分かたれた道
アレッサンドロが王都ラムバルディアへ行ってしまってから、もう半年が過ぎようとしていた。季節は冬の始まりから夏の始まりに変わっている。
この冬は雪が多く、例年なら食材の確保に難渋しているところだったけれども、そうはならなかった。ひと月に一度、食糧や衣類、そのほか細々とした日常品が山ほど積まれた馬車がラムバルディアからやってくるようになっていたからだ。
だが、定期的に訪れるその馬車に、アレッサンドロの姿はない。
半年前に別れてから、ステラは一度も彼の顔を見ていなかった。
アレッサンドロに帰ってくる意思がないことを伝えられたのは、最初の荷が届けられた時だった。
彼が発ってから半月後に教会を訪れた使者は手紙を携えており、そこには短い別れの言葉が記されていた。
いつも感情豊かに、言葉豊かに思いを語ってくれたアレッサンドロらしくない素っ気ない文面で、ステラは少しばかりの違和感を覚えたけれども、文字は確かに彼の手によるものだった。
その手紙に、コラーノ神父は眉をひそめ、レイは声を荒げて憤り、そしてステラを慰めてくれた。けれど、手紙を読んでも、その時はまだ、ステラはアレッサンドロに二度と会うことがないとは思っていなかった。まだ、別れの実感が持てなかったのだ。
雪が融ける頃には、アレッサンドロは会いに来てくれるに違いない。
彼からの別れの手紙を受け取った後も、根拠なく、ステラはそう信じていた。
しかし、雪が融けると同時にやってきたのは数人の屈強な男たちで、彼らは教会の傷んでいるところを修理し、子どもたちが寝起きするための建物を一つ建てて、次の便と共に去っていった。
――それから三回定期便はやってきたけれど、アレッサンドロの姿はまだ一度も見ることができていない。
ステラは今日届けられたばかりの荷を整理しながら、小さな吐息をこぼす。
この冬は、アレッサンドロが送ってくれる物資のお陰で暖かく過ごせたし、子どもたちにひもじい思いもさせずに済んだ。
けれど、物は満ち足りていても、アレッサンドロの温もりが傍から消えてしまってからというもの、ステラの胸の中にはポカリと大きな穴が開いているようで、どこかフワフワと落ち着かない。
毎朝目にしていた淡い金髪のくせ毛がどこにもないことに、彼女がいく場所には必ず付いてきていた弾むような声が聞かれないことに、どうしても肩が落ちてしまう。
もちろん、コラーノ神父の苦労や子どもたちの幸せのためには、大きな助けになった。
それは、解かっている。
(でも……やっぱり、アレックスにいて欲しいよ)
砂糖をたっぷり使ったお菓子を食べていても、彼がいなければ美味しさが半減してしまう気がした。フカフカの羽毛布団に包まれていても、どこか隙間風が吹いてきているように感じられる。
アレッサンドロがいなければ、嬉しいと思う気持ちが満たされない。
ステラは唇を噛み、肌触りの良い柔らかな生地でできた白いシャツを握り締める。
と、そんな彼女に気付いて、一緒に荷物の仕分けをしていたレイが顔を上げた。
「ステラ?」
訝しげな彼の呼びかけに、ステラは慌てて笑顔を取り繕う。
「何?」
レイは笑う彼女を見つめ、ムッと眉をしかめた。
「また、あいつのこと考えてたんだろ」
「え……あ……」
口ごもったステラに、レイはやれやれというふうに肩をすくめる。
「あいつ、ステラの手紙に返事もよこさねぇじゃねぇか」
苛立ちを含んだレイの台詞がステラの胸にズブリと突き刺さった。見据えてくる彼の視線から逃れるように顔を伏せる。
「……」
確かに、こうやって荷物が届くたび、ステラはアレッサンドロへの手紙を御者に委ねているけれど、彼からの返事が来たことは一度もない。もう五回送ったけれども、一度も。
何も言えずにステラがうつむいていると、レイは荒いため息を吐き出した。
「最初に迎えに来た時の馬車を見ただろ? 金ピカですげぇ奴だったよな。こうやって色々くれるんだし、あいつんち、金持ちなんだよな。どうせあっちでいい暮らししてて、もうここでのことなんかとっくに忘れてるんだよ。お前からの手紙だって読まずに捨ててるんじゃねぇの?」
突き放したようなレイの言葉に、ステラはパッと顔を上げる。
「! そんなことないよ!」
声高にそう答えてから、彼女は膝の上のシャツをそっと撫でた。
アレッサンドロは、確かにステラの手紙を読んでくれている。たとえ一度も返事はもらえていなくても、この半年間で送られてきたものを見ていたら、それは信じられた。
