最悪なお見合いと、執念の再会
「すまない、リシャーナ。もうこれ以上手の打ちようが無い。不甲斐ない父をどうか許してくれ。10日後、アラド家の嫡男とのお見合いが決まってしまった」
伯爵家当主デューガ・エデュスは、床に額を擦り付けて娘に詫びた。
対して娘であるリシャーナは全てを諦めたような笑みを浮かべて膝を突き、父をそっと抱きしめた。波打つ亜麻色の髪が父と娘の表情を隠す。
「いいえ、お父様が謝ることなどありません。それより、これまでわたくしのワガママでお父様を困らせてしまったこと……本当に申し訳ございません」
「何を言っているんだっ。父は一度もお前に対して困ったことなどない!!むしろ、これは父が好き好んでやっていたことだ!!」
「え?あ、そうなんですか」
まさかの宣言に、リシャーナはきょとんとした。普段は憂いを帯びたラベンダー色の瞳は、こぼれ落ちてしまいそうなほど見開いている。
これはちょっと予想外だった。てっきり父は、自分のワガママに渋々付き合ってくれていたのだと思っていたのに。
ただこの行き違いは余りに些細なこと。
逃げに逃げ、避けに避けまくっていたお見合いの日取りが決まってしまったことの方が大問題である。
とはいえ相手は侯爵家。格下の伯爵家がこれまで逃げてこられたのが奇跡である。
もう腹を括るしかない。
それに、たった一度だけ彼に会えばそれで終わるだろう。よもや本気で自分を婚約者にしたいだなんて思うわけが無い。
だって彼――エルディック・アラドは自分のことを嫌っているはずだから。
*:.。.:*゜【最悪なお見合いと、執念の再会】゜*:.。.:*
───10日後。
王都でも一際目立つ大邸宅の玄関ポーチに、平凡極まりない貴族の馬車が停まる。
御者の手を支えに馬車から降り立ったリシャーナの目は死んでいた。続いて降りた侍女のアンナは状況が読めずオロオロしている。
対して嫡男のお見合い相手を迎える青年執事は、雨上がりの空のように爽やかだった。
「ようこそお越しくださいました、リシャーナ嬢。わたくしアラド家の執事を務めるシイドと申します。どうぞこれからはシイドとお呼びに……っと、わたくしの自己紹介はどうでも良いですね。さぁさぁ、エルディック様がお待ちでございます。こちらにどうぞ」
息継ぎせず一気に言い切ったシイドは、逃亡癖のある飼い猫を捕まえたような顔をしていた。
怖い。ものっすごく怖い。
ごくりと唾を飲んだリシャーナに、アンナが小声で「逃げましょう」と囁いてくる。
眩暈がするほど魅力的だが、逃げたところで父に迷惑がかかるだけ。
「いいえ。行きましょう」
「……ですが、お嬢様」
「はいはーい。入口はこっちですよぉー」
コソコソ話をする女性二人に割り込むように、シイドは満面の笑みで向かう方に手のひらを差す。
リシャーナはアンナの手をぎゅっと握ると覚悟を決めて歩き出した。
てっきりサロンに案内されると思いきや、通された場所は庭だった。
しかもお見合いは一対一。
アウェイである侯爵家の敷地内では、リシャーナに発言権は無い。唯一の味方であるアンナが、付き人用のサロンに収納されていくのを涙を呑んで見送ることしかできなかった。
「さぁさぁさぁ、こちらでございます。本日は晴天に恵まれ良かったです。エルディック様もずっと天気を気にされておりまして、昨夜なんか――」
「おい、口を縫い付けられたいのか?」
ペラペラと良くしゃべるシイドを黙らせたのは、リシャーナではなかった。
「下がれ、シイド。……さて、久しぶりだなリシャーナ。今回は逃げなかったな。褒めてやる」
顎で執事を追い払った彼――エルディック・アラドは、リシャーナに向けてニヤリと笑った。
春の柔らかな陽の光に反射して、眩しいほどに輝く銀髪。宝石を埋め込んだようなターコイズ色の瞳。背が高く、筋肉質な彼は見る者に威圧感を与える。
