使い捨てカイロ
正徳五年、西暦に直すと1715年。
阿東藩は、まもなく冬を迎えようとしていた。
この時代の人々にとって、冬の暖房器具といえば囲炉裏や火鉢ぐらい。
炭などの燃料代を考えるとそれもあまり多用できず、身を寄せ合って寒さをしのいだ家庭も多かったという。
それでも、暖を取れる屋内はまだましで、屋外、特に夜間に外に出ないといけない者は大変だった。
そんな過酷な仕事の一つが、城の警備だ。
主に下っ端の侍がこの任務にあたるのだが、雪の降るような日に歩いて堀の外側を見回る時など、手が凍り付くのではないかと思うほど厳しかった。
門の前などはかがり火が焚かれているので、まだ手を温められるのだが、そもそもそういう場所は重要箇所なので、やはり年長者、役職者がその任につく。
これは身分の差とあきらめるしかない。
一応、綿で出来た手袋もあるにはあるが、やはり防寒用としては頼りない。
また、実は危険要素もある。
凍えた手に、親指部分しか分かれていない手袋……この状況で不審者と遭遇して斬り合いになったとして、まともに刀を握れるとは思えない。
かといって、警備をやめてしまっては本末転倒。
結局、当番の日が少しでも暖かいことを祈り、気合いで乗り切るしかない。
秋が深まってきている今は、また憂鬱な季節が近づいてきた、と悩む時期なのだ。
そんなとき、下っ端役人の矢吉、二十歳は、ある噂を聞きつけた。
『新町通り』と呼ばれる商店街に、『仙人』と噂される『前田拓也』直営の薬屋が開店しており、そこでは摩訶不思議な『仙界の薬や小道具』が販売されているというのだ。
その中には、『体に貼るだけで』ひんやりとその部分を冷やしてくれる膏薬もあるらしい。
ならば、逆に『貼るだけで』暖かくなるような膏薬もあるのではないか……。
そんな都合の良い期待を胸に、『前田妙薬店』と看板の出ているその店舗を訪れた。
暖簾をくぐると、
「いらっしゃいませ」
と、明るく、それでいて少し色っぽい声が聞こえて、まだ若い矢吉はどきりとする。
さらにその娘の顔を見て、顔が熱くなるのを感じた。
今まで彼が見た中でも一、二を争うほどの美しさ。
歳は自分と同じぐらいだろうか。
うっすらと化粧をしており、唇にわずかに塗られた鮮やかな紅が、その美しい顔を一層引き立てていた。
「……お客様?」
思わず見とれてしまっていた彼だが、声をかけられてはっと我に戻った。
「あ、ああ、すまない、少し考え事をしていた……ええと……この店では、仙人が運んできたという薬を売っているというが、本当か?」
「あら、お客様もそのような噂を耳にされているんですね……残念ながら、本当に仙人のお薬というものではありませんが……それでも、珍しいものはいろいろ取りそろえておりますわ」
笑顔で愛想良く対応してくれる売り子。
そういえば、『前田拓也』という男は、若いのに美しい嫁を五人も娶っているという噂だが……おそらく、彼女もその一人なのだろう。
いや、そんなことは今、どうでもいいと、彼は本来の目的を思い出した。
「実は、寒い夜でも手を暖かくできる、膏薬のようなものがあればと探しているのだが……」
と、いきなり本題を切り出したが、さすがにこれだけでは売り子もきょとんとしてしまっている。
そこで彼は、自分が夜間、城の外回りの警備をしていること、手がかじかんできついこと、などを詳しく話した。
すると彼女は、
「そういうことでしたら、ぴったりの物がありますわ」
と言って、その商品を持ってきてくれた。
……見たことも無いような透き通った、布でも、紙でもない外袋に詰められたその品物。
掌より少し小さいぐらいで、内袋の中に、砂のようなものが入っているようだ。
「これは、使う直前に外袋から取り出して、軽く振って懐に入れてもらえましたら、四半刻もせぬうちに暖かくなってきまして……それが一晩中続くという、大変便利なお品です。『かいろ』という名前ですのよ」
相変わらず笑顔でそう語ってくれる、お凜と名乗るその女性。
「一晩中、とな……いや、しかし、にわかには信じられぬ物だが……」
「でしたら、今お渡ししたその一袋、差し上げますわ。一晩使ってみてお気に召しましたら、またお買い上げください」
と、最後までニコニコと美しい笑顔で対応された矢吉。
狐につままれたような気になりながら、彼は帰っていった。
その三日後。
五人もの若い侍が、血相を変えて『前田妙薬店』を訪れた。
「お凜さん、あんたの言うことは本当だった……触ってくれ、まだ暖かいっ!」
興奮した矢吉の様子に、凜はちょっと笑いながらそのカイロに触れて、
「……ねっ、私の言った通りでしたでしょう?」
と、少し悪戯っぽく答える。
「ああ、これは本物だ……本物の仙術だ……」
そして彼は、昨晩の事をまだ興奮冷めやらぬ様子で語り出した。
警備につく直前、半信半疑で、『かいろ』を外袋から出して、懐に入れてみた。
見回りは二人一組。
同僚には
「そんな眉唾物の話、信じられぬものか」
と笑われたが、どうせタダだからと思い、使ってみたという。
すると、百も数えぬうちに暖かくなり、最初はバカにしていた同僚も、実際に触れてみて
「……これはとんでもない代物だっ!」
となり……そして見回りの途中ですれ違った他の班の同僚にも触らせて、現在のこの状況になったのだということだった。
「全員、多少高くても買いたいということなのだ。一つあれば、二人が一晩、手を凍えさせなくて済むっ!」
どうやら、交替で手を温めるつもりらしかった。
「……そういえば、お値段、言っていませんでしたわね……ちょっと、お高くて……」
高い、という言葉に、彼等の間に緊張が走る。
「お一つ、八文ですけど……」
「……は、八文?」
五人は、気の抜けたような声を上げた。
この時代、そば一杯が約十六文。その半額だ。
「一晩しか持ちませんので……毎晩となれば、結構な出費になるのでは……」
売り子は、ちょっと心配そうな顔つきになった。
「な、何をおっしゃる! 凍えそうな夜に、たった八文で手をぬくぬくと温められると思えば、これほど安いものはないっ! 十……いや、二十売ってくれっ!」
「お、俺にも二十っ!」
……こうして、開店後あっというまに店の在庫が尽きてしまった。
そして噂を聞きつけた別の侍達が、翌日、
「次に入荷した時のために」
と予約に訪れたのだが、その時にはもう十分な在庫が揃っていたことに、またまた仰天されたのだった。




