祝賀会:ここに留まる理由
ティスヴァーレの王宮には、余裕で二百人は入れそうな大広間がある。ラムバルディアに到着した日にステラが通された謁見の間の広さにも驚かされたが、この大広間はそれよりも更に広々としている。ディアスタ村の中央広場がすっぽりと入ってしまいそうなほどで、最初に足を踏み入れた時、ステラは一瞬、外に出てしまったのかと思ったほどだ。
いつもは人気がないその大広間に、その日は煌びやかな衣装で身を包んだ貴人が溢れ返っていた。ステラは壁に寄り掛かり、現実とは思えないその光景を当惑の眼差しで眺める。
途切れることのない優雅な音楽。
足元に影もできないほどの灯り。
咲き誇る花のように色鮮やかな人々。
次から次へと供される食べ物に飲み物。
――ディアスタ村でも、年に一度、村を上げての収穫祭が開かれるが、あれとは比べ物にならない豪華さだ。
今日は、アレッサンドロの誕生日の祝賀会なのだそうだ。
(ひと月、早かったんだな)
ステラは寂しさに似た、けれども少し違う、あるいは、他の感情も混じった思いを噛み締めながら独り言ちた。
最初に誕生日を訊ねた時、アレッサンドロは「知らない」と答えた。だからディアスタ村にいた頃は、森の中で彼とステラが初めて出逢った日からちょうどひと月前を、彼の誕生日としていた。出逢った日にしなかったのは、その日はアレッサンドロが母を喪った日でもあったからだ。
けれど、六歳にしてあれほど様々な知識を蓄えていた子どもだったのだ。自分自身の誕生日を覚えていなかったわけがない。
それでも隠そうとしたということは、生まれた日を、祝われたくなかったのだろうか。
五歳まで、アレッサンドロはここで暮らしていたはずだ。
その頃もこんなふうに祝われていたのなら、誕生日を疎む理由が解からない。
ここでふた月を過ごして、ステラはアレッサンドロと城の他の人たちの間にある壁に否が応でも気付かされていた。
それは彼の身分に因るものなのか、それとも、何か他の理由があるのか。
本当の誕生日を教えようとしなかったことは、その理由と何か関係があるのだろうか。
ステラはため息をこぼし、広間を見渡す。
教会では、もちろん、こんなに豪華なお祝いはできなかった。
子どものたちの誕生日は、ステラが焼いたケーキを食べて、皆でおめでとうを言い、手近な材料で作った玩具をあげるだけ。
とても素朴な、誕生会だった。
けれど、そんな質素なお祝いを、アレッサンドロは毎年満面の笑みで喜んでくれていたのだ。それは、間違いない。
ステラは、笑いさざめく貴族たちの間を縫うようにして忙しく立ち働く給仕に羨望の眼差しを向け、自分もあの立場であれば良かったのにと、しみじみと思う。あの頃のようにケーキを焼いてあげることはできないとしても、アレッサンドロの為に何かすることがあったなら、どんなに良かったことか。
今朝、寝起きにドレスや宝石類をずらりと目の前に並べられてメルセデからこの祝賀会に出るのだと言われたとき、一応、給仕としてならば、と言ってみた。だが、ジーノの客人でありアレッサンドロの恩人であるステラにそんなことをさせるはずがなく、彼女は今、お伽噺に出てくるようなドレスの優雅な見た目からは思いも寄らない息苦しさと、踵のある靴がもたらすつま先の痛みに悩まされながら、壁の花と化していた。
どれほど着飾ろうと、自分がこの場に相応しくないということは痛いほど解っている。ここに来てからの二ヶ月半、城の人たちからは下にも置かない扱いを受けてきたけれど、未だに慣れない。ましてやこんな豪華な舞踏会など、この場の空気を吸うことすら居た堪れなかった。
(わたし、何やってるんだろう)
ステラは口の中で呟き、ふうと息をつく。
どうせ、彼女がいなくても誰も気づきはしない。
ここを出てどこか他の場所で時間を潰していたいところだけれど、歩きにくいこの靴では壁の支えがなければ立っているのもままならない。
所在なく視線を巡らせたステラだったが、ひと際華やぐ人だかりでその眼を止める。
集まっているのは、妙齢の淑女たち。
その中で、頭一つ分飛びぬけている、黄金色。
広い肩にまっすぐ伸びた背筋――アレッサンドロだ。
と、まるでステラの視線に気付いたかのように、背を向けていた彼が振り返った。
ステラは無意識に息を詰め、華やかな女性たちに取り囲まれているアレッサンドロを見守る。
彼女たちは皆、爪の先、髪の一筋までもきれいに整えられていて、この国を統べる彼の隣に立つのに相応しい人たちばかりだ。誰が彼と並んでも、まるで一枚の絵のようになるだろう。