でも一度笑えば人懐っこい大型犬のようで、実際、責任感が強く頼りがいのある青年で、エルディックはアカデミーでは学年問わず沢山の人に慕われていた。
リシャーナも、かつては彼を慕っていた一人だった。
でも今は違う。できることなら関わり合いたくない相手。そしてエルディックだって、自分と関わり合いたくなんかないだろう。
「……どうしてですか?」
「は?どうした、藪から棒に」
堪らない気持ちで問うと、エルディックの眉間に皺が寄った。嫌な気持ちを隠す気も無ければ、答える意思も無いのだろう。
「いえ、なんでもありません」
しつこく尋ねたとて、そこに欲しい言葉は無いのはわかっているリシャーナは俯きエルディックから目を逸らす。
「そうか。まぁ、立ち話をするのもアレだから、向こうに席を用意した。行くぞ」
アカデミーを卒業して互いに紳士淑女となったのに、エルディックはリシャーナに背を向けさっさと歩き出す。
「……やっぱり嫌われているんだ、私」
振り向く気配が無いエルディックにリシャーナは、そりゃそうだよねと薄く笑った。
だって彼は自分に「いい加減、見苦しい真似はやめろ。実に不快だ」と冷たく言い放ったんだから。
***
今を去ること3年前、リシャーナは国立アカデミーに在学していた。
そこで一学年上の男子生徒から告白された。
男子生徒の名前はガルドシア・フェ・エデュアーレ。隣国の第七王子である。
家門は上から数えても、下から数えてもど真ん中。容姿も頭脳も平凡な自分なんかがどうして?と驚く反面、アカデミーで一番輝いている彼からの告白は舞い上がるほどときめいた。
しかし舞い上がりつつも、真面目な性格が邪魔して色々考えてしまった。
だって相手は隣国の王子である。
もし彼の告白を受け入れたら、単なる男女交際ではなく国家間の問題になるのではないか、とか。
なら円満な男女交際をするためにも、まずは両親に相談するべきか?でも自分は思春期まっさかり。母親はともかく父親にそんな話なんてしたくない。
そもそも平凡伯爵の娘が王子と付き合う資格なんてあるのだろうか?でもでも、ときめいた気持ちは、理性で抑えられるものじゃない。
じゃあ、どうすれば良い?
素直な気持ちを彼に伝えて重いと思われたら嫌だな……なぁーんて一人悶々と悩んでいたら、脈ナシと判断されガルドシアは別の女生徒と付き合い出した。
その紙より軽い彼の態度を目にしたリシャーナは、ガルドシアは隣国からやって来た単なるチャラ男だったことを悟った。
幸いチャラ男は口が堅かった。そして自分も相手が王子だからと気軽に友人に相談することはなかったので、この黒歴史は最小限の人間しか知らないこと。
そして、別の女生徒と付き合い出したガルドシアを見ても、取り乱さなかったのが功を成し、誰にも勘付かれることはなかった。
でも、傷付かなかったと言えば嘘になる。火遊び相手として見られていたことは、はらわたが煮えかえるほど悔しい。
真剣に悩んだ自分が馬鹿だった。
悩み過ぎて眠れなかった夜を返して欲しい。
己の歴史に刻まれてしまったこの黒歴史を漂白できる何かが欲しい。
何より、リシャーナはチャラ王子のせいで信頼していた友人に軽蔑されてしまった。
無論、その原因は自分にあることはわかっている。
彼に甘えすぎていたのだ。入学してすぐに課題で必要な本を図書室で一緒に探してもらったのを機に仲良くなったその人は、チャラ王子のお目付け役でもあった。
優しくて、親切で、頼りがいがある彼に、リシャーナは告白された後、たくさん相談してしまった。
平凡貴族の人間が思い上がっているのを横目で見るのは、さぞや不快だっただろう。鬱陶しかったと思う。
彼の優しさが底なしだと勘違いして、随分と時間を割いてもらったのも、本当に申し訳なかった。時にはメソメソ泣いたり、うじうじと悩みとも愚痴ともつかない言葉を吐きまくってしまった。
