私と逢辻さん。
「逢辻さん逢辻さん」
これはきっと私の口癖なのだろう。どうでもいいこと、何気ないことでもつい私は彼に声をかけてしまう。もし私が逢辻さんならばうざったく感じるだろうが、彼はそんな気配すら微塵も感じさせずに、にこりと微笑む。
「ん、なんだい?」
「これ、売り物になるんですか?」
濡れたタオルで、私の身の丈ほどもある濃緑色と黒青色がマーブル模様になっている巨石を磨いている。重さにしたら数百キロは下らないであろうもので、それは柔らかな土の上に置かれている。
今日の私の仕事は、石磨きであった。今まで変な置物や陶器などは磨いたことはあるが、流石にこんな岩は初めてである。作業自体は単調とは言え、結果が目に見えて分かるため苦ではない。しかし、これが本当に商品なるのかと問われると素直に首を縦に触れなかった。
「なるなる。このぐらいの大きさだと庭石として使えるからね。椎葉石って言ってね……」
なんでもこの岩は、九州の方で採れるものらしい。どうしてそれがこんな所にあるかというと、曽祖父が大昔に購入したものであったが家の増築をするに邪魔である、どうか引き取ってはくれないか、とのこと。この大きさのものとなれば、破棄するにもお金がかかるだろう。
相談を受けた逢辻さんは、迷うことなくそれを引き取り、愛車である軽トラック『白鴎号』を駆り、譲り受けてきたとのこと。
「へえ、そうなんですか……よし、こんなもんですかね」
磨き始めて、三十分。表面についていた泥や砂は落ち、光沢すら感じられる。きれいなタオルでこすっても、汚れの付着しない状態だ。我ながら、完璧だと思う。
「うん、いいんじゃないかな。あとはブルーシートで覆っておこうか」
「そうすると見えなくなっちゃって、買い手がつかないのでは?」
「大丈夫大丈夫。店隣にあるんだ、いやでも目について、お客さんから聞いてくるさ。これは何だ、とね」
「聞いてこなかったら?」
「そのときは、いい庭石があるんですけどいかがですか、と問えばいいんだよ」
へらへらと笑いながら、物置から持ってきたシートで丁寧に覆う。シートが風で飛ばないよう、杭で地面に固定、加え、ビニールロープで岩ごと縛る。
「本当に売れるんですかねえ」
「売れる売れる。一週間位したらなくなってるよ」
自信たっぷりに、にんまりとする。いくらなんでもそりゃないだろうと思うが、口にはせず適当に相槌を打っておく。
そもそも逢辻屋に客が来るのは、二日に一度あるかないかだ。そして、その中にこんな岩を買いたがるような変わり者などいるはずがない。たとえ、売れるとしても数週間、あるいは数ヵ月後を見積もっておくのが妥当だ。と、私は思っていた。
しかし、である。
そのわずか四日後、本当にその岩は売れた。しかも、百五十万円という、私にとって目のくらむようなとんでもない金額でである。
「……」
逢辻さんは未来でも見えるのだろうかと、私はそんなバカなことを考えながら、ブルーシートをたたむのだった。
逢辻さんは子供っぽいところがある。
たとえば味覚。カレーだったりハンバーグだったりミートソースだったり、子供が好きそうなものを作るとたいそう喜ぶ。
たとえば服装。逢辻さんの服装は、基本的にワンパターンで紺色の作務衣だ。朝でも晩でも、寒い日でも暑い日でもそうだ。こちらが何か言って、タンスから適当な服を出してやらなければずっと同じものを着続ける。お気に入りらしい。
たとえば趣味。私と違って、逢辻さんは昆虫が好きらしい。特にカブトムシとクワガタムシが好きらしく、先日、近隣の雑木林で昆虫採集を手伝うことになった。採集方法は極めてシンプル。餌による罠作戦だ。
