第三話 原点
ここは、どこだっけか。
そんな疑問はすぐに解消された。だってこんなに自分の手が小さいのだから。
これは、夢だ。あの頃の、俺がまだ、強かったときの、記憶の夢。
俺がヒーローだった頃の、原点の夢。
「真藤くん……どうして真藤くんはそんなにがんばれるの?」
懐かしい声。その声は自分より二歳年上の、八歳の女の子にしては落ち着き過ぎていた。
夕刻。河原の下で俺たちは模造の剣を握っていた。
「そんなの、楽しいからに決まってんじゃん! 師匠は楽しくないのか?」
対して、男の子の方は年相応の元気な話し方だった。純粋で、まっすぐだった。
「たの、しい? こんなのが、楽しいの?」
暗くなった瞳で少女は己の持つ大剣を眺める。魔剣を授かるのは十歳。だから二人が持つ剣は全て模造のものだ。ジュニアの大会では例外として模造刀が使われる。真っ白のプラスチックでできたそれを、二人は異なる視線で眺めていた。
少女の声音と、様子を見て、少年はさすがに何かを察したみたいだ。
「……師匠、何かあった?」
「…………………………別に」
顔をそむける自分よりも少しだけ背の高い少女に、少年は困ったような態度をとる。やがて、ハッと何かに気が付いたように、少年はある提案をした。
「じゃあ師匠! 俺と試合しよう!」
「……なんで、そうなるの」
「なんででも! とにかくやろうよ! いっとくけど、手加減とかいらないからね!」
「……」
少女は知っていた。この男の子は一度言い出したら聞かないことを。だから気分ではなかったし、正直本当に競技が嫌になっていたが、渋々といった様子で剣を構えた。
少女は「はぁ」と短い溜息を吐いた。結果が見えていることだったから。
五分後。
河原には汗だくで寝っ転がる子供が二人いた。少女の予想は裏切られることとなったのである。
「はあはあはあ……、なっ、師匠! やっぱり面白かっただろ?」
「はっ、はっ、ははははっ! ほんとだ!」
結果は相打ちだった。魔剣所持が認められていない年齢での戦いは、一本勝負である。二人は五分の間、魔技と模造刀を撃ち合い、最終的に互いの面を打ち合った。二人の体からは大量の汗が噴き出ていた。お互いの額には、同じような場所に、同じような大きさのたんこぶができていた。
「ふふ、ねえ! 真藤くんって、もしかして天才?」
「フハハハハハハ! やっぱり師匠は気づいたか! 俺は天才なんだ! 今度初めて大会に出るんだ! 絶対優勝できるから見ててよ!」
「ははは! うん! 絶対行くよ!」
「へへ!」
二人は興奮していた。体から発せられる蒸気で頬は赤く染まっている。二人はお互いの顔は見ようとせず、夕日も消えかけている空を見ていた。
二人は手を繋ぎ、同じ空を黙ってみていた。時間がゆっくりと過ぎていくのを実感していた。
「真藤くん……、私、実はね、止めようとおもってたんだ。魔剣闘技」
「え!? なんで!?」
少女は言葉を選びながら、悩みを打ち明けた。
「……試合が終わるとね。みんなが泣いてるの。女の子も男の子も、私と戦った子はみんな。それでも勝ちたいって思ってた。だから頑張った。すごい練習したんだよ……。だから私は試合では負けなかった。でも、でもね、勝っても特別うれしいとは思えなくなったの。お父さんもお母さんも、先生も、名前も知らない大人の人たちも私に期待してる。それに応えなきゃって思ってた。気付いたら、私この競技嫌いになってたの。つまらないなぁって……思ってた」
少女は天才だった。それゆえに苦しみ、もがき、誰よりも努力してきた。
少女は無敗だった。それゆえにライバルと言える者もいなかった。
少年はそんな少女に憧れた。「師匠」なんて呼び始めたのも、彼が彼女の試合を見たからだ。しかし、誰よりも輝いているように見えた彼女は、常に孤独だった。
少女の瞳から大粒の涙が流れ落ちる。少年はそれに気づかないフリをして、少女とは反対の方向を向いた。
「俺には、師匠の気持ち、分かんない。俺はまだ大会にも出たことないから」
「……」
「でも、一つだけ師匠に言ってやれることがあるよ」
少年はおもむろに立ち上がると、星空に手を伸ばした。
「俺が、絶対師匠を楽しませてやるってこと! もう絶対、「つまらない」なんて言わせないから! 俺が、師匠のライバルになるよ!」
その後、初めての大会で少年は優勝する。
少年は何と言われようと、周囲の期待が重かろうと全てを押しのけた。楽しさだけで、どこまでも進んでいった。誰にだって負けないと、そう思っていた。
年代別になっているジュニアの大会で二人が戦うことはなかったが、二人は常にお互いのことを意識していた。少年も少女も、これから競い合う相手になる未来を少しも疑っていなかった。そう、十歳になるまでは。
魔力成長期の来ていないジュニアで見られる素質は、魔技の扱いの技術だ。だが、それは十歳を超えるとまったくの別物になる。
魔力量。絶対的な才能の指標。
しかして、少年は落ちた天才として地方大会止まりの選手になる。対して、魔力にも恵まれた少女は世界ランカーへと成った。
二人が同じ空を見ることは、あれ以来なくなっていた。
「うぁ。あっ……ぐっ、」
頭が割れるように痛い。思い出すだけでも嫌な記憶なのに、俺は毎日のようにあの夢を見る。
……………………本当に、惨めだ。
「あ……れ?」
俺はあれからどうなったんだ? 確か自主練中にぶっ倒れて……。
俺は周囲を見渡す。ここは公園ではなかった。ここはあの河川敷だった。雨粒にも当たっていない。見るとビーチ用のパラソルが突き刺さっていた。
「お、目が覚めたか、真藤君」
「え……?」
声がする方を向くと、そこには年頃の女の子よりも身長が高めな少女が傘をさして立っていた。地面に着きそうなほど長い黒髪に、理知的な瞳。
「し、しょう?」
「はは、まだその呼び方をしてくれるなんて、ね。嬉しいなっ」
綻んだ笑顔を向ける少女の名前は、奈良坂九一。
国内の大会では無敗を誇る実力者。
魔剣闘技名門、闘王学園の監督生にして世界ランカー三位の、正真正銘の天才。
そして、俺の、憧れの人だった。
「私が君の元へ来た理由はね。君と、君の親父さんに用があったんだ」
「俺と、親父に?」
俺への用事も気になるが、親父に用とは何だろう。魔剣整備だろうか。親父は確かに腕がいいことで有名らしいが、わざわざ直接訪れるほどの用とはなんだろう。
「今すぐにでも君の家へと向かおうとしたんだけどもね。久しぶりで道に迷ってしまって、それでふらついてたら特訓してる君を見かけたんだ」
ふらついてたらって……、今一体何時だと思ってるんだ? もう夜中の二時だぞ?
