11話 姉妹だからこそ
雨のような水音が聞こえてくる。
その音は暖光の漏れるドアの隙間から、浴室から聞こえるシャワーの気配だ。
イナとヴィヴィが宿泊しているホテルの一室、脱衣室の簡素な壁を一枚隔てて、ヴィヴィが湯を浴びている。
タイル張りの浴室には白い湯気が立ち込めていて、熱めのお湯にモヤがかった空間は視界が悪い。
当然ながら、ヴィヴィは一糸まとわぬ姿だ。艶のある滑らかな少女の肌は水を弾いて滑らせていく。
曲線美を大きく描く胸元には両手が添えられていて……その手は、小刻みに震えている。
「う、くっ……ふぐうっ……! ううっ……」
口から漏れだす嗚咽を抑えられずに、ヴィヴィは片手を唇の蓋にした。
それは感情の奔流だ。死んだと思っていた大好きな姉が五体満足で現れて、その姉が鮮血と死臭をたっぷりと漂わせ、異形の害種へと姿を変えていた。
まだ15歳のヴィヴィは、その感情をどう処理すればいいかがわからない。いや、大人だろうとこの状況に冷静でいられる者などいないだろう。
対峙の最中にも泣いてしまったのに、また涙が溢れてくる、そんな自分が悔しくてたまらない。
「切り替えの早さだけは……自信あるんだけどなぁ……っ」
カキュと摩擦音を鳴らしてノズルが全開にされ、水音は余計に激しさを増した。
音と流水で、止まらない慟哭を覆い隠そうとするかのように。
「…………」
浴室の外、イナはベッドの上で膝を組んでいる。体育座りの格好で、腕で膝を抱えて唸っている。
少女にも見える中性的な外見だ。そんな姿勢で小さく縮こまれば、すっかり年齢よりも幼く見えてしまう。
いや、むしろ普段のイナが無理をしている。
老騎士レイモンが知る本来のイナ王子は心優しく少し臆病。
一変した状況への困惑に、張っていた気が溶けてしまえばこの様子。ベッドの上にこじんまりと佇む、そんな今の姿こそが本来なのかもしれない。
「ヴィヴィ……」
少女の名を呟く。
もちろん、イナの脳裏を占めているのも彼女の姉ウルスラの襲撃だ。
害種として現れたこと自体には、ヴィヴィほどの驚きを抱いていない。自分が現にこうして害種へと変貌してしまったのだから、他にそういう人間がいても不思議ではない。
それが仲間のヴィヴィの姉だというのは、最低に皮肉な話なのだが。
(どうにか仲間に引き入れられないか?)
最初に考えたのはそれだ。
ヴィヴィのことを考えても、戦力としても、それが最善の形ではあるだろう。
だが、直接刃を交えたからこそわかることもある。
(ダメだ。ウルスラさんは害種に心を蝕まれすぎている。人を喰うことも覚えてしまっていて、村のみんなと行動を共にさせるのはリスキーだ)
何より、鍔迫り合いの間近で見せつけられたあの眼光。
妹への燃えるような狂愛と、その他全てへの強烈な害意を孕んだあの目を見れば、共存が望めない段階へと彼女が踏み入れてしまっていることは明らかだった。
ならどうする?
イナは膝で組んだ手をぱっと離し、重心が傾くままに背中からベッドに身を預けた。
黒髪が空気抵抗で放射状に広がり、その中心にイナの悩み顔がある。
(倒す、のか? ヴィヴィのお姉さんを?)
苦悩に頭を抱えたくなる。そんなことはしたくない。
家族を失う辛さをイナは十分に知っていて、ヴィヴィに二度それを味わわせるのはあまりにも酷だ。
さらにミクロな、ごくごく私的な感情の話をするならば、自分が手を下すことでヴィヴィに嫌われたくもない。
気になる女の子だからという以前に、イナは人から嫌われることに酷く臆病になっているのだ。
(……だけど、明日になればまた来るって言ってた。ヴィヴィを連れて行かせるわけにはいかない。だったら、やるしか……)
首を横に向ければ壁際に立て掛けた剣が見える。
今日、剣を買っておいたのは幸運だった。これがあったからウルスラの襲撃を捌くことができたのだ。
もちろん斬られたからと簡単に死ぬ体でもないのだが、なます切りにされてしまえばヴィヴィを守れなかっただろう。
それに、害種といってもイナは不死身ではない。
並外れた耐久力、回復力を有する害種も、それを超過するダメージを受ければそこで終わり。だからこそMDで討伐できるわけで、そしてそれは人型のイナも同様だ。
だとして、力も剣技もイナより優っていたウルスラは戦いたくない相手だ。
かと言って、MDを呼び出せば街中で目立って騒ぎになる。
そんなことになれば領主との謁見は間違いなく破談だし、下手をすれば騒乱の意図ありと見做されて村人たちまでを巻き込んでウィルクスの軍と戦闘になっていた可能性まである。
そう、悩ましいこととは重なるもので、明日は領主との謁見も控えているのだとイナは改めて認識する。