罠は、バナナとドライイースト、砂糖、焼酎をごちゃ混ぜにして、腐らせたもの。保存用のビニール袋の中で黒く発酵し、ガスを発生させ、パンパンとなったそれはもう果物とは言えないおぞましい代物だった。そして、それを雑木林にある樹皮の荒い広葉樹に塗りたくり、数時間放置。日の落ちた頃に向かうと、もくろみ通り、大量の昆虫が群がっていた。目的であるカブトムシとクワガタムシは、三十二匹と二十四匹を捕獲した。
逢辻さんはそれらを全て虫かごに入れ、飼育を始めた。私はあそこまで大量に並んだ虫かごを見たのは初めてであった。まさに、虫かごの山だった。
彼曰く、これらは皆商品であるらしい。
彼曰く、小学生から、親子連れ。中にはマニアが買い取ってくれるらしい。
ただ、今はそんな事関係ない。というか、どうでもいい。肝心なことはことは二つ。
私が虫を苦手としていることと、この虫たちが商品であることだ。私の逢辻屋での仕事は、商品の品質維持である。当然それは生物にも適用される。
「あ、ああああああああ」
顔を思い切り逸らし、厚手の手袋を装備、目を細め、喉から悲鳴を漏らしながら、虫かごからカブトムシを取り出す。何でも甲虫というのは餌と湿度管理と温度管理だけではなく、ある程度身体のブラッシングが必要だという。
なんだそれは、貴様ら犬か猫か。毛でも生えているのかと叫びたくなった。
ブラッシングは、体表に付着したダニや汚れの除去に必要らしい。今のところダニを目撃したことがないのは、不幸中の幸いか。
左手にカブトムシ、右手にブラッシング用の痛んだ歯ブラシ。なんてシュールな見た目だと我ながら思う。
「ほら、がんばれ」
「くう、りょうかいです……ひい」
隣には慣れた手つきで、ひょいひょいとブラッシングする逢辻さん。逢辻さんも手袋を装備しているが、これは私のような直接の接触を避けるためではなく、指紋をつけないようにするためであるそうだ。なんて気のかけようだ。
「逢辻さん逢辻さん」
「どうしたの?」
「虫を取るときに使った罠、というかあの腐ったバナナのアレ、ああいうのどこで知るんですか?」
「ああ、アレね。昔教わったんだよ、子供の頃にね」
くそう、いったいどこのどいつだ、そんなことを教えたバカは。お前が教えなければ、こうまで大量の虫の世話なんてしなくて済んだんだぞ、と内心で悲鳴を上げる。
手の中で、六本の脚がワサワサと動き、血の気が引く。
「これ、本当に売れんですよね?」
売れなければ、ずっと面倒を見なければならなくなる。それは、辛い。辛すぎる。
「大丈夫だよ。売れる売れる」
逢辻さんは相変わらずニコニコしながら、ブラッシングしている。お互い、ノルマは半分半分だが、進行速度は逢辻さんの方が三倍近く速い。
早く終えるために、頑張ろう、と意気込む。
握っていた一匹を戻し、他の虫かごから拾い上げる。ノコギリクワガタである。
ガブリ。
「…………いったああああああああ!」
「あらら」
それから一週間後、この虫たちは全て買い手がついた。逢辻さんの言った通り、小学生はもちろんのこと、意外にも親子連れが多いのが印象的であった。あと、大人買いしたマニアが二名。
余談かもしれないが、虫だけで、逢辻屋の平均的な月間売上金額の倍に達した。本当に、わけのわからない世界だと思った。
「虫も、侮れないな……」
だからといって、好きになれないが。無くなった虫かごスペースを眺めながら、私は滅多に買わない高級なアイスを一口含んだ。濃厚な甘さが口腔に広まる。
いつの間にか飾られていた風鈴がチリンと涼しげになり、それに呼応するかのように、猛暑を告げる天気予報士の声がラジオから聞こえてきた