3話
決して聞きなれているわけではないが、強く印象に残り、一生忘れることはできないだろう声に、若干の希望を込めて見上げた。
可愛らしく少し小首を傾げながら心配そうに様子を窺う端整な顔があった。そう、今朝のように。
自分のドジで情けない姿を見られた気恥ずかしさを紛らわすように慌てて立ち上がり、何でもないというように取り繕う。
「だだだ、大丈夫、落ち着いて、大丈夫から」
「落ち着くのは私ではなく、あなたの方かと思うのですが……」
「ははは、大丈夫、大丈夫……」
引き攣った笑みを見せて竜喜はその場をやり過ごす。そしてこれ以上の詮索をされたくない彼は話を途切らせた。
「立ちっぱなしもアレだし机出すよ」
「私もお手伝いします」
「いやいいよいいよ。一人で大丈夫だからちょっと待ってて」
「いえ、一人でさせるわけには。それに一人より二人の方が早く済みますので」
ここまで言われた竜喜は言葉に甘えて二人で机を動かし始めた。
その間、竜喜の意識は、隣でせかせかと行動する銀髪の美少女にあった。
今日ぶつかって偶然出会った少女が同じクラスの隣の席に転校してきて、更に今その少女と同じ部屋で二人きり。こんな最高のシチュエーションがあるだろうか。
それに今、初めての共同作業……。
「それはちょっとさすがに語義変わるか」
だが、この夢のような現実に竜喜はずっと真帆に釘付けになっていた。
体感時間で一瞬の間に机を、生徒会のように長方形に出し終えた二人は、竜喜は入口付近、真帆は窓側付近に二人とも黒板を前に陣取る。出逢ってまだ半日のために当然といえば当然なのだが、この微妙な距離感がむず痒い。
二人のいる空間に静寂が訪れる。この堅い雰囲気に、何か話さないととても場が持ちそうにない。
「えっと……南崎、さんはどうしてここに転入してきたの?」
竜喜の問いかけに真帆は微かに困惑するような表情を見せたが、何か決心したように答え始める。
「私は、家の事情でこれまで学校には通ったことがないのです。学校というものに憧れはありましたが、両親にそれを認めてもらえなかったんです」
ここまでで竜喜は真帆にはとても複雑な事情があるのだと察した。
「それなら勉強とかはどうするの? ましてや三年からだから……」
「それについては心配ありません。私は小さい頃から英才教育を受けていたので大学ぐらいまでなら問題ないです」
「英才教育……」
滅多に聞かない単語を耳にし竜喜は顔をしかめた。
話を聞く限り真帆は相当な学力の持ち主のようだ。それだけではない。英才教育といえば生まれがよっぽど良くなければその単語すら口にすることはない。
「はい、私の家は裕福ですので」
「自分で裕福とか言っちゃうんだ……」
竜喜の予想をあっさり認められて苦笑で返す。しかし、それに対して真帆はこの人は何を言ってるんでしょう? とでも言いたげに首を捻っている。
「……南崎さん」
「真帆で結構ですよ。どうせこれから部活動で毎日会うのですから」
「じ、じゃあ真帆さん」
「真帆で結構ですよ。堅苦しいのは苦手ですから」
さすがに会って半日の女の子に対してそれはどうなのかと戸惑った。だが、当の本人は全く気にしない様子で、というよりはむしろそれがお望みらしい。一回で言えばいいものを遠回しに言う辺りは少女の方も無心ではないのかもしれない。
竜喜は大きく息を吐き意を決める。
「……ま、真帆……はまだこの学校のこと知らないよね?」
「はい。まだ何も」
それを聞いて竜喜はやはりか、と肩を落とす。あの担任教師は教師がすべき説明すらも生徒に任せる癖がある。
だが今回はそれに感謝すべきかもしれない。お陰で真帆と二人きりになれるのだから。
「じゃあさ、俺が案内するよ。この学校のこと色々」
「ご迷惑でなければお願いします」
そわそわしながら声をかける竜喜に真帆も嬉しそうに返す。
――よっしゃあ!
竜喜は内心でガッツポーズを作る。
そこで彼は肝心なことを思い出す。
「俺は日下部竜喜。俺も竜喜って呼んでくれたらいいよ。これからよろしく」
「はい。よろしくお願いいたしましゅ」
かわいい!
語尾を噛んだ真帆は気にしていないらしいが、その様子を見て竜喜は言葉に叫んだ。
「うまくやってるか? さっきから二人でイチャラブイチャラブしてくれてるが」
唐突にすぐ右から声がして振り向く。
「うわっ! 先生いたんですか!? 生徒のプライベートを盗み聞きなんて悪趣味ですよ!」
「聞こえてくるものは仕方ない。聞かれたくなければ小声でヒソヒソとやればいいだろ」
口調は相変わらず変わらないが、その中に生徒をからかう悪意を感じる。
「聞こえてもそれを言わないのが教師として当然のことだと思うんですけど!?」
竜喜は脱力し、穏やかな日差しが照らす窓の外を見やる。相変わらずいい天気だ。空には雲一つない。すると、しばらく使用されなかったとは思えない程きれいな窓ガラスが目に入る。
「あ、そう言えば表札作ったり教室の掃除したりしたのって先生ですよね?」
「当たり前だろ、顧問なんだから」
「よかった。先生らしいところがあって安心した」
「それは部活の評判に関わるからな。評判が悪くなってしまったら私の給料が……」
「やっぱり最低だな! 見直した俺が馬鹿だったよ!」
やはり先生は安定していた。
生徒を目の前にしておきながら何食わぬ顔で生徒よりも自分のことのために動くところが恐ろしい。よく教師になれたものだと、竜喜は別の意味で感心してしまう。
しかしそんな考えは本人に一切ないらしく、全く悪びれを見せない。……それが琉美らしさなのだろうが。
「じゃあ後はよろしくー。自由にしてていいから」
そんな自覚のない担任教師は風のごとく現れ、嵐のように去っていった。とんでもない置き土産を残して。
「真帆ー、くれぐれも竜喜には気をつけろよー」
「余計なこと口走らなくていいからさっさと帰れ!」
反射的に机を叩いて立ち上がり、遠くから真帆に大声で忠告する琉美に叫び返すと、竜喜はこの空間の微妙な空気を感じ取り、教室の反対側に目を遣った。そこでは銀髪の少女が小さな肩を震わせていた。おまけに涙目の上目遣い。
――かわいい!
反射的にそう思ってしまったが、そんな場合じゃない、と頭を振って理性を取り戻す。
「えっと、お願いだから信じないでね?」
こうして先が思いやられる部活動が始まった。