今回送られてきたシャツは、男の子用が五枚に女の子用が七枚。前回よりも、女の子用のものが一枚多い。それは、先月の手紙に女の子が一人増えたことを書いたからだ。
他にも、森から植え替えたアスピルからたくさん種が採れて嬉しいと書けば植物の育て方の本が送られてきたし、牝鶏を一羽狐に獲られてしまったと書けばヒヨコが五羽送られてきた。読み書きが得意な子がいると書けばその子の年に応じた読み物が入っているし、計算が得意な子がいると書けばその教本が入ってくる。
アレッサンドロはちゃんとステラの手紙を読んでくれていて、彼女が何気なく書いたことを全部拾ってくれている。
ここのことを、今でも気にかけてくれているのだ。
「きっと、忙しいんだよ。ほら、アレックスは賢い子だし、学校に通ったりしてるんじゃないのかな」
ステラは、半ば自分自身に向けて、そう言った。そしてそんな言葉を口にしながらも、やっぱりどうしても、頭の片隅では会いに来てくれたらいいのに、と思ってしまう。
アレッサンドロがいないことを寂しいと思うし、本当は、帰ってきて欲しかった。発つ前にここに帰ってきたいと言ってくれた時、嬉しいと思った。その言葉に、ホッとした。
けれど、本来あるべき場所に戻ったアレッサンドロには、彼に相応しい生活があるのだろう。
その新しい世界に馴染むために、毎日頑張っているに違いない。
(アレックスの為には、これが一番いいことなんだよね)
ステラは胸の内で独り言つ。
アレッサンドロは、とても賢い子なのだ。こんな田舎で他愛もない日常を過ごして一生を終えるのではもったいないほどに。
都で学び、偉い人になって、もっと何か大きなことを成し遂げられるはず。
「それが、アレックスの幸せなんだよ」
傍にいて欲しいけれど、傍にいないと寂しいけれど、アレッサンドロが幸せなら、それでいい。
アレッサンドロはステラが見つけた子だけれども、だからといって、彼女のものだというわけではない。ステラの我がままよりも、アレッサンドロにとって一番良いことを優先するべきなのだ。
視線を落としたステラの耳に、レイのボソリと落としたような呟きが届く。
「オレならステラの傍にいるよ」
目を上げると、真っ直ぐに見つめてくるレイの眼差しと行き合った。
「オレは、ここにいる」
重々しい口調で繰り返した彼に、ステラは笑う。
「ありがと。でも、レイだって、したいことがあったらそれをしたらいいんだよ?」
アレッサンドロと同じように、レイにも自由に生きて欲しい。
相変わらず計算は苦手なようだけれども、レイは狩りがとても得意だ。村に行っても重宝がられるに違いないし、実際、彼を引き取りたいと言っている老いた夫婦もいる。
教会にいるのは幼い子どもばかりだから、彼にとっては物足りないはずだ。村の中で同じくらいの年の子と交じり合って、いずれは、そこで生涯を共にする相手を見つけたらいい。
「ここのことは気にしないで、ね?」
ステラは微笑みながらレイを覗き込み、言った。
だが、レイの為を思っての言葉は、彼の意に沿ったものではなかったらしい。むっつりと唇を引き結んでくっきりした眉の間に紙を挟めそうなほど深い皺を刻んでいる。
「レイ?」
どうしてそんなに不機嫌そうなのだろうと首をかしげたステラを彼はしばし見つめていたけれど、やがて何かを諦めたようなため息をこぼした。
「何でもねぇよ。オレ、これ片付けてくる」
レイは素っ気ない口調でそう言って、せっかくきれいに畳んだ衣類を無造作に籠に押し込み、立ち上がった。そうして、ステラに呼び留める隙を与えず大股に部屋を出て行ってしまう。
「どうしたんだろ」
ステラはレイが出て行った戸口を見つめたまま眉をひそめた。
怒っているというわけではないと思う。そう思うけれども、不機嫌であることは確かだ。
アレッサンドロがいた頃は、レイがこういう態度を見せることはチョコチョコあったけれど。
「反抗期、かな」
ステラはポツリとこぼし、ふと、アレッサンドロも今のレイの年になったら同じようになるのだろうかと思った。
「そういうところも、見たかったな」
一抹の寂しさと共に、ステラは呟いた。
拗ねたり、笑ったり、色々なアレッサンドロを見ていたかったし、傍にいて、変化していく彼を見守っていたかった。
きっと、その望みは叶うことはないのだろう。
ステラとアレッサンドロの道は、多分、もう二度と交わることはない。
悲しいけれど、それが現実だ。この半年間で、イヤというほど解ってしまった。
「仕方ないよね」
未練を振り払うように自分にそう言い聞かせ、ステラは寂しさと諦めの混じり合った笑みをこぼした。




