決断
アレッサンドロはうつむいているジーノを見つめる。その視線を感じているだろうに、兄は顔を上げようとしない。
こういうふうに目を合わせようとしないのは、後ろめたいことがあるからだ。
(でも、どうして?)
首をかしげたアレッサンドロの前で、ジーノが小さく息をつく。そして、何かを吹っ切るように膝の上に置いた手を握り締めた。
「我々は、君をここに連れ戻したんだ」
兄の台詞に、アレッサンドロは眉根を寄せる。
それは、正しくない。自分は、取り敢えず、兄に会いに来ただけだ。ステラが言ったから、仕方なく。
「? 僕は帰るんだよ?」
「いいや、君はここに残る」
「いやだよ」
アレッサンドロは声を張り上げ、くらくらするほど頭を振った。が、こめかみの辺りをジーノの両手で挟まれてしまう。
アレッサンドロの目を覗き込んできたジーノの眼差しは、今は暗く翳っていた。
「君は、私の弟で――父の息子だ。君には、王位継承権がある」
「おうい、けいしょうけん?」
たどたどしく繰り返したアレッサンドロに、ジーノが頷いた。
「この国の王様になる、権利だよ」
王様。
それは、この国を統べる人。
権利。
それは、そうすることが許されているということだ。そうする資格が与えられているということだ。
「そんなの、要らない」
アレッサンドロは、即座にそう答えていた。王様になんてなったら、ステラのところに帰れない。
「僕、帰るよ。今日がダメなら、明日は?」
応じてもらえるものと信じて疑わない眼差しでアレッサンドロはジーノを見返したが、そこに思ったものとは違うものを見て笑顔を曇らせる。
「兄上?」
ジーノは両手をアレッサンドロの頭から肩へと滑らせて、そこをしっかりと掴んだ。彼を逃すまいとするかのように。
「君は、ここに残らなければならない。君のそれは、権利ではなく義務なんだ」
「え……?」
「君は、王にならなければいけないんだよ」
「なんで!?」
そもそも、アレッサンドロをそうさせないために、彼と母はここを追い出されたはずだ。誰かから聞かされたわけではないけれど、ジーノは知っている。解かっていた。
ジーノの母が彼女の唯一の息子を守ろうとしたから、だからアレッサンドロと母は各地を彷徨い、結果、母はあんなに早く逝ってしまったのだ。あんなに、苦しんで。
それを、今さら。
「そんなの、いやだ! 僕は、ステラといるんだ!」
肩を振るって兄の手から逃れ、アレッサンドロは全身で叫んだ。
ステラは、母の命と引き換えに手に入れた、もう一つの、そして唯一の、彼の幸せだ。ようやく手に入れた温もりと安らぎなのだ。これはもう失えない。もう、二度と、失いたくない。
「絶対、王様になんかならない! 僕はステラのところに帰るんだ!」
がむしゃらに身を翻してその場から走り出そうとしたアレッサンドロの腕を、ジーノの手が捉えた。
「待ちなさい、アレッサンドロ」
「放せ! 放せよ!」
か弱げに見えるのに、どれだけもがいてもジーノの手は外れなかった。
「アレッサンドロ」
名を呼ぶ声に、ピシリと打たれた気がした。
それは先ほどまでの柔らかなものとは違って重く芯のあるもので、兄から逃れようともがいていたアレッサンドロはピタリと動きを止める。
ジーノはアレッサンドロを見据え、告げる。
「私は王の職務を充分には果たせない。数年後には、まったく役に立たなくなるだろう」
その台詞に、アレッサンドロは目をしばたたかせた。
「……え?」
「私の肉体はぜい弱だ。今でさえ、半日と政務を執り行うことができていない。父王は四十を越えることなく逝去された。私も同様だろう」
淡々と紡がれる言葉はまるで他人事のようで、アレッサンドロはジーノの真意を測りかねた。半信半疑で兄の目を覗き込み、そこに偽りやごまかしは存在していないことを知る。
「今は、宰相や他の文官たちの手を借りて最低限のことは行っているが、年々、行き届かないことが増えてきている」
アレッサンドロは自分の首に縄がかけられていて、それがジワジワと締まってきているような息苦しさを覚える。
「じゃ、じゃあ、その人たちに全部任せたらいいじゃないか。僕は知らない、関係ないよ! 僕はここには居たくない!」
「彼らを束ねる者が必要なんだよ。無条件に彼らが従う、『王』という存在がね」
声を張り上げるアレッサンドロに対して、ジーノは冷静そのものだった。
アレッサンドロはグッと奥歯を食いしばる。
「王がいなければ、政は成り立たなくなる。政が成り立たなくなれば、国が荒れる。国が荒れれば、そこに住む人たちはどうなると思う?」
一つ一つを噛んで含めるように説くジーノを、アレッサンドロは睨み付けた。
「僕は、ステラと一緒にいたいんだ」
「そうだね。解かるよ。でも、君が本当に望んでいることは、何だい?」
ヒタと向けられた青い瞳は、アレッサンドロと同じ色だ。まるで、自分自身に見据えられているような錯覚に陥るほど、彼自身の色と同じだった。
(僕が、本当に望むこと)
刹那脳裏に閃いたのは、花が綻ぶようなステラの笑顔。
(僕が、望むのは)
それは、ステラが笑っていてくれること。
たとえ自分が目にすることができなくても、彼女が笑っていること、それが何よりも大事なことだった。
アレッサンドロは、手のひらに爪が食い込むほど硬く握り締めていた拳を解く。
選べるものが一つしかないのなら、アレッサンドロの答えは決まっていた。
最後にきつく唇を噛み締めてから、彼は面を上げる。
アレッサンドロの目を見たジーノが浮かべていたのは、どこか悲しげな色を含んだ微笑みだった。




