庭園にて:相思う
しくじった。
しくじった、しくじった、しくじった。
うっかり抱き上げてしまったステラを脆い卵を置くように下ろしながら、アレッサンドロは己を罵っていた。
頭の中はその一言でいっぱいで、それから彼女と何か遣り取りをしたはずだがあまり内容はよく覚えていない。
地面を踏み抜く勢いでステラから遠ざかるアレッサンドロの背中に、弾むような声で「ありがとう」と投げかけられた。危うく振り返りそうになったのを、首に渾身の力を込めて堪える。
(どうして、あんなことを)
噛み締めたアレッサンドロの奥歯がギリギリと音を立てた。
ディアスタ村の森から植え替えたあの花の前に行くのは、アレッサンドロにとって日課のようなものだった。あの花だけは、庭師任せではなく、彼自身の手で世話をしている。執務が立て込んでいるときは来られない時もあるが、それでも、二日続けて怠ることはない。
ステラがよく庭に出ていることは、知っていた。だが、アレッサンドロがあの場所に赴くのは城の者が動き出すよりもだいぶ早い時刻のことだったから、彼女とかち合うことなどないと気を抜いていたのだ。
今朝も、少し前から満開となっていた可憐な花をいつものように眺めていて、ふと人の気配に気が付いた。
こんな時間に誰だろうと振り返り、ほんのりと紅色を帯びた柔らかな花弁に触れながら脳裏に思い浮かべていた人の姿をそこに見た瞬間、彼は立ち去るべきだったのだ。
彼女が城に来てからの約ふた月、懸命にそうしてきたように、徹底的に避けるべきだった。
それができなかったのは、面と向かってステラの笑顔を見てしまったからだ。
アレッサンドロと目が合うと同時にふわりと浮かんだステラの微笑み。
八年前までは当たり前のように手に入れていた、温かな微笑み。
それを目にした瞬間、束の間過去に引き戻されたような気がした。釣られて思わず緩んでしまいそうになった頬を引き締めると、彼女の顔に影が差した。それで尚更、アレッサンドロの足はその場に縫い付けられてしまったのだ。笑顔を曇らせたままには、しておけなくて。
話しかけてくる鈴の音のような声を一日中でも聴いていたくて、けれど、彼女との間に築いてきた壁を崩すわけにはいかなくて、アレッサンドロはグッと奥歯を食いしばっていた。
そうこうするうち、不愛想な彼にめげずに話しかけ続けるステラの口から、ポロリと、イヤな名前が零れ落ちた。一度ならず、二度、三度と。
『レイ』
それはアレッサンドロよりも二歳上の、彼がステラに拾われるよりもずっと前から彼女の傍にいた男の名前だ。
教会にいた頃から、彼のことは気に食わなかった。
アレッサンドロよりも年上で、力もあって。
あの頃、ステラにとって、レイは頼りになる相手で、アレッサンドロは守るべき存在だった。そんな彼が、ステラと同じ目の高さで話せる彼が、羨ましくて妬ましかった。
レイという名をステラが口にするたびみぞおちの辺りがムカついて、気付けば衝動的に彼女を抱き上げていた――この場にいない男相手に、張り合うように。
そして、いやというほど味わう羽目になった、後悔先に立たずという言葉。
(どうして俺は、あんなことを)
一心に足を動かしていたアレッサンドロは、城内への出入り口に辿り着いたところでようやく立ち止まる。そうして、両手をまじまじと見つめた。
腕の中のステラは温かくて柔らかくて、戸惑うほどに軽かった。
八年前のステラはアレッサンドロよりも大きくて、しがみついても少しも揺らぐことなく彼のことを受け止めてくれていたのに、さっきの彼女は小鳥のように軽くて、うっかり力を籠めれば潰してしまいそうなほど華奢だった。
けっして触れるべきではなかった。
ずっと、触れたくてたまらなかった。
相反する思いに苛まれ、アレッサンドロはきつく両手を握り締める。
(こんなふうに感じたら、ダメだ)
あの感触を思い出してはいけない。
あの感触をずっとこの腕の中に閉じ込めておきたいなど、絶対に思ってはいけない。
彼は唸り、見えない糸を振り切るように勢いよく顔を上げた。扉を押し開いて廊下に足を踏み入れると、背筋を伸ばし、屋敷の中にちらつき始めた使用人たちに眼もくれず執務室に向かう。
荒い手つきで扉を開け、室内に足を踏み入れたところで先客がいることに気が付いた。
「おはようございます、アレッサンドロ様」
淡々とした声で朝の挨拶を投げかけてきたのは宰相のリナルドだ。
アレッサンドロは無言のまま部屋を横切り執務机に向かう。銀色の瞳が追いかけてきているのは感じていたが、一瞥すら与えず椅子に腰を下ろした。
三階にある執務室の窓の外には、中庭が広がっている。あの花は、この部屋からも見える一画に植えられていた。アレッサンドロがチラリと眼を走らせると、小さな人影が佇んでいる。
栗色の頭はうつむいているように、細い肩はわずかに下がっているように、見えた。
