8話
恐らく陽奈にとって地獄であっただろう空中飛行から解放された彼女は、舞みたいに、とまではいかないものの、上機嫌なのが見ただけ悟れる。
今は飛行機で移動後の休憩時間だ。そのため、あまり長い時間はない。
「そろそろ戻らないと遅れるぞー!」
竜喜の呼びかけに反応した二人が手を挙げて返事をする。
「部長も大変ですね」
「そう見える?」
「いえ?」
「どっちだよ!」
真帆と軽口の応酬をして、竜喜たちの泊まる旅館の前に戻った。
旅館に宿泊荷物を置くと、一行はバスに乗り、最初の目的地である水族館へと移動した。
「それじゃ、これから一時間半班で自由行動なー。絶対はぐれないようにー。時間になったら集合場所に来ることー。時間厳守なー」
修学旅行生を引率する竜喜たちの担任教師が、どことなく気だるげな声で告げると一斉に散開した。
「わたしたちはどうしようか? 真帆は見たい所ある?」
「私は……水族館というものが初めてなので……。みんなにお任せします」
「まほたん、じゃあサメ見よ! いいよねたっつー?」
「え、ああ」
「やった! じゃあまほたん行こ!」
「舞! ちょっと待って!」
走り出した舞が真帆の腕を掴んで引いていく。その二人に陽奈の制止も届かない。
いつものことながら、独断先行する舞のせっかちさに陽奈はため息をついた。
「俺たちも行こうか」
「ええ」
始めてくる場所にも関わらず、迷うことなくサメのいる水槽にたどり着いてみせた。その彼女の方向感覚と勘の良さには竜喜と陽奈も驚かされた。
目当ての水槽は想像していたより巨大なものだった。通路の上下左右に水があり、トンネルのようになっている。そこに魚たちが回遊する。まるで、自分たちのいる場所の方が水槽なのではないかとという錯覚に囚われてしまう。
突然、水のトンネルに大きな影が現れた。
「シンベイザメだー!」
「大きい……。これがサメですか」
サメは巨躯な体をゆっくりと動かして四人の上方へと回り込む。
真帆だけでなく、実物を初めて見た竜喜たちもその大きさに呆気にとられていた。
そんな四人に、遮られていた光が当たり出す。
「すっっごーーーーい!」
我に戻った舞が言葉の通り目を輝かせる。
「ねぇねぇ今の見た!? ジンベイザメってあんなおっきいんだ! 来てよかったー!」
一瞬のうちに興奮状態の彼女は四方を見てはしゃぎ回っている。
「こんなにサメがいるのね」
「生きたお魚さんがいっぱいですごくきれいです……」
「俺もこんなに大きな水族館は初めてだよ」
海の底にいるような感覚に、三人も感嘆の声を漏らす。この光景を肉眼で見るのはもう今を逃せば一度もないだろう。
「おーい、みんなこっち来てー」
「なんだろ、舞が呼んでる」
「さぁ? 行ってみましょうか」
「そうですね」
いつの間にか遠くにいた舞が手招きして三人を呼ぶ。
舞がはしゃぐのはいつものことだが、今は四人とも未知の体験をしている。
気になった竜喜たち三人は顔を見合わせ、表情を緩めてから舞のもとへ向かった。
「これは……」
「きれい……」
「すごい……」
上から順に陽奈、真帆、竜喜の声が重なる。
三人が見たのは、岩陰に身を潜める小さな魚だった。その魚は普通の魚ではなく、紫色の珍しい色をしている。
肉眼ではもちろん、テレビや雑誌などの媒体でも見たことがない魚に思わず見入ってしまう。
しばらく見ていると、岩陰から一匹、また一匹と姿を見せた。
「わぁ、いっぱいいる!」
水槽に張り付いて目を輝かせる舞を見ていると、なんだか竜喜まで嬉しくなってくる。
もともと、中学の時から一緒の舞と、幼馴染みである陽奈に、編入生である真帆を加えただけの良く知る面子が集まっている部活だ。だが創部二週間でここまで良好な関係になるとは思ってもなかった。最初は真帆が信頼できるメンバーを集めただけだったが、今は四人揃ってのなんでもおたすけ部だ。……相変わらず活動はないが。
しかし突然、舞が硬直した。
「どうした?」
「こ、これ……」
震えながら舞が指した場所には、何か黒っぽい生物がいた。
それを近づいて確認すると、
「なまこ……? 舞、なまこ無理なのか?」
「なんかこう、うにょーぬめーとしてるの気持ち悪い……」
「へぇ、舞こういうの苦手なんだ」
普段の舞からは想像できない弱点に、竜喜は意外そうになまこを凝視する。
「これが……?」
「気持ち悪いったってなまこは水槽の中じゃない」
「そんなこと言ってはるっちだって飛行機の中なのに怖がってたくせにー」
「あれは、そう! 飛行機が落ちかもしれないじゃない! ニュースでよくするし」
「そんなこと言ってたら何も乗れないんじゃ……」
「う、うるさいわね! 怖いものは怖いのよ」
耳まで真っ赤に染めて言い返してくる陽奈に、竜喜はそんなものかと嘆息する。
まだ修学旅行は始まったばかりだが、二泊三日の旅行の最終日、つまり明後日には再び飛行機に乗らなければならない。なのに大丈夫なのだろうか。
まだ先のことは分からない。それに……。
「間の抜けたような顔をされてどうかしましたか?」
すぐ近くから真帆の声がして意識を戻す。
「なんでもないよ。あと、顔はどうしようもないの!」
「?」
「もしかして意味知らず言った? だとしたら真帆には絶対人を侮辱するのに向いてるよ!」
「それはどういうことですか?」
素で返された竜喜は脱力して言葉を失う。
こうもツッコミを素で返されると調子が狂う。そのことすら気づかずに首を可愛らしく傾げる彼女は一体どのような過去を持つのだろう。一般常識どころか、常識以前のことも知らないようのはあまりにも重症すぎる。
部室で初めて話した時に真帆は裕福で英才教育を受けていると言っていた。だが本当にそれだけなのか不明だ。
視線を上げると竜喜の考えが馬鹿馬鹿しく思えるほど楽しそうに笑っている。
「どうしたのたっつー?」
「……何でもない」
我に返ると、無意識のうちに海中のトンネルから抜けていた。
あまり光の届かない場所にいたために館内の蛍光灯が眩しい。
思わず目を細めた竜喜に舞が一瞬怪訝な目を向けた。
「ふーん……。そんなことよりイルカショーがあるんだって! 見に行こうよ!」
「そうね。おもしろそう」
「やった! レッツゴー!」
舞の新たな提案に陽奈が同意。それを聞くとすぐにまた舞は真帆を引き連れて、風のごとく走り去った。
「まったく落ち着きないわね……」
呆れ果てた様子で陽奈が呟く。
出逢った頃、つまり中学に入学した時から舞は今の調子だ。振り回されることもあったが、それに助けられたことも少なくない。
「まあまあ。あれが舞のいいところなんだから」
「そうね。――行きましょうか。わたしたちがはぐれちゃうわ」
「そうだな」
実際に有り得るかもしれない陽奈の発言に竜喜は苦笑を浮かべる。
舞の驚異的な方向感覚と運は群を抜いている。実際ここまで未知の広い場所で迷っていないのも彼女のおかげだ。もし、はぐれるようなことがあると……。
そこまで考えた二人は急いで後を追った。