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捨てられ王子の綺羅星  作者: トウリン
Ⅰ:捨てられ王子は森の中で星に拾われる
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温もり

 その場には幾人もいたにも拘らず、衣擦れの音一つしなかった。もしかしたら、彼らはヒトではなく、何かよくできた人形のようなものであったのかもしれない。アレッサンドロを見る時はいつも温かな笑みが浮かんでいるおもては、どれも皆つるんとした仮面の様だったから。

 怯えたアレッサンドロが隣に立つ母に手を伸ばすと、彼女は蒼褪めた顔で微笑み、彼の手を優しく包み込んでくれた。その温かさに、泣きたくなるほどホッとする。どうしてか、今の母は氷のように冷たいものだと思っていたから。


 母さま、良かった――そう言おうとしたアレッサンドロを遮るように、冷やかな声が響き渡る。


『早うその子ネズミを連れてこの城から立ち去るがよい』


 パッと顔を上げると、アレッサンドロの頭よりも高いところに、女性が一人、立っていた。

 初めてまともにかけられた言葉には侮蔑の響きが満ちていて、アレッサンドロと彼の母に注がれる眼差しには憎悪があった。

 とても整った容姿をしているはずなのに、何故か美しいとは思えない。


『そんなものをこの世にひり出さなければ、見逃してやったものを』


 疎ましげに吐き捨てられた台詞の意味を、五つになったばかりのアレッサンドロにはよく理解できなかったけれども、そこに含まれる感情は伝わってきた。


 この人は、自分のことを嫌っている。


 アレッサンドロは助けを求めるように居並ぶ人々に眼を向けた。その中には、優しくて、いつも彼のことを可愛がってくれていた兄もいる。


 だが。


(どうして、みんな、眼をそらすの?)

 あんなに笑いかけてくれていた人たちは、いったい、どこに行ってしまったのだろう。


 兄さま。


 呼びかけても、返事がない。

 すがるような眼差しを向けても、目を合わせることすらしてくれない。


 ああ、そうか、と、アレッサンドロは悟った。彼らがアレッサンドロたちに笑って見せたのは、父がいたからだ。父がいなければ、こんなふうにいとも簡単に切り捨てられてしまうのだ。

 ここに、アレッサンドロと母の味方は、一人もいない。

 最初から、そんなものはいなかった。


 そう彼が理解すると同時に、スゥッと彼らが遠くなっていく。辺りは闇に包まれていき、いつしか、すぐ隣にいたはずの母も消えていた。


(僕は、独りだ)

 絶望が、身の内に満ちていく。

 もう何も考えたくない。

 アレッサンドロはその場に丸まり、小さくなって目を閉じる。

 自分はもうこの世に独りきりなのだ。

 凍えるように、寒かった。


 母さま。


 そう、呟いた気がする。

 と、不意に、頬に何か温かなものが優しく触れ、次いで全身が温もった。


 アレッサンドロは無意識にそれにすり寄り、そして、気付く。


 頭が、痛い。


 彼は暗がりの中でいくつか瞬きをし、眉をしかめた。

 どうして頭が痛いのかは――


(泣いた、からだ)

 陽だまりのような心地良い温かさに包まれながら、アレッサンドロはスンと鼻を啜る。目覚めたばかりでまだ茫洋とした頭では、どうしてそんなに泣いたのかは、思い出せない。

 泣いた理由よりも気になったのは、『今』のことだった。


(何でこんなに温かいのだろう)


 母と一緒に生まれ育ったところを追い出されたのは、一年前のことだ。アレッサンドロが五歳の誕生日を迎えて間もなく父が亡くなって、葬儀を終えた次の日には、彼と母は鞄一つ分の荷物だけを持たされて、門の外へと追いやられていた。母の目は、まだ悲しみの涙で曇ったままだったというのに。

 それからの一年、母はいつも怯えていた。まるで何かから逃れようとしているかのように首都ラムバルディアを出てからは、あちらこちらを彷徨う日々だった。屋根と壁があるところで眠れる日の方が珍しく、母はアレッサンドロを抱き締めて精一杯温めようとしてくれていたけれど、やせ衰えたその身では到底叶わぬことだった。


 こんなふうに「温かい」と思えたのは、いつ振りのことだろう。


(温かくて、柔らかくて……それに、いい匂い)

 無意識に、アレッサンドロはそれに身を擦り寄せる。


 と。


「……起きた?」

 頭の上の方から、囁き声が届いた。母とは違う、もっと甘く、幼さが残る声。

 目をしばたたかせて顔を上げると、すっぽりと被せられていた毛布がずれる。そうして初めて、アレッサンドロは自分が誰かの胸元に顔を埋めていたことに気が付いた。


(ここ、どこ……?)

 どうやらどこか部屋の中で、ちゃんとシーツが敷かれた寝台の上にいるようだ。目が慣れてくれば、窓から射し込む月明かりで状況を見て取ることができるようになる。

 もぞもぞと動くと、アレッサンドロの背中に回されていた細い腕が解かれた――解かれて、しまった。離れていこうとする温もりに、彼は、思わずしがみついて引き戻してしまいそうになる。

「寒い?」

 案じる声で問われて、彼はフルフルとかぶりを振った。そうして、まじまじとその声の主を見つめる。

 たった今までアレッサンドロを温めてくれていた人は、彼よりもいくつか年上なだけの、少女だった。

「起きちゃったんだね。でも、まだ夜中だよ」

 そんな言葉と共に向けられた栗色の眼差しは優しく、温かく、微かに笑んでいる。アレッサンドロは思わずポカンと彼女に見惚れてしまった。


(昔の、母さまと同じだ……)

 母と同じ、花が綻ぶような笑顔。

 幸せだった頃の母と、同じ。

 過去を思いアレッサンドロの中に湧いた温もりは、しかし、次の瞬間噴き出してきた黒く苦いものに塗り替えられていく。


 あの頃の母は、もういない。

 あの頃の母とまた会える可能性も、完全に消えてしまった。


 ふいに蘇った、いや、思い出したその現実が重くのしかかってきて、アレッサンドロは大きく喘いだ。


「母、さま」

 呻くように漏らしたその一言で、少女の顔が悲しげに歪む。そうして、彼女はまたアレッサンドロをギュッと抱き締めてきた。

 その腕は、母とは全然違っている。もっと細くてか弱くて、アレッサンドロのものと大差がない。

 けれど、小さな身体で懸命に彼を包み込もうとしてくれていることは、ひしひしと伝わってきた。


「だいじょうぶ。お母さんはね、ちゃんと、神父さまが見てくれてるよ」

 囁き声は、少し震えを帯びている。

「もうちょっと寝て、朝になったら、会いに行こう? 会って、ちゃんとお別れしよう? ね?」

 少女は、現実を偽ろうとはしなかった。

 その『お別れ』は、永遠の別れなのだ。もう二度と、母との日々を取り戻すことはできないのだ。

 嗚咽で震えてしまうアレッサンドロの背中を、少女は小さな手で懸命に撫でさすってくれる。頬を押し付けた彼女の温かな胸からは、トクトクと確かな鼓動が伝わってきた。


 アレッサンドロは両手を伸ばして彼女にしがみつく。


 この温もりを、失いたくない。


 少女を母の代わりにするつもりはなかったけれど。


 凍えた者が小さな灯にもすがるようにアレッサンドロは彼女の温もりを心の底から求め、二度と手放さずに済むようにとこいねがった。

 そうせずには、いられなかった。


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