領主との謁見に行く前にウルスラが襲撃してくれば台無しだ。いや、それよりも悪いのは謁見中を狙ってウルスラが乱入してくる可能性。そうなれば事は完全にめちゃくちゃだ。
もちろん領主の館には警備があるだろうが、何せ害種なのだ。どんな無茶をしてくるかわからない。
「ああもう、ワケがわからないや……」
そう呟いて寝返りを打ち、するとちょうどパタンとドアが閉じられる音が聞こえた。ヴィヴィが浴室から出てきたのだ。
湯上りのヴィヴィはパイル地の簡素な上下、シャツとハーフパンツ姿。
寝室の柔らかな照明の下で目にする素肌の艶に、昨夜のイナはクラクラとしたものだが、今はそんな浮ついた気持ちにはとてもなれない。
「ヴィヴィ、その、大丈夫?」
「なにが? 長くお風呂入っちゃってごめんね。次どうぞ、イナくん!」
そう言い、いつも通りを装って笑みを作るヴィヴィ。
けれど浴室での泣き声はどうしたって漏れ聞こえてきていて、泣き腫らして真っ赤になった目はもっと隠しようがない。
髪を送風機で乾かしもせずに、自分のベッドに腰掛けたヴィヴィの姿は憔悴して見える。
何より、人狼少女の感情は獣の部位にわかりやすすぎるほどに現れる。頭の上の狼耳は折れ、腰の尻尾は力なく垂れているのだ。
そんな様子がいたたまれなくて、イナは少しでも慰める方法はないかと手を伸ばし……
「ッ!!」
「あっ……」
ばちんと、ヴィヴィはイナの手を払いのけた。
悪意あってのことではない。とっさの反射だ。
だからこそヴィヴィの瞳は、彼女が抱いている感情を、知ってしまった可能性を、恐れを、あまりにも雄弁にイナへと伝えた。
(そうだ、俺もウルスラさんと同じ害種。ヴィヴィから見て、お姉さんと同じように人を食べるかもしれない存在で……)
「ご、ごめん……! ごめんなさい、イナくん……」
「俺こそ、ごめん。何も考えずに手を伸ばして」
イナはうなだれるように頭を下げて謝った。
その様子は悲しげで、自分の反応が少年を傷つけてしまったことを知り、ヴィヴィもまた同じように視線を落とす。
いつもならすぐに謝り、フォローを入れ、明るく振舞っていただろう。けれど、今はヴィヴィにも精神的な余裕がない。
「イナくんは人を食べない。あたしはそう信じてるよ。だって食べるつもりなら、私を助けてくれた夜にそうすれば一番簡単だったんだから」
「……うん」
「でもね、今日だけは。今日だけは……ごめん。まだ、あたし、頭がごちゃごちゃで……」
事実、イナもそうしようとさえ思えばきっと人を喰える。
ウルスラがそうしてみせたように体の輪郭を黒の流体へと変じさせ、触手めいて伸ばして人体を消化してしまえるはず。
イナがそうしないのは人としてありたいと、そして害種を討伐したいと強く願っているからに過ぎず、ひどくあやふやな存在だ。
(それでも、俺は人間の側に立っていたい)
うつむいて悩むイナへ、ヴィヴィは目を伏せたままにゆっくりと語る。
「お姉ちゃんは、ぶっ飛んだとこがあるけど、根っこでは優しい人だったよ。困ってる人がいれば助けてあげられる人。だけど、今日のお姉ちゃんの姿は……」
「…………」
イナは無言のままにそれを聞き、そして顔を上げる。
なにが最善かはわからない。それでも、悩んでの結論を苦渋のままに口にしようとする。
「……明日、ウルスラさんが現れたなら、俺は……」
「……イナくん、あたしはお姉ちゃんを倒すよ」
「ヴィヴィ」
イナはウルスラを倒すと言おうとしていた。だがその言葉を遮って、ヴィヴィは同じことを先に口にする。
家族としての愛情と責任と、それを踏まえて、少女は痛々しい決断に唇を噛んでいる。
「きっと、一番苦しんでるのはお姉ちゃんだと思う。妹のあたしが止めてあげなくちゃいけない。終わらせてあげなくちゃ」
「……無理、してない?」
「してる。してるよ。勝てるかわからないし、もし勝ててもトドメをさせるかわからない。それでも、これはアタシの役目だから」
悲壮な決意を語ったヴィヴィに、イナは相槌を打つことしかできなかった。
二人は明日に備えてそれぞれ眠りに就き、目覚め、身支度を整え……
翌朝、日が往来を明るく照らす午前9時。
イナとヴィヴィは、ウィルクスで一番大きな屋敷の前に肩を並べている。
「イナ・フロタユス。ヴィヴィ・トーシュ。両名、相違はないか?」
「違いありません」
「はいっ」
「よろしい。ルシアン様がお会いになられるが、くれぐれも粗相のないように」
門番たちから探るような目を向けられながら、二人は領主一族、モンタニエ家の邸宅へと足を踏み入れた。
「こちらへ」と招かれるままに長い廊下を粛々と歩き、やがて辿り着いたのは重厚な扉の前。
鬼が出るか蛇が出るか。
イナはぎゅっと、わずかに拳へと力を込め……そして重々しく、黒檀の扉が開かれる。