変換の時:義務と望みと
その日もステラは庭に出て、秋の色に染まりつつある庭木の手入れに勤しんでいた。いや、勤しんでいる、とは、言えないかもしれない。ふと気づくと手が止まり、ぼんやりと宙を見つめていることもしばしばだったから。
今も、花がらを摘まんだまま動きを止めていたステラだったが。
「やあ、精が出るね」
突然柔らかな声を掛けられて、ビクリと肩を跳ねさせる。
「ジーノさま」
振り返ったステラに、その人はふわりと微笑んだ。
「あの、何かご用ですか?」
自分ごときにそんなはずはなかろうが、とは思いつつ、ステラはおずおずとそう訊ねた。
「ああ、いや、今日は過ごし易そうだから、貴女の言う通り、少し日に当たろうと思ってね。付き合ってくれるかい? それとも、お邪魔かな?」
「いえ、そんなことは……」
「良かった。では、どこか座れるところに行こうか。立ちっ放しはつらいのでね」
あたふたとかぶりを振ったステラを促し、ジーノは歩き出した。
彼が向かったのは庭園に点在する四阿の一つだ。そこが数日前にアレッサンドロと過ごしたものとは違うことに、ステラはホッと小さな吐息をこぼす。あれは半刻にも満たないようなわずかな時間のことだったけれども、彼女の中では特別なひと時で、同じ場所を使われるとそれが壊されてしまうような気がしたのだ。
そんなステラの心中など全く気付いた様子なく、ジーノは備え付けの長椅子に腰を下ろして興味深げに辺りを見渡した。
「この時期の庭も綺麗なものだね。昔は殆ど一日庭に出ていたものだけれど、ここ何年もご無沙汰でね」
それは、身体の具合のせいだろうか。
ジーノを案じる気持ちが顔に出たのか、ステラを見た彼が少し困ったよう笑みを浮かべる。
「別に、体調だけが理由ではないよ。ただ、そうする気になれなくなったというか、……当時の教育係は、庭で教えるのが好きだったんだ」
「お庭で、ですか?」
「ああ。その教育係がアレッサンドロの母親だったというのは、もう話したかな」
言いながら、ジーノが胸元から取り出した何かを差し出した。ステラはそれを覗き込む。
彼の手の中にあるものは、とても精巧な細密画だった。ステラよりもいくつか年上の女性と、幼い頃のアレッサンドロ、それにジーノが描かれている。
「これ、アレックスの……」
「そう、彼の母親だ」
ジーノは頷き、目元を和ませた。
「綺麗な人だろう?」
「はい、とても」
問われて、ステラは細密画に見入ったまま頷いた。
アレッサンドロには、彼の母について尋ねたことはない。せっかく和らいだ悲しみをよみがえらせたくなかったからだ。
亡骸となった彼女なら、ステラも知っている。だが、痩せ細り、血の気の失せたあの彼女の数倍も、絵の中の女性は美しかった。艶やかな黄金色の髪は、今のアレッサンドロと同じだ。
ステラと共に細密画を見つめながら、ジーノが独り言ちるように続ける。
「綺麗なだけでなく、聡明で温かな、とても素晴らしい人だった。知識だけでなく、ものの見方、考え方も、彼女から教わった。今の私の土台を築いたのは、アレッサンドロの母親だよ」
アレッサンドロの母であっても、ジーノにとっては単なる教育係に過ぎなかったはずだ。だが、今の彼は、使用人の中の一人について語っているだけのようには見えない。いつか、彼自身の母である王妃のことを話した時よりも、遥かに温もりが感じられる声をしていた。
「とても素敵な方だったんですね」
呟いたステラに、ジーノは懐かしそうに目を細めて頷く。
「ああ、とてもね」
十年以上も前に亡くなった人に対しての憧憬の念が、彼の瞳を輝かせている。その想いがあまりに色濃く見えたから、気付いた時にはステラの口から問いかけが突いて出ていた。
「お会いになりたいですか?」
ジーノは一瞬固まり、次いで淡い微笑みと共に頷く。
「逢いたいね」
たった一言だったのに、それを聴いたステラの胸がクッと苦しくなる。
もしかしたら、アレッサンドロが母に向ける思慕よりも、ジーノが彼女に抱いている想いの方が深いのではないか、そう思わせる響きが、そこにはあった。
ジッと見つめるステラに、ジーノは微笑む。
「貴女は、どう?」
「え?」
唐突に訊ねられ、ステラは目を瞬かせる。
「貴女には逢いたい人はいないのかい? ずいぶん長いことここに引き留めてしまっているけれど、教会はいいの?」
首をかしげたジーノが投げかけてきたその問いに、彼女は曖昧な笑みを浮かべた。
ステラがラムバルディアに来てから、三ヶ月ほどになる。その間、コラーノ神父とは幾度も手紙のやり取りをしていた。その中に書かれているのは、「教会は大丈夫」「心配しなくていい」という文字ばかりだ。「ステラがいなくて困っている」や「早く帰ってきて欲しい」という言葉は、一度もない。
