10話 偏愛は黒に染まり
ウルスラ・トーシュの朝は早い。
まだ日も昇り切らない午前四時、艶めいた質感の銀髪を背で束ねながらベッドの温もりと決別する。
父は人間、母は人狼。種の特徴として母は夜型で、ウルスラが起きるのとほぼ入れ違いに眠りに就く。
自分はハーフだからか、母とは違い人間の生活リズムが体に馴染む。なので、母と家事を分担している。
眠気に欠伸をする母と「おはよう」「おやすみ」と言い交わし、エプロン姿のウルスラは毎朝の日課として具沢山のスープを煮込み始める。
煮込みはたっぷり時間を掛けて一時間以上。そのうちにまだ眠そうな目で起きてくる木こりの父にパン、サラダ、スープの朝食を供し、調理器具の片付けを終え、ウルスラは満を辞して妹の寝室へと向かう。
窓の外では小鳥が鳴き、薄暗い部屋を朝日が照らし始める午前六時、ウルスラは妹のベッドへと潜り込む。
「ヴィヴィ……ああ、今日も可愛い寝顔……私の、私だけのヴィヴィ。なんて愛しい……」
ウルスラ・トーシュはヴィヴィの姉であり、そして極度の妹偏愛者だ。
ベッドへと滑り込んでからヴィヴィに起こしてと頼まれている七時まで、ゆっくり一時間。
寝顔を眺め、髪を指通し、寝汗を薄布で拭い、頬ずりをして、時には自分よりも豊かな胸に顔を埋め、愛してやまない妹を思いのままに堪能する。寝付きの良いヴィヴィは抱きしめられたぐらいでは目を覚まさない。
そして時計が七時を指す瞬間、ウルスラはなみなみと愛情を湛えた笑顔でヴィヴィの肩を揺り起こすのだ。
「おはよう、可愛いヴィヴィ」
「えへへ。おはよう、お姉ちゃん!」
そんな家族の、トーシュ姉妹の日常は、突如として闇に飲まれた。
辺鄙な森の小村は害種の群れに飲み込まれ、村人たちが食われ、父と母も沈み、絶望に立てずにいるヴィヴィをウルスラは抱き上げ、馬の背へとその身を乗せた。
「生きて、あなただけでも」
「え……お姉ちゃん!? 待って! お姉ちゃんも一緒に!」
ヴィヴィの懇願を聞くことなく、ウルスラは馬の尻を全力で蹴って走らせた。
そして自分は囮として残り、ヴィヴィが引き返そうとする間もなく害種に包まれ……思い出すだけでも胸が張り裂けそうになる、大切な人との別れの記憶。
それが、何故。
「お姉ちゃん!! 生きてたの!?」
ヴィヴィが叫ぶように問いかけたのと同時、ウルスラが突き伸ばした白刀をイナの剣が受けた。
金属がぶつかり光る剣火、二人は漆黒の瞳に視線を交わす。
「どうして、薄汚い雄がヴィヴィと肩を並べて歩いているのかしらぁ?」
「あなたがヴィヴィのお姉さん、なのか……」
「ウルスラよ。覚える必要はないけれど」
イナの背は170センチに満たず。ウルスラの視線はそれよりわずかに高い。
膂力もウルスラが優っている。上から圧し潰す格好での鍔迫り合いに、イナは身を沈めつつ右に逃れた。
「待ってください、俺はヴィヴィの敵じゃない!」
「ヴィヴィ、可愛いでしょう? 昔から言い寄ろうとする虫が多かったの。だから私が駆除していたのよ。一匹一匹丁寧にねぇ」
「くっ!」
ウルスラは凍るような美形だ。ヴィヴィの目鼻立ちの愛らしさと似つつも、より怜悧な方向へと向いていて、目を細めれば美貌で人を殺せそうなほどに。
そんなウルスラへと求愛する者は絶えなかったが、しかし彼女は異性にまるで興味を持たず、四歳離れた妹一人だけに身から溢れる愛情の全てを注いでいた。
自分の取り巻きの男たちを密偵のように利用し、ヴィヴィに好意を持つ男がいれば自分へと密告させた。
そして好意を聞けば自ら出向き、ヴィヴィに二度と色目を使わないと誓うまで手ずから殴打、殴打、殴打。
真っ当な恋心なら素手で叩きのめし、下心を語る者がいれば角材を振るって半殺し。そんな烈女の側面を持つ女性だ。
その凶気が今、イナへと全力で向けられている!