「師匠って……、結構抜けてますよね」
「ふふ、そんなことを言うのは君くらいだよ」
そうかなあ。立場があるから言えないだけでたぶん皆薄々気づいてると思うけど。
「まあ、ちょうどよかったよ。君に先に話を通すというのが筋だろうからね」
「?」
雨は止まず、傘を打ち続けている。時間がゆっくりになる錯覚を覚えながら、この時間がずっと続けばいいのに、と、そんなことを思っていた。
「真藤君、私は君のことをずっと見てきた」
「え……?」
「私は今でも、君のことをライバルだと思っている」
――――瞬間。
時が止まっていたようだった。俺の頭の中で何度も何度も、彼女の言葉がリピートされる。心の底でそんなことを望んでいたのか。実力も才能も歴然とした差があるのに。それでも願い続けるしかなかった。気持ちの悪い妄想の中で何度も聞いていた言葉。その言葉は甘く、染み込むように、脳みそを支配していった。
「えあ…………あ、あれ?」
両の目からは雫が零れ落ちていた。涙は止まらず、徐々に抑えていたそれは嗚咽へと変わっていった。
「その上で君に聞きたい。君は、まだ競技を続ける意思があるか?」
俺は震える肩を抑えながら、鼻水をすすりながら、黙って首肯した。その意志が変わったことは一度たりともなかったから。
「それは、なぜ?」
それは楽しいからだ。
そう即答できたなら、どれだけ良かっただろう。十歳にして現実を知った。自分は天才などではないことをすぐに理解した。それから負けて、負けて、負けて。彼女と別れて五年。以前のようにはいかないけれど、それでも工夫して、なんとかやってきた。
もう俺は、以前のように「楽しいから」だなんて軽々しく言えない。
あまりにも、苦しさを知ってしまったから。
でも、どんなに負けても、限界が見えていしまっても、俺は競技を止めようとは思わなかった。それは……
「ただの、意地なんです」
止まらぬ涙を拭こうともせず、彼女の目を見て俺は語る。
「俺は、才能なんてないけど、負けたくないんです。あなたを追い続けて、届かないと知っていても。手を伸ばさずにはいられないんです。この競技を続けることに、確固とした理由なんて、ないんです。ただ諦めきれないんです。もう、諦められないんです……惨め、ですよね」
俺は崩れそうになる表情に無理やり力を入れて苦し紛れの笑顔を作る。涙がまた流れそうになったが、無理やり止めた。自分のかっこ悪さは、誰よりも自分が分かっているから。そんな姿を、彼女に見せたくないと思ったから。もう手遅れかもしれないけれど。
彼女の表情を見ることはできなかった。きっと失望している。でも分かってもらった方がいい。俺は、この人と向かい合うには、相応しくないと。
「惨めだなんて、思わないよ」
「えっ……?」
ふわり。予備動作もなく俺に一歩近づいた彼女は、背中に手を回してきた。
「私はあなたを尊敬する。よく、がんばったね」
彼女の言葉は、心からのものだと分かった。そこに、暖かさがあったから。触れる体温が、重なる心臓の鼓動が、俺の中にあるポッカリと空いた穴を埋めていく。
「あ、あ、あ……あああああああああああああ!」
彼女の温度に、甘えてしまう。
強く強く、彼女の体を抱きしめる。外から見れば、きっと甘えん坊の子供が母親に甘えているようにしか見えなかっただろう。
「俺は……、負けたくない。もう、負けたくないんです。誰にも負けたくない。そのための、力が、欲しい」
それがたとえ、夢物語だとしても。
俺が俺であるかぎり、諦めることなんでできるはずがなかった。
「俺は…………、あなたのような、最強に、なりたい!」
彼女がまた、強く抱きしめる。
「大丈夫。君はきっと、夢を叶えられるよ」
強く彼女を抱きしめ返して、俺は叫んでいた。それはうるさい雨音に、この世界に反逆するかのようで……。
「君の決意、確かに受け取った」
俺の運命が決定的に変わった瞬間だった。
ここが俺の、新たな始まりなんだ。