトリシアに、騎士や兵士達は無言で疎ましい視線を送る。
彼女が『帰還する』と号令をかければ、彼等は今すぐにでも帰り支度を始めるだろう。
だが、今もなおバルディア山へ向かうと言って聞かないパトリシアをそのままにしてしまったら、帝国に帰った時にただでは済まされない。
だからこそ彼等は、身動きも取れずに立ち竦んでいるのだ。
ただ、心のどこかではこうも考えていた。
もしバルディア山でパトリシアが命を落とせば彼等が見捨てた事実を知る者はなく、帝国帰還後に上手く取り繕って報告すれば、咎められることもないだろう、と。
その時。
「パトリシア殿下、僕は行きます。いえ、ぜひともご一緒させてください」
「っ!? ヨナ!?」
おずおずと手を挙げて告げるヨナに、パトリシアは驚きの声を上げる。
バルディア山へ行くことは、もはや死を意味する。
それにヨナとヘンリクはあくまでもバルディア山の麓までの道案内という約束だった。
何より、こんな小さな少年を危険な目に遭わせるわけにはいかない。
「駄目だ! ヨナとヘンリクは今すぐ帰るんだ!」
「嫌です! 僕は必ずバルディア山に行くんだ!」
パトリシアが怒鳴るが、ヨナは一向に引かない。
彼女の知るヨナは素直で物腰も柔らかく、決して迷惑をかけたりするような子供じゃなかった。
まさかここまで聞き分けてもらえないとは思いもよらず、パトリシアはこめかみを押さえる。
「ヘンリク、君もヨナを説得してくれ。このままでは、せっかくの命を……」
「そ、その、おいらも行きます! 行かなきゃいけないんです!」
ヘンリクにも、危険を冒してでもバルディア山に行かなければならない理由がある。
現実を受け入れ、行方不明の父と決別するために。
今もなお父の帰りを待ち続けている、大好きな母を支えていくために。
「ハア……誇り高き帝国軍の面々は黒い竜に慄く一方で、小さなヨナとヘンリクがこんな無謀なことを言い出すなんて……」
「無謀なんかじゃありません。それと、いくらパトリシア殿下が止めても、僕は行きます。たとえ一人きりでも」
「お、おいらもです!」
引き下がる様子のない二人の少年を、パトリシアは眉根を寄せて見つめる。
どれだけ説得を試みても、たとえ脅したとしても、それでも引き下がらないという覚悟と決意が窺えた。
「……分かった」
「「!」」
「ただし! 絶対に私の指示に従うこと! 決して無茶をしないこと! これが約束できないのならば、絶対にバルディア山に行くことは認められない!」
「あ、ありがとうございます!」
「ありがとうございます!」
ヨナとヘンリクは、パアア、と笑顔に変えて深々とお辞儀をした。
本当は連れて行きたくはないが、そのまま置き去りにしたところできっと二人はバルディア山に向かうだろう。
それならば、せめて自分の目が届くところに置いて守るのが得策だと、パトリシアは考えたのだ。
「やったねヘンリク!」
「ああ! これでバルディア山に行けるぞ!」
「ハア……」
手を繋ぎはしゃぐ二人を見て、パトリシアは深く溜息を吐いた。
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