アイシングスプレー
その男――名を、武清という――は、戦いに飢えていた。
我とまともに戦える猛者は、もうこの世には存在しないのか。
自分より遙かに腕が劣る男と剣を交え、どうして心が満たされようか。
強い男と戦いたい。
そう、あの『万代仙』のような……。
彼はその人生に於いて、一度だけ真剣勝負で大敗を喫した。
もう五年も前になるだろうか。
自らを『仙人』と名乗る、既に老齢に達しているその酔った小男に勝負を挑まれたとき、軽く懲らしめてやろうと慢心していた。
夕焼けの川原、武清は真剣を抜いた。
その姿を見せるだけで、小男は怖がって逃げるか、手をついて命乞いをするだろう。
どちらにせよ、峰打ちぐらいはお見舞いしてやろうか……。
しかしその余裕は、『万代仙』と名乗るその男の姿が四っつに分裂したとき、一気に驚愕、そして恐怖へと変化した。
小男の繰り出す十種もの仙術を、武清は一つも打ち破ることも、正体を見破ることさえ出来ずに……気がつけば、川原に大の字に倒れていた。
全身がビクビクと痙攣し、目からは涙が溢れ……無様な格好だった。
そんな彼に、『万代仙』はとどめを刺すことをせず……ただ一言、
「小僧、もっと強くなれば、また遊んでやろう」
とだけ言い残し、その姿をかき消した。
生涯忘れぬ、屈辱。
以降、武清は前にも増して、剣の修行を行った。
いくつもの道場に単身乗り込み、叩きつぶしてきた。
『鬼神』と恐れられるようになったが、それと同時に、心から戦いに酔いしれる事ができなくなった。
強くなりすぎてしまったのだ。
もはや、自分とまともに戦える者は存在しないのか……。
そんなとき、興味深い噂を耳にした。
「阿東藩には、仙人が住んでいる――」
そして彼は、遠路はるばる、その仙人が開いたという『前田妙薬店』にやってきたのだ。
「ごめんっ!」
と大きな声を上げて、暖簾をくぐる。
「いらっしゃいませっ」
と、明るく、それでいて少し色気を含んだ女子の声に、若干戸惑う。
てっきり、それこそ仙人のような老人が出てくると思い込んでいた。
「お客様、ご来店は初めてですか?」
「あ、ああ……ここでは仙人が薬を調合していると聞いたのだが、それは誠だろうか」
と、彼はいきなり核心を突く質問をした。
「あら、お客様もそのような噂を耳にされているんですね……残念ながら、本当に仙人のお薬というものではありませんが……それでも、珍しいものはいろいろ取りそろえておりますわ」
と、その手の質問に慣れているような応えが返ってきた。
(うむ……いや、仙人の中には『変化』の秘術が使える者もいると聞く……まさかこの娘の正体は……いや、それはさすがに考えすぎか)
念のため、彼は確認することにした。
「……この店の主人が仙人というのは、本当か?」
「……さあ、どうでしょう? 私には、この店の主は普通の男子に見えますが……不思議とそのような噂が立っているようですね」
と、彼女は笑顔を崩さない。
(ぬっ……この女、こう見えて油断が出来ぬ……)
と、自らの鋭い質問に何ら態度を変えない売り子に、警戒心を抱いた。
「では、主人は今、どこにおられるか?」
「さあ……雲のようなお方ですから、私でも今、どこで何をしていらっしゃるか、存じ上げません」
まるで暖簾に腕押し。主人の居所を聞くことは難しそうだ。
「それよりお客様、なにかお薬を買いにこられたのではありませんか?」
「あ……ああ、そうだった。ここは薬屋だったな。そうだな……『仙界の薬』を分けてもらえぬか?」
「仙界の? そう申されましても、症状をお伺いしないと……」
「うむ、それもそうだな……では、なにか拙者が驚くような効果のある薬はあるか?」
「……驚くような、ですか?」
「そうだ。見たことも無いような薬、だ」
自分でも、意地の悪い質問だとは思ったが……本当に仙界の薬が存在するのかどうか、見極めたかった。
「……でしたら……そうですね、これなんかいいかもしれませんわね……」
と、その売り子は、竹筒ぐらいの大きさの奇妙な物を棚から取った。
「これは、『あいしんぐすぷれー』と言いまして、お客様のように長旅をされた方の足に吹き付けますと、とたんに気持ちよく、楽になれる変わったお薬ですよ」
と、奇妙な事を口にした。
今彼が身につけているのは、まさしく旅装束。
宿にも寄らずにこの店を訪れたのだが、彼女にはそれが見抜かれていた。
その彼女が言った『吹き付ける』という意味が分からなかったが……とにかく、言われるがまま、彼は腰掛けに座った。
そして袴をわずかに持ち上げ、ふくらはぎを見せた。
売り子が筒を近づけて、人差し指で上部を押さえると……。
プシュー、という音と共に、ふくらはぎにひんやりとした感覚を覚え、武清は思わず
「うおおぉっ!」
と驚きの声を上げ、勢いよく立ち上がってしまった。
「……お客様、どんな感じがしましたか?」
「……いや、急に足が冷たくなったので驚いた……」
「気持ちよくありませんか?」
「……なるほど、奇妙な感覚ではあるが……ふむ、確かにこれは具合がいい」
長時間の歩行でほてっていた足が、適度に冷やされて心地良い。
彼は売り子からその『あいしんぐすぷれー』を借りて、自分でも筒の上部を押し込んでみた。
途端に湧き出る、白い霧。
どういう仕組みなのかわからないのだが、これは『薬の霧』なのだという。
「ふむ、確かにこれは興味深い……仙人の小道具、と言われてもおかしくはないが……」
そして彼は、つい好奇心にかられてしまった。
これを顔に吹き付ければ、さぞかし気持ちがいいのではないだろうか……。
武清は、噴射口を自らの顔に向けた。
「あっ、お客様、だめですっ!」
売り子は驚いて止めようとしたが、時既に遅し。
「……うぐはぁっ!」
彼はその噴射をまともに浴びて、目の痛み、鼻の刺激、喉の痺れにのたうち回った。
そして思い出した。
『万代仙』との戦いに於いて、白く怪しい煙を吸わされ、今と同じように目や鼻、喉が痺れ、まともに周りを見ることさえ出来なくなってしまったことを。
彼女が貸してくれたこの『あいしんぐすぷれー』、薬ではあるが、使い方を間違えれば毒にもなる。
そして『万代仙』は、まさにこの毒の方の使い方を戦いに流用したのだ……。
しばらくうめいていた武清は、それでもこの商品を大いに気に入った。
その値段が五十文と、思ったよりも安いことに気を良くし、彼は三つも購入したのだった。
そして近くの川原でそれらを使い、一つの確証を得た。
『仙人と戦うときは、決して風下に立ってはいけない』
また、もう一つ、確信を得たことがあった。
(あの店の主人は、間違いなく仙人だ……そして近いうちに、その者と真剣勝負をすることができるだろう……)
彼は疼くような期待に、胸を膨らませたのだった。