だから突き放されたのは仕方が無いことだった。……そう頭では理解していても、心は違う。
今でも夢に見る。
夕方のオレンジ色に染まった図書室で、彼に『いい加減、見苦しい真似はやめろ。実に不快だ』と言われたあの日のことを。
彼――エルディック・アラドは今まで見たことが無いほど怖い顔をしていた。
かけがえのないものを失った瞬間だった。
***
ま、それもこれも全部過去のことなんだけどね。
つらつらと過去を振り返ったリシャーナは、そっと胸を押さえる。
思い出したとて、どうすることもできないくせに、胸の痛みだけは鮮明に与えてくれる黒歴史というのは、本当に厄介なものだ。
そして黒歴史という名の箱はパンドラの箱のようだとも思う。ただ唯一違うのは黒歴史の箱には希望が入っていない。
目の前にいるお見合い相手――エルディック・アラドは、あの手この手を使ってエデュス家を追い詰め、自分を強引に呼びつけたくせに、しかめっ面をしている。
実のところ、嫌々出席したこのお見合いであるが、ほんの少しだけ彼と仲直りができるのではないかと期待していた。
もしかしたら彼も同じ気持ちを抱えているかもと思えたからこそ、アラド家の門をくぐることができた。
でもエルディックは、何も変わっていない。いえ、むしろ刺のある態度が増している。
ああ、違う。刺のある態度は語弊がある。自分が優しかった彼を知っているからそう思うだけなのだ。
彼にとって自分は友人でも同窓でもない。そういう相手に相応しい態度を取っているだけなのだろう。
そのことに気付いたリシャーナは、強い羞恥を覚えた。
でも、かつてエルディックはこう言ってくれた。
『なんでも話してくれればいいし、どんな相談事もリシャーナなら大歓迎さ。それと卒業したって、社交界デビューをしたって、俺はずっとお前の味方だからな』
……嘘つき。大嘘つき。
無かったことにするなら、あんなこと言わなければ良かったのに。
絶対に声に出せない恨み言が、胸の中で溢れた。
「――元気にしていたか?」
しかめっ面のままティーカップを傾けていたエルディックから問われ、リシャーナは現実に引き戻される。
「見ての通りです」
「見てわからないから聞いているんだ」
「……今朝までは元気でした」
「つまり、今は元気じゃないとでも?」
「……」
「俺に会ったから元気が無くなったとでも言いたいようだな」
「このお茶、美味しいですわ。ケーキも美味しそう。いただきます」
会話を拒むようにリシャーナはフォークを手に取り、ケーキを一口大に切り取る。
ラズベリーのチョコレートケーキは、リシャーナの大好物だ。学生時代もエルディックと一緒に食べたし、一番好きなケーキだと伝えたことがある。
それを今日、用意したのは偶然なのだろうか。それとも何かしらの意図があってのことなのだろうか。
「美味しいですね」
「そうだろうな」
「でも、自宅で食べたらもっと美味しく感じられたと思います」
「はんっ、可愛げのないことを言うようになったな、お前」
「大人げない態度を取るエルディック様にだけは言われたくありませんわ」
「へぇ」
攻撃は最大の防御とばかりに憎まれ口を叩けば、案の定、エルディックは半目になった。
だがしかしすぐに頬杖を突くとニヤリと笑った。
「でも、しっかり完食してるな。もう一つ食べるか?」
「結構です」
「そうか、ならトラダ通りにある“エルミン・シュシュ”のキャラメルシフォンは、俺が貰おう」
「……あ、あー」
「ぷっ、そんな顔をするな。ほら」
エルミン・シュシュは、メイン通りにある行列のできるケーキ専門店。特にキャラメルシフォンは、幻のケーキと言われるほど入手困難なそれ。
大貴族みたいに強いコネが無いリシャーナは、エルディックに「一度食べてみたい」と無邪気に語ったことがあった。
そんな何気ない会話を覚えていてくれたのだろうか。
