迷い子
森の中は、もう、秋というより冬に近い。木々は殆ど丸裸で、枝の間から高く晴れ渡った空が良く見える。
「あ、ステラ。あれも食べられるんだよ」
そう言ってアレッサンドロが指さしたのは、刺々した木の実だ。拳ほどの大きさがあるそれは、確かに割れ目からつやつやした栗色の実が見えるのだけど、あまりに鋭い棘に包まれているので手を出せなかった代物だ。
「でも、危ないし……中身が出せても、どうやって食べたらいいのか判らないの」
「僕が教えてあげる。おいしいんだよ。あ、あれも採っていこう」
アレッサンドロを連れて森に入るのはこれで三回目だけれども、彼はステラが知らない木の実や野草を教えてくれる。時には、薬草も。
「アレックスって、本当に物知りだよね」
感心しきりでステラが言うと、アレッサンドロの表情が微かに曇った。
「母さまが教えてくれたから……」
その言葉に、ステラはハッと息を呑む。
「そ、か……すごいお母さんだったんだね」
「うん」
アレッサンドロはコクリと頷き、それきり、口数がめっきり減ってしまった。ステラは内心歯噛みする。
(まだ、十日も経ってないんだもんね)
温かな記憶よりも、喪失の悲しみの方が強いのだろう。
ステラは声をかける代わりにアレッサンドロの手を握る手に力を込めた。彼は彼女を見上げ、小さく笑う。小さくても笑顔は笑顔で、ステラは少しばかりホッとする。
アレッサンドロと手をつないで歩きながら、いつしかステラはレイとの遣り取りを思い出していた。そっぽを向いて行ってしまった彼の表情が脳裏によみがえり、少しばかり反省する。レイの言う通り、確かに、自分はアレッサンドロを特別扱いしているかもしれないと思ったからだ。
(ごめんね、レイ)
ステラは胸の中でレイに謝る。あんなふうに彼を怒らせてしまうまで、自分の中にある思いに全然気づいていなかった。
教会へ連れてこられた子どもたちのことを、ステラは皆可愛いと思っているし大事にしてきたつもりだ。けれど、同時に、いずれここを去っていってしまう子らにあまり想いを掛け過ぎないようにしていたのも事実だ。夜に泣いていたら一晩ついていてあげることはするけれど、アレッサンドロにしたように、夜通し抱き締めることはしない。
アレッサンドロが他の子たちと違うのは、多分、彼を見つけたのがステラ自身だからだろう。村人たちが連れてくる他の子たちと違って、ステラがアレッサンドロを見つけ、ここに連れてきたのだから、彼女は彼に対する責任があるのだ。
(だから、他の子よりもほっとけない感じがするんだわ)
ステラは、黙々と茂みを覗き込んでいるアレッサンドロにチラリと眼を走らせた。
最初の夜に彼を抱き締めた時の、泣きじゃくっていた身体の震えは、しがみついてきた小さな手の感触は、ステラの胸の奥に刻み込まれている。あれでいっそう、彼女の中にアレッサンドロの存在が深く根付いてしまったような気がする。
ステラは、唇を噛み締めた。
(もう、あんなふうに泣かせたくない)
知らず、アレッサンドロとつないだ彼女の手に力が籠もった。
「ステラ?」
「あ、ごめんね、痛かった?」
慌ててステラは手を開いたが、アレッサンドロは放さない。逆に、キュッと握り締めてきた。ステラはアレッサンドロに笑みを返し、また彼の手を包み込む。が、うつむき加減のアレッサンドロの表情が曇っていることに気付いて足を止めた。
ステラは膝を曲げて彼の顔を覗き込む。
「どうしたの?」
問うても、すぐには答えが返ってこなかった。
やがて。
「僕……ここにいない方がいいのかな」
アレッサンドロがポツリとこぼしたその台詞に、ステラは目をしばたたかせた。
「何で? レイのこと? あれは、きっと今だけだから」
「それだけじゃなくて――……」
「アレックス?」
「僕は――」
アレッサンドロは口ごもり、唇を噛んだ。
ステラはアレッサンドロが再び話し出すのを待ったけれども、彼は頑なに顔を伏せている。
アレッサンドロがここに来てからの十日ほどの間に、一年前に父親を亡くしてから、彼と彼の母親の旅暮らしが始まったのだということは教えてもらった。だが、聞かされたのはそれだけで、どうして住んでいるところを離れることになったのか、その一年間をどう過ごしてきたのかについては、話そうとしなかった。
それを、話したくないのか、話せないのか。
「アレックス」
もう一度名前を呼ぶと、彼はおずおずと目を上げた。その眼差しは心許ない迷子のそれで、ステラの胸がキュゥと苦しくなる。
(話したくないのでも、話せないのでも、どっちでも、いい)
アレッサンドロが話したくなったら、話してくれれば。
ステラは籠を置き、両腕でアレッサンドロを包み込む。
「……ステラ?」
「いいよ、何も言わなくても。行くところがないのなら、ここにいよう?」
淡い金髪に頬を埋めてそう囁いたステラの腕の中で、アレッサンドロの華奢な身体が微かに震えた。
「……本当に、いいの……?」
「うん。わたしは、アレックスにいて欲しい」
頷きながらそう言ったステラの背中に、ためらいがちにアレッサンドロの手が回される。縋り付くような細い腕の力は、ステラにあの夜のことを思い出させた。
(アレックスは、独りなんだ)
あの頃の、わたしと同じ。
ステラが預けられた時、教会には他に子どもはいなくて、コラーノ神父だけだった。神父もまだ子どもの扱いに慣れていなかったから、ステラは寂しい夜も独りきりだった。あの寂しさを知っているから、教会に来る子どもたちには同じ思いをさせたくないと思っている。
ましてや、アレッサンドロは本当に独りきりなのだ。村に行っても、彼のことを知る人は誰もいない。彼の母のことを話してくれる人もいない。彼にとって大事な人の思い出を共有できる人は、いないのだ。
それは、なんて悲しいことなのだろう。
(この子のお母さんの分まで、幸せにしてあげよう)
ステラの心の声が届いたように、アレッサンドロが頬を擦り寄せる。
「僕、ステラのこと、たくさんお手伝いするよ」
だからここにいさせてと、かすれた声で囁いたアレッサンドロを、ステラは返事の代わりに力を込めて抱き締めた。