望まぬ報せ
その日は、朝から雲が重く垂れこめていた。
教会の裏庭でアスピルの種の出来具合を確認していたアレッサンドロは、ヒラリと舞い落ちてきた白いものに、空を見上げる。
(雪?)
上向けた彼の手のひらの上で、ひとひらの六花がジワリと溶けていく。
この辺りはティスヴァーレの中でも東の方にあって、真冬でもそれほど雪深くなることはない。まだ冬も浅いこの時期に初雪を見ることは、彼がここに来てからの四年間で、初めてのことだった。
(今年はたくさん積もるのかな)
アレッサンドロは眉根を寄せる。
寒さが厳しくなれば、いつもよりも薪が必要になる。雪のせいで、ここに植えてある作物もダメになってしまうかもしれないし、森の中でとれるものも減ってしまうかもしれない。つまり、総じて、生活が厳しくなるということだ。
教会の生活は、もとより楽ではない。
村の人たちの厚意の寄付があるけれど、養う子どもたちは常に十人ほどはいる。ステラやレイが村で手伝い程度の仕事をしてはいるものの、それで受け取るお金くらいでは、熱した石に水をかけるようにあっという間になくなってしまう。
(僕にも何かできることはないのかな)
アレッサンドロは自分の小さな両手を見下ろし、ため息をこぼした。
レイのような力仕事は、できない。
ステラのように繕い物や料理も、できない。
アレッサンドロにあるのは知識だけで、それは、この村ではあまり役に立たなかった。
(早く、大きくなりたいのに)
大きくなって、ステラを助けられるようになりたい。今ステラが頑張っていることを、全部代わりにやれるようになりたい。
「あと三年したら、そうなれるかなぁ」
ため息混じりに彼が小さく呟いた時だった。
「アレックス!」
弾む声で呼ばれてアレッサンドロは肩越しに振り返る。
「ステラ」
その声を聴き、姿を目にするだけで胸の真ん中が温かくなる感じがするのは、どうしてなのだろう。
アレッサンドロは立ち上がり、駆け寄ってくるステラに向き直った。突進してきた彼女は、その勢いのまま彼をギュッと抱き締めてくる。
ステラは折に触れ子どもたちを抱き締めたり頭を撫でたりするけれど、これは何かが違っていた。
「どうしたの?」
訊ねたアレッサンドロから、パッとステラが離れる。そして、明るく響く声で、言った。
「お迎えが来たの!」
「……え?」
「だから、アレックスのお迎えが来たんだよ! アレックスには家族がいたの!」
ステラの答えを聞いた瞬間、アレッサンドロの頭の中が真っ白になった。
「う、そだ」
「うそじゃないよ。アレックスにはね、お兄さんがいるんだって。ずっと捜してて、ようやく見つけたんだって言ってたよ。ずっと、アレックスのこと捜してくれてたんだよ」
自分のことのように、ステラは弾んだ声で言った。だが、浮き立つ彼女とは正反対に、アレッサンドロの心は沈み込んでいく。
(迎え……兄上から……?)
そんなバカな、と思った。彼らが自分を――自分と母を捜すはずがない、と。
「僕じゃ、ないよ」
低い声で囁いたアレッサンドロをステラが首をかしげて見つめてくる。
「アレックス?」
アレッサンドロはステラから一歩後ずさった。
「それ、僕のことじゃないよ。僕にはもう家族なんていない。僕を迎えに来る人なんているはずがない」
「でも、見せてくれた絵はアレックスのお母さんとそっくりだったよ」
「絵?」
繰り返したアレッサンドロに、ステラがコクリと頷く。
「そう。お兄さんとお母さんが描かれてるの。アレックスが生まれる前に描いたんだって。お兄さん、アレックスにそっくりだよ?」
その報せを聞いてアレッサンドロが浮かべる表情が、ステラが思っていたものとは全く違っていたのだろう。彼女の笑顔に戸惑いを含んだ影が差す。だが、今のアレッサンドロには彼女を気遣う余裕がなかった。
「僕は行かないよ」
アレッサンドロは硬い声で答えた。
「でも――」
「行かない。会いたくない」
頑なにかぶりを振るアレッサンドロの頬を、ステラの手が包み込んだ。
「アレックス、聴いて」
彼女の力は強くない。けれど、アレッサンドロは石膏で固められたようにほんの少しも動けなくなる。
グッと奥歯を食いしばったアレッサンドロの目を、ステラは少し身を屈めて覗き込んできた。
「アレックスがここにいるのは――ここに来ることになったのには、何か難しい理由があったんだってことは判るよ。でも、五年間も捜してくれてたのは、アレックスのことを大事に想ってるからじゃないのかな」
優しい声で言われても、アレッサンドロはステラのその言葉に頷くことなどできなかった。彼は両手をきつく握り締める。
(大事、なんて)
「そんなはず、ない」
「アレックス――」
説得の言葉を重ねようとしたステラを、アレッサンドロは半ば叫ぶようにして遮る。