いや駄目だ、駄目。期待しちゃいけない。都合の良いように受け取ってはいけない。
そう自分に言い聞かせても、目の前に置かれたシフォンケーキを見つめながら、リシャーナの心は騒めいてしまう。
「食べないのか?安心しろ、ホールで用意してあるから、まだあるぞ」
フォークすら握らずジッとケーキを見つめるリシャーナに、エルディックは呆れ声で言う。
その口調が以前の彼のままで、リシャーナは我慢の限界を超えた。
「どうしてですか?」
「は?」
「どうしてこんな意地悪をするんですか?」
「はぁぁぁー?」
とことん理解できないと言った感じで間抜け声を出すエルディックに、リシャーナはバンッとテーブルを叩きつけて立ち上がった。
「私のこと、嫌っているくせに!どうしてこんな中途半端に優しいことをするんですか!?」
「おい、誰が誰を嫌っているって?」
「エルディック様が私のことを、です!」
「馬鹿を言うな。お前が俺を嫌っているんだろ?」
「こんな時に、ご冗談はやめてください!」
「こんな時に冗談を言うわけないだろっ、馬鹿!」
最終的に馬鹿と言われたリシャーナは、悔しくて意味が分からなくて、鼻の奥がツンと痛む。
すぐに目頭までじんと熱くなって視界がぼやけてくる。今、自分はとても醜い顔をしているだろう。
子供みたいに癇癪を起こして泣き出す無様な自分を、これ以上エルディックに見られたくなかった。
「気分がすぐれないので、これで失礼します」
「おいっ」
くるりと背を向けて歩き出した途端、強く腕を引かれた。あっと思った時は、もうエルディックの腕の中にいた。
「まだ帰るな……頼むから、もう少しここに――って、お前、なに泣いてるんだよ!?」
無理矢理に覗き込まれ、エルディックと目が合った途端、彼はこちらが驚くほど取り乱した。
「悪かった、言い過ぎた!でも泣くほどのことは……いや、泣いたんだから嫌だったんだよな。ごめん、すまなかった」
嫌っている相手が泣いただけなのに、なぜここまで困り果てた顔をするのだろう。
リシャーナは、全くもって理解ができなかった。
しかし黙ったままじっと見られているエルディックからすれば、それは無言で責められているようにしか受け止められなかったのだろう。
「……本当に悪かった」
弱り切った声を出すエルディックは、本気で反省しているし、心から悔いている。
「どうしてですか?」
「……またそれか」
うんざりした顔をするエルディックだが、先ほどの刺々しさは無い。
「だって」
「俺は、嫌っている相手を引き留める人間じゃないし、ましてどうでも良い相手なら泣いたところで放っておく」
「でも、私はあなたに」
――嫌われている。
そう続けようと思った。
けれどエルディックに両肩を強く掴まれ、怖い顔で睨まれ、言葉を奪うように叫ばれた。
「俺はお前を嫌ってなんかいない!!」
雷みたいな一括に、リシャーナの身体はビクンと跳ねた。
「あ、悪ぃ」
怯えたリシャーナを見たエルディックは掴んだ手を離すと、大きく一歩後退した。
春独特の暖かい風が、花の香りを含んで二人の間を通り抜ける。
距離を置いたエルディックは、微動だにしない。少し俯く顔はどこか寂しげだ。その表情があまりに痛々しくて、気付けばリシャーナは一歩踏み出していた。
「……ごめんなさい」
謝罪を口にしてすぐに戸惑う。エルディックは余計に辛そうな顔をしたから。
再び「ごめん」と言いかけて、口を噤む。
代わりの言葉が見つからないリシャーナは沈黙し、エルディックも何かを考え込むかのように黙った。
――それからしばらくして。
「卒業式で、返事を聞かせてくれると思っていた」
「……え?」
「ずっと待っていた。卒業祝いで羽目を外そうと誘ってくる奴らの誘いを断わって、俺はお前が来て、図書室での告白の返事をしてくれると信じていた。忠犬のように、ずっとずっと待っていた」
「は……い?」
告白?返事??