「うっ、おわあっ!?」
「男、なんて醜い……ヴィヴィの傍らにいるだけで大罪ねぇ」
「や、やめてお姉ちゃん、イナくんは敵じゃないよ! 私を助けてくれた人なの!」
「大丈夫、任せてね。あなたを汚そうとする全ては、摘んであげるからぁ……!」
激烈な打ち込み、受けて再びの鍔迫り合いへ。
何度やっても腕力の差は覆らない。イナは剣を斜めに、もう一度右へ潜り抜けようと試みる。が、読まれていた。
力の向きを変えた瞬間、キュラと刀の切っ先が6の字を描き、イナの姿勢は崩されている。
そこへウルスラは強く踏み込んだ。ブーツの底は路面にヒビを走らせ、白刀を寝かせて突き出す平突き!
「死になさい」
「っ、避け……っ!」
その一刺しは人外の疾さ、肋骨を通して心臓を狙う必殺の軌道だ。
しかし人外はイナもまた同じ、寸前の見切りで身を右に逸らしている。辛うじて躱すことに成功し、刃はイナの片腕だけを撫でて裂いた。
前腕部の肉にパクリと切り筋が開き、そこからは血が……真っ黒な害種の血が流れ出す。
「ほうら、皮を破けば溢れるのはドス黒い汁。ヴィヴィに向ける欲望の色かしら?」
「……言いたくはないけど、黒はあなたも同じです。ヴィヴィのお姉さん」
「あら……? あらあら」
躱した瞬間、イナはカウンター気味にウルスラの腰を流し斬っていた。
深くはない、ごく浅い一撃だ。しかし確実に皮膚と肉の表層を割っていて、そこからはイナと同じく黒が溢れ、そして傷口はすぐに修復された。
その光景を目に、ヴィヴィは口の端から押し殺したような声を漏らした。
「お姉ちゃん……その体は……」
「うふふ、びっくりさせちゃったかしら?」
「害種、なんですね。俺もそうだけど」
「でも大丈夫よぉ、大切な妹に危害を加えたりは決してしない。愛しているわ、愛してる。愛しているの、ヴィヴィ。愛してる……!」
両腕で身を掻き抱き、ウルスラは恍惚と愛情を連呼する。
彼女が抱く妹への愛は尋常ではない。身をビクビクと痙攣させ、白目を剥かんばかりの表情。口元からは涎の筋さえ垂らしている。
そしてギロリと、姉妹の間に割って入る全てを駆逐しようとする排他の目がイナを身竦め、イナは思わず一歩たじろいでしまう。
「イナ・フロタユス。生き残った王子。あなたを殺したいのは山々だけれど、害種なら時間が掛かるわねぇ」
怨讐を多分に含めた声音でイナを牽制し、そしてウルスラはヴィヴィへと手を伸ばす。
「ねえヴィヴィ。お姉ちゃんはね、あなたを迎えに来たのよ」
「迎え、に……?」
「そう。害種によって、人と魔の世界はじきに終わるわ。その時そっちにいれば、ヴィヴィ、あなたまでが巻き込まれてしまう。でもね……」
言葉を一瞬切り、タメを作ってから満面の笑みを浮かべる。
「私と一緒に、害種側に来れば大丈夫。お姉ちゃんがヴィヴィを全力で守るわ。もちろん害種に汚させもしない。ずっとずっと守ってあげる。いいえ、守らせて、ヴィヴィ……!」
「お姉ちゃん……」
ヴィヴィは俯く。伸ばされた指先に目を向けて、微かに震えながら目を閉じる。
長い睫毛を涙が伝っている。それは複雑な涙だ。また姉と会えた嬉しさと、状況への混乱と、恐怖の記憶のフラッシュバックと。
だが、ヴィヴィが涙を流す一番の理由は別にある。
不気味なほどに人の来ない路地、血のように赤い夕焼けを背に受けるウルスラへ、ヴィヴィはゆっくりと口を開く。
「行けない。私、行けないよ、お姉ちゃん」
「……どうして? ヴィヴィ」
「私ね、知ってたよ。お姉ちゃんが毎朝私に抱きついたりしてたことも、私の周りから男の子を遠ざけてたことも。お姉ちゃんが変な人だって知ってた」
「……あら」
「でもね、そんな変なとこも含めて、お姉ちゃんのことが大好きだった。大、大、大好きだったよ。でもね」
俯いていたヴィヴィは、その顔をウルスラへと向けて上げた。
よく似た眼差しがぶつかり合い、ヴィヴィの濡れた瞳は深い悲しみに沈んでいる。そして息を飲み、意を決したように声を絞った。
「どうして周りの通りに、人が全然いないの?」
「……ヴィヴィ」
「人狼だもん。匂いでわかっちゃうよ、お姉ちゃん……」
「……そうね、わかるよね……」
「お姉ちゃんの体から、たくさんの人の血の匂いがするの。みんな、みんな、お姉ちゃんが食べちゃったんだって……!!」
イナは思わず周りを見回した。不自然なのだ。
路地の陰には買い物袋が落ちている。誰かが被っていた帽子が落ちている。半刻前までそこで遊んでいた、子供の鞠も転がっている。それら全ての姿が消えているのは……!