あんなふうに置いてきて、傷つけてしまったのではないか。
ギリギリと心臓が搾り上げられているような痛みに襲われて、アレッサンドロは奥歯を食いしばる。
と、そこに。
「……どうかなさいましたか」
静かに問いかけられ、彼は視線を声の主へと移した。眼が合って、リナルドは答えを促すように微かに首をかしげた。
アレッサンドロの胸中などとうに読んでいるくせに涼しい顔をしているリナルドに腹が立つ。
「どうして、彼女を村に帰さないんだ。兄上はひと月で帰すと言っていただろう」
「ジーノ様がおっしゃったのは、少なくともひと月、ですよ。ステラ殿からご希望があれば、すぐにでも手配いたしますとも」
当の本人が要求してこないからだとうそぶくリナルドを、アレッサンドロは射殺さんばかりの眼差しで睨み付けた。
「あの人にはこんなところよりも村の平穏な暮らしが似合っている。彼女は教会に必要な人だ。彼女だって、あそこにいることを望んでいる」
「もう、あちらにステラ殿の居場所はありませんよ。子どもの世話に慣れた者を三名ほど送りましたから」
サラリとリナルドは言ったが、それでは、ステラは教会に不要な人間になったというように聞こえる。
「別に、子どもの世話をするから彼女が必要とされているというわけじゃない。彼女は、ただそこにいるだけでいい――そういう人なんだ」
眉間に皺を刻んで返したアレッサンドロに、リナルドは肩をすくめる。
「そう思われますか?」
「思う、ではなく、俺は知っているんだ」
ムスッと答えると、リナルドは思案深げに視線を落とした。
「何だ?」
「……いえ、果たして、ステラ殿もそう思っておられるのだろうかと」
「どういう意味だ」
まるで、アレッサンドロには見えていないステラの中の何かが、リナルドには見えているとでも言いたいようだ。
そんなことが、ある筈がないのに。
不機嫌さを隠さないアレッサンドロを、リナルドは真っ直ぐに見返してきた。
「確かに、アレッサンドロ様がおっしゃるように、ステラ殿はここでは少々居心地が悪そうですな。メルセデには、散々、何か仕事がないかと訊いてきていたようですよ」
それは、アレッサンドロの耳にも届いていた。メルセデが頑として応じなかったから、十日ほどで諦めたようだったが。もっとも、それとて、訴えることに飽きたというより、あまりしつこくしてメルセデに迷惑をかけるのが申し訳なかったからなのだろう。
「彼女は、皆の役に立ちたい人だから」
リナルドに告げるというよりも、過去の彼女を振り返るように、呟いた。
アレッサンドロが教会にいた頃から、いつだって、ステラは与えられるよりも与えることを望む人だった。常にコラーノ神父のこと、教会の子どもたちのことを考えていて、八年間届けられた手紙でも、ひしひしとそれが伝わってきていた。そして、どの手紙も、最後はアレッサンドロのことを気遣う一文でしめられていたのだ。
何度、アレッサンドロはあの手紙に返事を書こうとしたことか。
だが、その都度堪えた。
二度と帰ることはできないのだから、個人的な関係は断つべきだと思ったから。
今もそれに徹してはいるが、ステラを目の前にしていると、時々それがとても難しくなる。
アレッサンドロが膝の上でグッと両手を握り締めた時、また、リナルドの声が届く。
「それが、あの方の存在意義にはなっておりませんか」
「え?」
どういう意味かと眉をひそめたアレッサンドロの前で、老宰相は小さく息をついた。
「教会の者がどう思っているかは存じませんが、ステラ殿ご自身は、必要とされていることで、そこが自分の居て良い場所だと思うことができている――そういう可能性はありませんか」
「そんなこと……」
「ないでしょうか」
否定の言葉を疑問形で奪われて、アレッサンドロは押し黙った。そんな主を見つめて、リナルドが静かに続ける。
「私には、あの方が、ここでの悠々自適な生活を楽しんでおられるようには見受けられません。むしろ、所在なげといいましょうか」
リナルドは唇を引き結んでいるアレッサンドロを見つめる。
「与えるだけにしろ、与えられるだけにしろ、どちらか一方だけの関係は虚しさを覚えるものかと」
確かにアレッサンドロも、幼い頃、ステラに「してもらう」ばかりの自分が歯がゆかった。彼女の手が必要である自分よりも、彼女に必要とされる自分に、早くなりたかった。
「……」
返す言葉を見つけ出せずにいるアレッサンドロに注ぐリナルドの眼差しが、ふと和らぐ。
滅多に表情を変えることのないこの老練な宰相が淡く見せた笑みに、アレッサンドロは眉をひそめた。
「何だ?」
「ああ、いえ……お二人は、よく似ておられるなと」
「俺とあの人が?」
優しさだけでできているようなステラと自分とに、共通点があるとは欠片も思えない。
どこがだ、と彼の顔いっぱいに書かれていたのだろう。アレッサンドロを見て、リナルドはふと苦笑めいたものを浮かべた。




