八年ぶりの逢瀬:ひとまずの約束
アレッサンドロの背中が、どんどん遠くなっていく。
今しがた目の前で繰り広げられた遣り取りを、ステラの頭は半分も理解できていなかった。
(えぇと、わたしを呼んだのは、アレックスじゃなかった……?)
いや、それどころか、アレッサンドロ自身はステラがここにいることを喜んですらいなかったように思われる。アレッサンドロは、ステラに逢いたいなど、これっぽっちも思っていなかったのだ。
(逢いたいと思っていたのは、わたしだけ)
彼の言葉からも眼差しからも、それがひしひしと伝わってきた。
振り返って目が合った瞬間、あの深い碧眼を見たその一瞬で、そこに立つ人がアレッサンドロだと判った。瞳の色が記憶に残るものと同じだったというだけでなく、そこに閃いた輝きが、そう思わせた。
それなのに、アレッサンドロが言葉を放てば放つほど、どんどん、彼との距離が開いていくような感じがして。
台詞以上に彼の眼差しが、ステラがここにいることを責めていた。
幼かったアレッサンドロからは、あんな眼で見られたことは、一度もなかったのに。
(わたしは、ここに来てはいけなかったんだ)
その事実が重く胸に落ちてきて、ステラは唇を噛み締める。と、そこに、羽がかすめたように微かな力で何かが触れた。
パッと顔を上げたステラから、繊手が遠ざかっていく。それを追って顔を上げると、優しげな微笑みが彼女を見下ろしていた。
アレッサンドロとよく似た、けれど、やっぱり、違う人。
「そんなに噛んだら傷ついてしまう。そんなのを見せられたら、あの子が落ち込んでしまうよ」
アレッサンドロの兄だというその人は、穏やか笑みを浮かべたままそう言った。
「え、と」
この人の名前は、何といっただろう。
(ジーノ、――って……?)
確かに聞いたけれども、もしかしたら聞き間違えたかもしれない。
ステラはそう思った。何故なら、耳にしたその名は、まず有り得ないものだったから。
とは言え、一度告げられた名をまた訊き直すなんて、失礼だ。
言葉を失い目の前に立つ人をただ見つめることしかできずにいたステラの手を、恭しげに彼が取る。
「私はジーノ・ティスヴァーレ、アレッサンドロの兄だ。あの子を見つけてくれたことに、そして慈しんでくれたことに、感謝する」
自然な所作でジーノはステラの手の甲に口づけたが、告げられたことを理解するのに精いっぱいの彼女はされるがままでそれどころではない。
(やっぱり、聞き間違えじゃなかった)
ジーノ・『ティスヴァーレ』ということは。
ステラは未だジーノに手を取られたまま、ぐるりと庭を見渡し、そびえたつ建物を見上げた。まじまじとそれを眺めた後、また、ジーノに眼を戻す。
「ここは、どこなんですか?」
「ラムバルディアだね」
「そうではなくて……」
自分の中にある疑問を、どう言葉にしたらいいのかが判らない。
口ごもったステラの胸中を読み取ったように、ジーノが続ける。
「ここはラムバルディアの王宮で、私はティスヴァーレ国の王、私の弟であるアレッサンドロは第一位の、そして唯一の、王位継承者だ。もっとも、私は王としての役割は殆ど果たしていないけれどもね。それは、今は専らアレッサンドロが担っているよ」
こともなげに言ったジーノはステラの手を放し、彼女にニッコリと笑いかけた。その笑顔が幼い頃のアレッサンドロと重なって、思わず微笑み返してしまう。
ジーノはステラを見つめ、そして口を開く。
「……悪かったね。貴女をここに呼んだのは、アレッサンドロではなく私なのだ」
彼のその言葉で、ステラの胸がチクリと痛んだ。
やはり、アレッサンドロが望んだことではなかった。
「アレックスは、わたしに会いたくなかったんですね……」
ステラはうつむき、ポツリと呟いた。
彼に逢える、彼も逢いたいと思ってくれていると浮かれていた自分が、バカみたいだ。
アレッサンドロが望んでくれていないのなら、ステラがここにいても仕方がない。
「わたし、帰ります」
うなだれたままこぼしたステラの肩に、そっと手がのせられる。
「ステラ、少しの間だけでいいから、ここにいてくれないか」
静かな声に、彼女はパッと顔を上げた。
「でも――」
ステラの脳裏に先ほどの遣り取りがよみがえる。
束の間相まみえた中でアレッサンドロがステラに向けたのは、「どうしてここにいる」の言葉だけ。彼女のことを、見るのも耐えられないと言わんばかりだった。
「……アレックスが、嫌がります」
唇を噛んだステラに、苦笑混じりでジーノがかぶりを振る。
「あれは、嫌がっているのではないよ」
「そうは見えませんでした」
声に出すと改めてそれが実感されて、ステラはいっそうつらくなった。
「アレックスが嫌がることを、したくないです」
また顔を伏せて喉からそう絞り出したステラの顎に、ジーノの指がかかる。促されて上げた目を、彼が覗き込んできた。
「貴女は私の客だ。貴女がいつ帰るかは、私が決める。あの子がどう思おうと関係ない。ああ、教会の方も安心していいよ。もう三人ほど、人を送ってあるから」
「え?」
「あちらは、貴女がいなくとも大丈夫。子どもたちの世話に習熟した者を選んだから、むしろ貴女よりもうまくやってくれるよ」
愕然と見上げたステラに、ジーノは続ける。
「貴女が教会に留まっていたのは、子どもたちの為だったのだろう? 子どもたちの世話をするのにより手慣れた者がいるならば、貴女がいる必要はないはずだよ」
確かに、彼の言うとおりだった。
ステラもコラーノ神父も、手探りで子どもたちの世話をしてきたのだ。多分、うまくできていないことも、たくさんあっただろう。もっと適した人がいるならその人に任せるべきだし、そうなれば、ステラは彼らに必要ではない者となる。
ジーノの言葉は紛れもない事実なのに、どうしてか、ステラにはそれを呑み下すことがとても難しく感じられた。
教会に、ステラの存在は必要がなくなる。
ステラの存在意義は、あそこでは見いだせなくなる。
(じゃあ、わたしはどうしたら……)
アレッサンドロからは拒まれ、教会にも居る場所がない。
両手を握り締めたステラを見下ろし、ジーノが静かに問うてくる。
「子どもたちの世話で一生を終えてしまっていいのかい?」
「え?」
「貴女もね、自分自身の幸せを手に入れるべきなのだよ。自分自身の為のね」
まるで、ステラが幸せではなかったかのような言い方だ。
「わたしは、今まででも充分に幸せでした」
ムッとジーノを睨んで応えたステラに、彼は幼い子どもに向けるような笑みを浮かべて軽く首をかしげた。
「なら、いいのだけれどね」
含みのある言い方をするジーノに更に言い募ろうとしたけれど、彼がそれに先んじる。
「まあ、とにかく、ひと月だけ、ここに留まってくれないかな?」
「ジーノさま、でも……」
「貴女と共に過ごしていた頃のアレッサンドロの話を、聞かせておくれ。あの子は少しも話してくれないから」
寂しげにそう言われてしまったら、拒めない。
「ひと月だけ、ですよ?」
「ああ、ひと月だけ、だ。ひと月いてくれたら、帰りの馬車を用意するよ」
それならば、と頷きかけたステラに、ジーノがにこりと笑う。
「ひと月経って、その時も貴女が帰りたいと思っていたらね」
まるで、そうはならないと確信しているかのような響きが、その声にはあった。