「あいつらは、僕を――僕と母上を、追い出したんだ!」
彼が放ったその台詞に、ステラがハッと息を呑んだ。
静まり返った中、小さな鳥のさえずりだけが通り過ぎて行く。
ステラの顔に困惑や同情、痛み、そんなものが次々と浮かんでは消えていくのを見て、言わなければ良かったと、アレッサンドロは唇を噛んだ。けれど、発してしまった言葉は、もう取り消せない。
押し黙る彼の脳裏に溢れ出してきたのは、五年前のことだ。胸の奥の箱に押し込み蓋をして、しっかりと鍵をかけていたはずだったのに、いとも簡単にそれは弾け飛んでしまった。
父が逝った日の、ここにお前たちの居場所はないと告げたあの人の、美しく、そして憎悪がみなぎる顔が、一瞬にして蘇る。
あの人だけではない。
(兄上だって――)
アレッサンドロのことを可愛がってくれていると思っていたその人も、嵐のように母と彼に投げ付けられる痛罵を前に、顔を伏せているだけだった。
ここでの幸せな日々で塗り替えられて、そんな過去はないものにできたと思っていたのに。
(今さら、どうして)
深くうつむいたアレッサンドロの手が、温かな手でそっと包まれた。
「ねえ、アレックス」
アレッサンドロは束の間ためらい、ノロノロと顔を上げる。ステラの顔には穏やかな微笑みが浮かんでいた。
彼女はアレッサンドロの前にしゃがみ込み、低い位置から彼を見上げてくる。
「今日迎えに来てくれた人はね、お兄さんのお使いの人なんだって。本当はお兄さんが来られたら良かったけど、あんまり身体が強くないんですって。お家はラムバルディアにあって、遠いから、ここまで来るのは難しいんだって。でも、すごくアレックスに会いたがっていて、できたら自分で迎えに行きたいのにって言ってたんだって」
「そんなの、うそだ。要らない。いやだ。僕はここにいたい」
拒絶の言葉を矢継ぎ早に並べ立てて唇を引き結んだアレッサンドロに、ステラが微笑む。
「わたしも、アレックスにここにいて欲しいよ」
「なら、いいじゃないか」
アレッサンドロがむっつりと答えると、ステラは困ったような笑みになった。
「でも、本当にそれでいいのかな? お兄さんに、一度だけでも会ってきたらどう?」
執拗にそんなことを言うステラを、アレッサンドロは睨み付けた。
「会っても同じだよ。何で? 何でそんなに言うの? ステラは僕にここにいて欲しくないの? 出てって欲しいの?」
半ば八つ当たりのその台詞で、ステラの顔がクシャリと歪んだ。
「そんなことないよ! わたしだって、アレックスと離れたくない」
「だったら――」
ここから追い出さないで。
そう乞おうとしたアレッサンドロの口を、苦しげなステラの声が封じる。
「でも、アレックスには幸せになって欲しいの」
ステラの眼は、真っ直ぐにアレッサンドロに注がれていた。
少し潤んだ栗色の瞳の中で、緑の星がキラキラと瞬いていて、アレッサンドロは、こんな時なのに、それを綺麗だと思ってしまう。
「ここにいることが、僕の幸せだよ。ステラと一緒にいるのが、一番幸せなんだ」
「でも、もっと大きな幸せが、お兄さんのところにはあるかもしれないよ」
そんなことはあり得ないと、アレッサンドロは声を大にして訴えたかった。自分の幸せは、ステラと共に在ることでしか、手に入らないのだと。
だが、そうしようとするアレッサンドロを、ステラがふわりと抱き締めて、彼が紡ごうとした言葉は喉の奥に押し止められてしまう。
「わたしは、アレックスに一番幸せになる道を選んで欲しいの。だからね、一度はお兄さんに会って来て欲しい」
「あそこで僕が幸せになれるわけがないよ」
あの場所で、ましてや、ステラがいないのに。
ステラの肩にしがみついたアレッサンドロの背中を、彼女は優しく撫で下ろす。
「行ってみて、もしもダメなら戻ってきたらいいよ」
「……ホントに?」
呟いたアレッサンドロをステラはそっと離して、彼の目を見つめながら頷く。
「もちろん。お兄さんと会ってお話をして、それでも帰ってきたいって思ってくれたら、帰ってきて。わたしはアレックスのこといつまでだって待ってる。それに、もしもあっちで暮らすことになったとしても、いつでも会いに来てくれたらいいんだから。ラムバルディアからはちょっと遠いかもしれないけど、もう二度と会えないわけじゃないんだよ?」
だから、ね? とステラが微笑んだ。
アレサンドロはスンと鼻をすする。
ここから離れたくなどない。ステラが傍にいない日々など、一日たりともあって欲しくないけれど。
きっと、何もしないままではステラは納得してくれないだろう。
(一度だけ。ちょっと行って、すぐに帰ってきたらいい)
「……わかった」
アレッサンドロは、ステラの為に、そう言った。