けれど、あれほど愛らしく美しい彼女たちに我先にと笑顔を投げ掛けられているというのに、アレッサンドロはニコリともしない。
(こんな時なのに、やっぱり笑わないんだ)
ステラは唇を噛む。
たとえ遠く離れた場所にいても、アレッサンドロが幸せに過ごしているのなら、それでいいと思っていた。彼が幸せに暮らしていることを確かめるために、ディアスタ村からここまでやってきたはずだった。
(なのに……)
ここでの日々を重ねるほど、深まるのは、迷いばかりだ。
ディアスタ村にいた頃のように屈託なく笑うアレッサンドロを見たい。一度でも、いいから。
自分が生まれた日を祝ってくれる人たちの中にいるとは思えない、アレッサンドロの冷やかな眼差し。確かにそこに居るのに、注がれる笑顔も、祝いの言葉も、美しい音楽も、美味しい食事も、何一つ彼の心の中には届いていない。
それを見ていると、どうしようもなくステラの胸が痛んだ。
この気持ちは何なのだろう。
どうして、ここまで彼の笑顔に固執してしまうのだろう。
庇護欲、だろうか。
幼い頃に彼に対して抱いた、「守ってあげなければ」という想いが、未だステラの中に深く根付いているからか。
けれど、深夜に泣きながらしがみついてきたアレッサンドロは、もういない。
ここに来て、彼が成したものを目にして、皆の上に立つ彼を見て、もうステラの手を求めてきた小さな少年ではないことを、理解した。
ステラがいなくとも、アレッサンドロはこの場所でしっかりと立つことができている。
ステラが守ってあげる必要も、支えてあげる必要も、もう、ない。
(わたしは、もう、アレックスには必要じゃない)
それが解かっていてもなおここに留まっているのは――ここを立ち去れないのは、きっと、彼の笑顔を目にしていないから。二ヶ月以上も傍で見てきて、まだ一度も、彼が幸せだという確信を持てていないままだから。
ジッと見つめていると、まるでその視線に気付いたように、不意にアレッサンドロが首を巡らしステラを見た。いや、見た、と、思う。
ほんの一瞬、彼の秋の空のような深い青の瞳が彼女を見て、またすぐ逸れた。
多分、目が合ったこと自体がたまたまだったのだろう。別に、故意に無視したわけではない。
そう思っても、かすめただけで離れていった彼の視線に、彼女の胸はチクリと疼いた。
教会にいた頃は、ステラと目が合うだけで、夜が明けたかのような笑顔になっていたのに。
遠く離れていた八年間、ステラはアレッサンドロがいた四年間のことを、胸の中で大事に包み込んできた。時折それを取り出し、幸せにしているだろうか、いつかまた、逢えるだろうかと、願うように思いを馳せてきた。
けれど、再会したアレッサンドロはあまり幸せそうに見えないし、ステラが来たことを喜んでもいない。
つれない彼を見るたび、ここから去ろうかと思い、笑わない彼を見るたび、その足が引き留められる。
(どうしようかな)
素っ気なく眼を逸らされたことでまた気持ちが去る方へと傾きかけたステラだったが、ふと、先日の街中でのことが脳裏によみがえる。
無頼の輩から守ってくれた時の、彼の胸。
つい差し出してしまった彼女の手を取ってくれた、彼の手のひら。
――どちらも昔とは全然違って、彼女をすっぽりと包み込めるほど大きくなっていた。
知らない人のように思えてドキリとして、でも、その温かさはやっぱりアレッサンドロのもので、ホッとした。
ステラのことを心配して政務を放り出して駆けつけてくれたことに、迷惑をかけたことへの罪悪感と共に、ジワリと喜びが滲み出た。
そして、同時に生まれた小さな疑問。
(アレックスにとって、わたしって何なのだろう)
彼は、ステラにどうして欲しいと思っているのだろう。
どれだけ素っ気ない態度を取られても、出て行くことを彼が望んでいるとは思えないのは、ステラの願望に過ぎないのだろうか。
かつては手に取るように判ったアレッサンドロのことが、今はさっぱり解からない。
うつむき、小さく吐息をこぼした時。
隣に人が立つ気配を感じてステラは顔を上げた。そして、そこに居る人物に目を丸くする。
「やあ」
柔らかく微笑む、幼い頃のアレッサンドロとよく似た面立ち。淡い金髪はかつての彼そのものだ。
よく似ているけれどもアレッサンドロよりも線が細く、生まれながらの優美さを全身から溢れさせているその人は。
「ジーノ、さま……」
口ごもりながら名を呼んだステラに、彼は笑みを深くした。




