ラムバルディアの城下町:その為ならば
カランと軽やかな音がして、菓子店の扉が開く。寄り掛かっていた外壁から身を起こしたアレッサンドロに、ヒョコリと姿を現したステラが笑った。
「お待たせ」
そこそこ時間がかかっていたから、いったいどれほどの荷物を抱えて出てくるのかと思ったが。
彼女が手にしているのは、手のひらにのる程度の袋が一つきりだ。
「――それだけか?」
眉をひそめたアレッサンドロに、ステラがコクリと頷く。
「うん」
「子どもたちへの土産を買いに来たんじゃないのか?」
彼の台詞にステラは目を瞬かせ、次いで、かぶりを振った。
「違うよ。今日はね」
答えてステラが歩き出す。
アレッサンドロは半歩分ほど遅れてステラの後を追った。隣に並び、チラリと彼女の手の中の袋を見遣る。
これは、子どもたちへの土産ではなかった。
つまり、ステラはまだここに留まるということだ。
早く彼女をディアスタ村へ帰さなければいけないと思っているのに、その返事に自分でも驚くほどの安堵が込み上げてきたのはどういう理由からなのだろう。
唇を引き結んでいるアレッサンドロを、ステラが見上げてくる。
「お土産じゃないけど、どれもみんなおいしそうだし可愛かったから、子どもたちにも送ってあげたよ」
(なら、自分の為か?)
ステラでも、自分の為の何かを欲しがることがあるのか。
八年前は勿論、ラムバルディアに来てからも、アレッサンドロは彼女がそうするところを見たことがなかった。ここに来てから身の回りの物を色々と手配したが、どれも手つかずで残っていると聞いている。
菓子ならいいのだろうか、とアレッサンドロが思った時、手にしていた包みをステラがスッと差し出した。
「何?」
「これはね、アレックスにって思ったの」
「俺?」
「そう」
ステラが頷く。
アレッサンドロは受け取った菓子の袋をまじまじと見つめた。困惑の面持ちでいる彼に気付いて、ステラが笑う。
「えっとね、アレックスって、昔お菓子が好きだったでしょう?」
「菓子、というか……」
確かにあの頃は好きだった。菓子だからというよりも、ステラが作ったものだったからだ。
肯定も否定もできずにいるアレッサンドロに、ステラが眉を曇らせる。
「あ、もしかして、もう今は好きじゃなくなっちゃったかな。大人になったら好きなものって変わるもんね」
言葉と共にステラの細い肩が落ちていき、アレッサンドロは慌ててかぶりを振る。
「いや、好きだ」
「ホント? 別に無理しなくても……」
「本心だ」
台詞の後半を奪うように力強く頷けば、ステラは嬉しげに顔を綻ばせた。
「良かった」
「でも、何で急に思いついたんだ?」
問うたアレッサンドロを、ステラがチラリと見上げてくる。そしてまた、眼を前へ向けた。
すぐには、答えは返ってこなかった。
半区画分ほど進んだ後、彼女が口を開く。慎重に言葉を選ぶようにして。
「あのね、さっき、ここに来て、アレックスが頑張ってるのを教えてもらったって言ったでしょ?」
「ああ」
「それは、すごくえらいなって思ったの」
やはり、子ども扱いか。
ステラの台詞で込み上げてきた、苛立ちとは違う、だが、モヤモヤとしたものをアレッサンドロは呑み込む。
別に、ステラに褒めて欲しかったわけではない。少なくとも、今のアレッサンドロが望んでいるのは、その言葉ではなかった。
奥歯を噛み締めたアレッサンドロの隣で、彼女が続ける。
「本当に、それはすごいと思ったのだけど、でも、ちょっとね、心配になったの」
「え?」
思わず立ち止まったアレッサンドロに、同じく足を止めたステラが向き直った。
「アレックス、頑張り過ぎてない?」
「……え?」
唐突なその問いに、アレッサンドロはどう答えていいか、判らなかった。
ラムバルディアに連れ戻されてからのアレッサンドロの時間は、初めの三年間は国を統べるための学びに費やされ、続く五年間はティスヴァーレをより良い国とするために費やされた。自分がそれを『頑張って』いたかどうかなど、判らない。