「ごめんね、ヴィヴィ。どうしてもお腹が空くの……」
ウルスラの左腕が漆黒の触手へと姿を変えた。
ぐにゅりと波打つスライム状の流体、その中には小さく溶けた人骨の欠片のようなものも見えている。
ヴィヴィが察した通り、ウィルクスの一区画に住まう人々は害種と化したウルスラによって静かに喰らわれたのだ。
そこから攻撃を仕掛けてくるわけではなく、ただ見せただけ。ウルスラはすぐに左腕を人の形状へと戻した。
「でも信じて、ヴィヴィ。さっきの言葉に嘘はないの。あなただけは守りたい、それは私の心からの願い」
「お姉ちゃんは嘘を言ってない。それもわかるよ。でも、私は一緒に行けない。村のみんなが待ってるから」
ヴィヴィは涙を拭い、声は潤ませたままにはっきりと拒否を示した。
姉のことは害種になっても愛している。けれど、行き場をなくしたヴィヴィを受け入れてくれた村の人々も彼女にとっての大切な人たちなのだ。
だとすれば、イナの役割は一つ。相手が姉だろうとヴィヴィを守るだけ。
(町中で騒ぎを大きくしたくはなかったけど、相手は害種。MDを呼び出す選択肢も考えるべきだ)
臨戦に身構えるイナ。
しかし、予想に反してウルスラは刀を鞘に納めた。
目には狂乱めいた光を宿しながら、それでもヴィヴィには優しげな姉の瞳を向け続けている。
「ねえ、ヴィヴィ。あなたの意思でお姉ちゃんと来て欲しいの。こっちに来るなら、私はあなたが大切に思っている村の人々に手を出さないわ」
「お姉ちゃん、村のみんなを人質に取るつもり?」
「……手段は選べない。あなたを滅びから守るためなら、私は嫌われたとしても……構わない」
そしてウルスラは身を翻す。
「明日、迎えに来るわ。それまでに気持ちを固めておいてね……愛してる、ヴィヴィ」
そしてゆっくりと、沈む夕陽と共に彼女は姿を消した。
残された二人は、声も出せずにただ立ち尽くしている。やがてヴィヴィはがっくりと膝を突き、瞳を絶望に昏く染めて呟いた。
「こんなのって、ないよ」
「ヴィヴィ……」
イナの表情もまた暗い。どう声をかければいいのかわからない。
自分もウルスラと同じ害種だからこそ、余計に。
わからないので情を切り離し、今の接敵に得たわずかな情報へとただ思考を巡らせる。
(害種側。そんな言い回しをウルスラさんはしていた。だとして、害種側にも共有されている意思があるのか……?)
やがて、路地へと近付いてくる人々の気配を感じ取る。
ウルスラの捕食によって、この通りでは多くの人が行方を眩ましてしまっているわけだ。場に留まって事態への関連を疑われればあまりに厄介。
「行こう、ここにいたらまずい」
「…………うん」
うなだれるヴィヴィの手を引き、イナは足早にその場を立ち去った。