まるで精霊語を聞いたかのように、リシャーナは頭の中が真っ白になった。
対してエルディックは、死地に向かう騎士のように覚悟を決めた表情でじっとリシャーナの言葉を待っている
「えっと……告白の返事って言いましたが、それは王子への返事ってことで」
「ここでそういう戯言はやめろ。俺に決まっているだろう」
心底嫌な顔をしたエルディックに、リシャーナは震える声でこう尋ねた。
「あの、私……いつエルディック様から告白を受けましたでしょうか?」
記憶を何度も手繰っても、そんなシチュエーションは無かったと断言できる。
でも、どうやら違ったようだ。
「くっそ、マジかよ。そこからかよ……」
呟いたエルディックは、片手で顔を覆った。
指の隙間から見える彼の顔は、怒りを通り越して呆れ果てた顔をしていた。
***
今を去ること三年前、エルディック・アラドは放課後の図書室の片隅でピョンピョン跳ねるウサギみたいな新入生を見かけた。
「この本が欲しいのか?」
そこそこ高い位置にあったお目当ての本を本棚から抜き、ウサギに差し出した。
「はい!ありがとうございます」
顔をくしゃくしゃにして笑うウサギ――リシャーナ・エデュスに、エルディックは一瞬にして心を奪われた。
好きな人ができた。
王立アカデミーでは、男女交際は禁止されていない。むしろ健全な交際は、将来の交友関係を広げるために推奨されている。
なら他の男にちょっかいを出される前に、さっさと告白をして恋人同士になればいい。
けれどもエルディックには障害があった。
運悪くも、王立アカデミーで羽目を外しまくる隣国の馬鹿王子のお世話係に任命されてしまっていたのだ。
馬鹿王子ことガルドシア・フェ・エデュアーレの出身国は戒律が厳しいことで有名だ。
他国の文化を学ぶために王立アカデミーの生徒になったガルドシアは、己の使命を全うすることより、自由な生活を謳歌することを選んだ。
特に女性関係においては、これまでの禁欲的な生活から解き放たれた反動で、やんちゃを通り越して無茶苦茶だった。
そんな男の傍に四六時中いなければならないエルディックが、恋人を作ったらどうなるか……考えるだけでもおぞましい。
だからエルディックは、リシャーナとは友人関係のままでいた。近付きすぎないように。でも、困ったことがあれば一番に駆けつけられる距離を保って。
また彼女に粉をかけてくる輩に対しては、水面下で厳しく牽制した。
そして卒業してガルドシアと縁を切ったら、すぐにリシャーナに想いを伝えようと決心していた。
なのに、よりにもよってガルドシアはリシャーナに遊び半分で告白をしやがった。
殺してやろうかと思った。
しかもリシャーナは、真剣にガルドシアとの交際を考える始末。思いつめた表情で相談を受ける自分は無様で滑稽だった。
そんなある日、とうとう自分の中で何かがキレた。
その日は夕日がとても奇麗だった。オレンジ色に染まった図書館で溜息を吐くリシャーナはいつにも増して美しかった。
思わず見入ってしまったが、そこで唐突に気付いてしまった。
彼女が美しいのは今日に限ってのことでは無いと。彼女がこんなにも奇麗になったのは、ガルドシアから告白を受けたせいだから。
恋をすれば女は奇麗になるという俗説は耳にしたことがあるが、その時は笑い飛ばした。でも今は鈍器で殴られたような衝撃を受けた。
――このままでは、こいつを奪われる。
暴力的な感情が全身を支配した。そして気付けばこんなことを口に出していた。
『いい加減、見苦しい真似はやめろ。実に不快だ』
ガランとした図書室に自分の声はやけに大きく響いた。
リシャーナは、投げつけられた言葉を咀嚼するようにゆっくりと瞬きを繰り返している。
たったそれだけの仕草が、やけに欲情をかき立てられエルディックは思いの丈をぶつけてしまった。
『……俺を選べよ、リシャーナ』
自分でも呆れるほど情けない掠れ声は、間違いなくリシャーナに届いていると思っていた。
でもポロポロと涙を流して図書室を飛び出してしまった彼女には、聞こえていなかった。
そんな間抜けな話あるか?