無言でステラを見下ろすアレッサンドロに、彼女は微笑みかける。先ほどまでのようなものではなくて、昔、転んで擦りむいた膝を手当てしてくれる時に浮かべていたような微笑みだ。
「昔もそうだったけど、アレックスは頑張り過ぎだと思うんだ。今は王さまだから仕方がないのかもしれないけど、でも……」
うつむいたステラの声が細くなる。
「ステラ」
名前を呼んだはいいけれど、その先が続かない。
アレッサンドロはステラの肩に手を伸ばしたが、それが届く前に彼女が顔を上げる。
「ごめんね、変なこと言って。とにかくね、そのお菓子はお仕事の間にちょっと休んだりするときに食べて欲しいなって思ったの。お昼ご飯もお仕事しながらの時が多いみたいだけど、ほら、おやつの時間とか」
それまでの滑舌の悪さとは裏腹に、ステラはいつもよりも速い口調で言い切った。最後にニコッと笑ったのは、これでこの話は終わりだという合図か。
「……俺が頑張り過ぎだというなら、ステラだって同じだろ」
ボソリと返すと、ステラが目を瞬かせる。
「わたし? わたしは別に頑張ってなんていないよ?」
「でも、教会では皆の為にずっと働いてた」
「それは、わたしが好きでしてることだから」
「俺だって同じだ」
いや、確かに、好き、とは少し違うかもしれない。
だが、彼自身が望んで行っているというのは紛れもない真実だ。
無言で見つめ合っていたアレッサンドロとステラだったが、不意に彼女が眼を逸らした。そして、耳を澄ますように軽く首をかしげる。
「ステラ?」
「ちょっと待って――あっち、かな」
言うなり、すぐ傍の細い路地に駆け込んでいく。
「ステラ!?」
一瞬面食らったが、アレッサンドロはすぐさま我に返って後を追いかけた。が、足を踏み入れた路地に、彼女の姿がない。
(どこに行った?)
アレッサンドロは慌てて路地に駆け込んだが、一つ目の角を曲がったところにしゃがみ込んだステラを見つけ、全身で安堵する。
そして、安心すれば、取って代わって込み上げてくるのは苛立ちだ。
「一人で動くな――何をしている?」
アレッサンドロの呼びかけに、ゆっくりとステラが立ち上がった。その手の中に、大事そうに何かを包み込みながら。
「それは?」
訊ねた彼にステラが答えるより早く、「ニャァ」という鳴き声が。
「猫?」
「仔猫、だよ。すごく小さい」
手の中の毛玉を見つめながら、ステラが囁いた。
仔猫は痩せ細り、毛並みも悪い。そんなみすぼらしいものに彼女が向ける眼差しは、慈愛と憐憫が溢れ返っていた。
「連れて帰りたいのか?」
アレッサンドロは、答えが判りきった問いを投げる。そして、彼女はパッと顔を輝かせた。
「いいの?」
「倉庫に連れていけば、いいネズミ捕りになる」
アレッサンドロの言葉に、ステラが満面の笑みになる。
「アレックスは昔からこういうの放っておけなかったよね」
立ち上がってそう言った彼女に、アレッサンドロは肩をすくめるだけに留めておいた。
確かに、教会にいた頃、アレッサンドロは怪我をしたり捨てられたりした小さな生き物を拾ってきたものだった。だが、それは、ステラの為だった。
命が失われれば、あなたが悲しむから。
命が救われれば、あなたが笑うから。
仔猫を抱いて佇むステラを、アレッサンドロは見つめた。彼女も彼を見上げ、そして、絡む視線に引き出されたかのように囁き声で問いかけてくる。
「アレックスは、ここで幸せ?」
いったい、何が呼び水になったのか。
それは、ポロリと、そうしようと思わぬままに転がり出したような問いかけだった。放ってから、ステラは、あ、というような顔になったが、撤回するつもりはないようだった。
ひたと注がれる視線から逃れるようにアレッサンドロはわずかに目蓋を伏せ、答える。
「幸せだよ」
自分がここにいることで、自分がここで為すべきことを為すことで、あなたの幸せが守れるならば。
(それ以上に幸せなことはない)
「俺はここで幸せだ」
アレッサンドロは目を上げ、真っ直ぐにステラを見つめながら、そう繰り返した。