最初にステラがここに来た日のジーノの言葉は、正しかった。
ステラがいなくても、彼が派遣してくれた人たちが彼女以上にうまく子どもたちの世話を焼いてくれている。ステラがいなくても、全く問題はない。
いなくても問題ないということは、今の教会に彼女は必要ではないということだ。
「ジーノさまが送ってくださった方たちに子どもたちも良く懐いているそうです。わたしがいなくても、全然、問題なさそうで……」
尻すぼみになったステラを束の間見つめた後、ジーノが再び問いかけてくる。
「もしかして、私が貴女の居場所を奪ってしまった?」
その言葉に、ステラはパッと顔を上げる。
「そんなことは――」
ない、という最後の一言が、出なかった。
確かに、それも理由の一つだったから。
成人しても教会に残っていたのは、自分がそこに必要な存在だと思っていられたからだ。それが無くなってしまえば、教会は、もう、帰っても良い場所だとは言えなくなってしまった。
うつむいたステラに、静かな声が問いかける。
「貴女は教会に戻りたいと思っている? それとも、戻らなければと思っていた?」
「え?」
顔を上げた彼女の前には、穏やかな、けれども、深い淵に沈むものも見つけ出せるような眼差しがあった。
彼は、重ねて問うてくる。
「望みなのか、義務なのか、貴女が教会にいようと思った理由はそのどちらだい?」
「義務、だなんて、そんな」
否定しようとして、その言葉が口の中で淡雪のように消えていく。
義務ではない、と、言い切れるだろうか。
教会にとって自分が必要だから、必要とされていたから、そこにいた、というのは。
確かに、義務とまでは思っていなかったかもしれない。
けれども現に今、必要とされていないと判ってしまった今、それでも帰りたいと思う気持ちは、彼女の中にはない。
(わたしは、いつだって自分の存在を他の誰かに委ねていた気がする)
コラーノ神父に、子どもたちに。
皆のことが好きで大事で、だから彼らの役に立てることを嬉しいと思う。
それは、紛れもない真実だ。
けれど、彼らに必要とされることで、安心できた。
彼らに必要とされることで、自分の居場所が確かなものになるように、思えた。
その気持ちがあったこともまた否定できず、それは多分、本当の意味で『自分の足で立っている』とは言えないものだ。
ジーノに追及されて、こうやって足元が揺らいで初めて、そんな当たり前のことに気付くことができた。
(それではいけないんだよね)
そろそろ、これから先どうするかを、決めなければいけない。自分がどうしたいかを見極めた上で。
「……教会にはもう戻れないなと思っているのは、確かです。もう、あそこにわたしは必要ないから。でも、ここに残っているのは、それだけが理由じゃないです」
今、この場所を離れがたく思っているのは、アレッサンドロのことがあるから。
彼の笑顔を見たいというのはけっして『義務』などではなく、間違いなくステラ自身の『望み』だ。心の底から、幸せそうに笑う彼を見たいと思う。
(それに)
ステラは、うたた寝の中で彼女の手のひらに口づけてきたときのアレッサンドロを思い出す。
あの時、まるで壊れやすい宝物であるかのように触れられて、そこにいることを切実に求められている気がした。繊細で優しい触れ方であったにもかかわらず、まるで、彼にとって自分のその手が救済の命綱であるかのようだった。
一転、強張った顔で踵を返し、呼びかけに振り返りもせずに去って行った彼の背中がよみがえる。
ステラは、まだここにいたいと思っている。アレッサンドロがここで幸せなのだと確信したいと思っている。
けれど、アレッサンドロが自分にどうして欲しいのかが判らない――彼は、時々、ステラがここにいることを望んでいないように思わせる。
自分の気持ちと、彼の気持ち。
どちらを優先させるべきだろう。
ステラは当惑し、ジーノを見る。だが、彼はもうそれ以上何も言うつもりがないようだった。
再会して、三ヶ月。
三ヶ月経っても、アレッサンドロが何を望んでいるのか、彼がここで幸せだと思っているのか、判らないままだ。
(でも、わたしは、判ろうとした……?)
矛盾するアレッサンドロの態度に戸惑うばかりで、彼は忙しいからと、手を伸ばすことをためらってしまってはいなかっただろうか。
ステラは顔を上げ、もう一度ジーノを見た。今度は、迷いのない眼差しで。
「わたし、もう少しだけ、ここにいさせて欲しいです」
「それが貴女の望み?」
「はい。許していただけるなら」
深く頷いたステラの前で、ジーノが微笑む。
「貴女が望むだけ、いつまででも」
そう言った彼の笑顔は、まるで長年求めていた宝物を探し当てたかのようだった。




