母校
結婚、それは目の前のもので彼の相手は私で手の届くもの。
仕事も、恋愛もうまくいっている。
そのはずだった。
愛されているはずだった。
運が悪かったでは済まない。
私は、彼の部屋のガラステーブルに用意されていた料理を両手でなぎ払っていた。
ガシャガシャ!と甲高い音が響く。
彼は食事の手を休めずにいる。
「あの子と?」
震える声を、聞き取ると彼はようやく私を見た。
「そうだ。専務の娘だよ。佳奈も知っているだろう」
「当たり前でしょう!同じ課よ・・・皆、あなたと私の事、知っているのに」
「もう決めたんだよ」
「・・・」
なんて呆気ないんだろうか。
彼氏からの結婚宣言。
その相手は、自分だと思っていた。
二日後、彼と専務の娘の婚約の噂は違うフロアーまで響き渡った。
同僚の、哀れみの目が痛い。
彼氏に、別の女と天秤に掛けられるよりも痛かった。
欲しかったのは、哀れみじゃない。
でも、届くのは興味を含む慰めと哀れみの視線だけ。
私は、ここで何を築いてきたのか。
一週間後、退職願を提出した。
高知行きの飛行機。こんな気持ちで乗るのは初めてだ。私の、気持ちの重さで今にも落ちそうだ。でも、青い空と、キラキラ光る青い海面を見ていると不思議と、気持ちが少しだけ軽くなる。
大丈夫だ帰ったら、きっとこの痛みも疲れも高知の風が日の光が消してくれる。
卒業した中学校をフェンス越しに歩く。
確か1年生の時、校舎の建替えで先生からもらったチョークで彼氏と友達と一緒に、教室の前の廊下にたくさんの言葉を書いた。
その時は、ただただ落書きが楽しくて夢中だった。
下校の時、取壊される木造三階建ての校舎を一人のお婆さんが見上げていた。
何気に顔を見ると、深いしわの刻まれた目が潤んでいる。
校舎を見上げるお婆さんは今、きっと当時に思いを馳せているのだ。
この校舎もまだ若く、その時のお婆さんも若い少女だったのだ。
建替えられた、あの校舎も今は少し古びている。私のこの思い出も、古びて行くはずだ。
私も少女ではないのだから。
当時の賑やかさには及ばないが、少年達が父兄に見守られながら野球をしている。
ふと、表情が緩む。
通り過ぎると思った人影が、私の横に並び振りかえると
「佳奈やないか?」
日に焼けた肌の男性が私に言う
「大阪やと聞いたが、帰省かや?」
「直也?」
私は、見つめていた顔をそらし軽く頭を振った。
「違う。向こう引き払って帰ってきた・・・あんた、まだ一人?」
そらした顔を、私は勇気一杯に彼に向けた。
私の思い出よりも大人びた彼は、少しびっくりし
「お前を、待ちよったがよ。そいたら、もう三十代やぞ」
前と同じ少し、はにかんだ顔を見せる。
「同じよ、あんたも三十代・・・私もや」
二人そろって、フェンス越しの野球を見る。
隣の彼から、懐かしい土の香りがする。
目頭が熱くなる。彼の厚くて固い手が私の手を少し遠慮がちに握る。たまらず下を向いた私は涙がこぼれた。
少年野球の、甲高い声が私たちを少し若くさせた。
「みんな元気?」
「おお、元気や。みんな変わらんぞ。佳奈が、帰ってきた言うたらビックリやぞ?」
「うん」
涙を手のひらで、拭った。直也の、握る手が少し強くなった。
まだ少し、風の冷たい中私は少年達の元気な声と優しい土の香りに包まれた。
完
☆過去、作品です。
今回のUPに当たり、加筆修正しております。
大きな修正はあえて加えておりません。