しかも3年も経った今、その真実を知るなんて――
「くっそ、マジかよ。そこからかよ……」
呟いたエルディックは、片手で顔を覆った。
指の隙間から見える彼女の顔は、驚きと困惑が入り混じり頬が熟れたリンゴのように赤かった。
***
「取り乱して、すまなかった」
顔を覆っていた手を離してエルディックが、ぎこちなく笑いながら言った。
小さく首を横に振ると、彼は今度はホッとした笑みに変わる。
「逃げないで欲しい」
切実な声と、沈痛なまなざしは、こちらの胸が痛くなるほどで、彼がどれだけこの再会を待ち望んでいたのかを改めて知る。
「逃げません」
「そうか。ありがとう」
「いえ」
「あと俺を嫌わないで欲しい」
「あなたが私を嫌わなければ」
「何度も言ってるが嫌ってない」
「そうですね」
「ああ」
たどたどしい会話をしながらも、実はリシャーナの心は忙しい。
だって記憶は無いし自覚も無いけれど、エルディックから告白されたのだ。これ、有耶無耶にして良いのかな?いや、良いわけない。
「あの……告白の件なんですが」
「ああ、そうだ。そうだったな」
「返事をしないと」
「いや、いい……違う。待て、ちょっと待ってくれ」
「あ、はい」
手の甲を口元を当てたエルディックは顔を背けたかと思えば、今度は上着の襟をピンと正す。
再びこちらを向いた彼は、完璧な侯爵家嫡男の顔だった。
「失礼、お待たせしました。リシャーナ嬢」
「へ?」
急激な変化に付いていけないリシャーナに、エルディックは優美に微笑みかける。
「本日はお越しいただきありがとうございます。このエルディック・アラド、ずっと貴方と再会することを夢見ておりました。さぁ、どうぞこちらに」
言うが早いかエルディックは目を白黒させるリシャーナの手を優しく取ると、洗練された動作で椅子に座らせた。
されるがまま着席したリシャーナの前に、エルディックが片膝をつく。
「天候にも恵まれて良かったです。我が家の自慢の庭園を貴方に見て欲しくて、庭師も今日のために頑張りました。さて席も気に入っていただけたようですので、学生時代の昔話も交えながらこれまで私が、どれほど貴方を乞うてきたか聞いていただきましょう」
「……はい?」
「ご安心ください。今日は貴方の好きなケーキを沢山用意しました。絶対に、退屈はさせません」
「え……え、ちょ、ちょっとお待ちを」
「待てません。今日の為に、私は持てる全てを使ってきたのです。あと頑なに貴方との席を拒んだお父様の胸倉を掴まなかった私を褒めてください」
「……っ」
「ははっ、冗談ですよ。ま、こういう冗談はお嫌いでしたか。以後気を付けます。ああ、貴方のお父様に対して私は尊敬の念を抱いてますよ。いずれ父と呼ぶお方ですしね?」
「ええ!?」
急に飛躍した話に驚くあまり、リシャーナは座ったまま飛び跳ねた。
そんな器用な芸を間近で見たというのに、エルディックは不思議そうに首を傾げた。
「そこまで驚く必要はありますか?なにせ今日は――」
一旦言葉を切ったエルディックは、おもむろにリシャーナの手を取り己の口元に引き寄せた。
「生涯の伴侶を決める、お見合いなのですから」
そう言って指先に口付けを落としたエルディックの目は、あの日、図書室で見た時より鋭く情熱的な色を湛えていた。
◆◇◆◇おわり◇◆◇◆