12話
「もうだめ、死ぬーーー!」
ようやく長い道のりを歩ききり、イベントエリアにつくなり女子三人が身近のベンチに座り込んだ。
運動神経がよく、普段疲れることを知らない舞までもがぐったりとしている。
「もう、たっつーのせいだからね!」
「悪かったって。申し訳ないと思ってるよ。でもしかし、ここまで悪運が続くとは……」
「ほんとそうよね。昔から竜喜くんはドジで運がなくて残念」
「事実を述べられてるだけなのにすごくディスられてる気分!」
「小さい頃、遊んでたらカラスに糞を落とされたり……」
「やめてえぇぇ! と、とにかく俺は先生探してくるから三人は休んでて」
竜喜と陽奈は幼馴染みだからこそ、彼女しか知らない色んなことを知っている。特に竜喜の失敗談や笑い話なんて数がしれない。
思い出したくない話を晒されそうなり、顔を渋めながらその場を離れた。
「あ、ねえねえ、クレープあるよ! はるっち、まほたん食べようよ!」
竜喜がいなくなると早々に、クレープの販売車を見つけた。今までぐったりとしていたのが嘘みたいに騒いで立ち上がる。
時間は十一時前と、ちょうど小腹が空いてきた頃合だ。
「くれえぷ?」
「いいわね。食べましょうか」
一人で首を傾げる真帆を気にせず、舞は二人を引き連れてクレープを買いに行った。
このイベントエリアは、小さな舞台や、ホールがあり、様々な公演やコンクルール、ライブなどが頻繁に行われている。残念ながらこの日は使用される予定は入っていないらしい。
何のイベントもなければこの辺りは粛々としているが、天然芝が整備されていて日光浴には心地良い場所だ。特に若葉が綺麗なこの季節は、穏やかな風が陽射しに緩やかに吹く風が眠気を誘う。
そのイベントエリアに止まっていたクレープの販売車でクレープを買った三人は再びベンチに座った。
「これはどうやって食べるのですか?」
買ったはいいものの、常に不思議そうにクレープを見つめていた真帆がついに口を開いた。
それに対して舞はいつもの調子で、
「そのままガブっとだよ。ガブっと」
「ガブっと……」
素直に言われたまま大きな――少なくとも真帆の中ではそのつもりだろうが実際は可愛らしい小さな――口を開けてクレープを口に含む。
「……! おいしい……すごくおいしいです!」
「口に合って良かったわ」
急激に食べるペースを上げた真帆を見て陽奈が微笑む。そして自分も、左手で垂れる前髪を押さえながら一口。
「ほんとに美味しいわね」
それからは全員無言でクレープを貪り、あっという間に平らげた。
完食し、全員が一息ついたとき、真帆がこの静寂を破った。
「陽奈、ひとつ尋ねてもいいですか?」
「ん、なに?」
陽奈が顔を上げる。
「やはり陽奈は私たち以外の人と誰も話しませんよね? それはなぜなのですか?」
聞いた途端に陽奈の表情が僅かに曇ったのを真帆は確認しただろうか。舞もその話にも興味を持ってはいるようだが、陽奈本人はあまり話したくなさそうな様子だ。
普段右側につけている髪留めがこのときだけ萎れて見えた。
しばらく沈黙を続けたが、ようやく意を決して重い口を開いた。
「わたし、小学校の頃は泣き虫だったからいじめられてたの。靴を隠されたり、机に落書きされたりそんなものは当たり前」
陽奈は小学生の頃から真面目で優秀な少女だった。頭は良く、自分のしたいことや信じたことは一途に突っ走る。そんな彼女の性格は先生からも好意を買っていた。
そんな陽奈がいじめの対象になったのは小学三年の頃。きっかけは何だっただろう。自分でも正確には分からない。だが、今となっては自分の性格と、先生に好かれる自分が煙たがられていたのだろうと思う。
平穏だった日常はある日突然壊された。朝、陽奈が登校すると、自分の机に落書きがあったのだ。
『死ねよ』『ウザイ』
その文字は幼い彼女の心を深く抉り泣き崩れた。
放課後も、帰ろうと下駄箱を開けたそこにあったのは二足の靴ではなくその場いっぱいに詰められた泥や土と、悪口を書いた手紙。
涙ながらにその日は裸足で帰った。
いじめが始まり、エスカレートしていったのはこの日からだ。
それから毎日のように机には落書きが増えていき、下駄箱には土と手紙が残されていた。担任の教師も気づいているはずなのだが見て見ぬふりで何も声をかけてこない。
そのうち、陽奈は裸足で登下校するようになった。それがまた、いじめる側のネタとなり、教室でもからかわれ、手や足も出されるようになっていった。その度に泣きじゃくり、でも先生に言うこともできず、ただされるがままにされていた。いじめる側にとってこれほどいじめやすい標的などいなかっただろう。
だが、一番大変だったのはこれからだった。月日が経つにつれ、いじめられるのには慣れていき、涙も枯渇していった。それと同時に親にこのことは気づかれないようにしようという気持ちが芽生えた。
自分が何をされてもいい。でも親には気づかれてはいけない。気づかれては心配をかけてしまう。その一心で過ごす毎日。
――辛い。
――しんどい。
――苦しい。
――痛い。
――逃げ出してしまいたい。
自分のそんな感情は全て押さえ込み、親に心配をかけないその一心で頑張った。 家でもの振る舞いもこれまでと変化がないように装い、自然に見せた。親に心配をかけてはいけない。常に自分に言い聞かせ、それが彼女の唯一の生きる目標となっていた。
毎日とにかく生きるのに必死だった。大丈夫だと自分の心に言い聞かせても体は限界に達しかけていた。目眩や立ちくらみを起こした回数は数え切れない。危うく倒れかけたことだってある。
そんな状況は約三ヶ月にも渡った。その間の休日は陽奈にとってどれだけの安らぎを与えただろう。精神的にも肉体的にもその休日がなければもっていなかったはずだ。
そんなある日、さらにいじめはエスカレートした。
「おい、このあと公園来いよ」
同じクラスで陽奈をいじめているうちの一人の男子が彼女を呼び出した。もう既に少女の中には抵抗する意志などは消え去っていた。どうしようとも状況が変わらないことを十歳の少女は悟っていたからだ。
そそくさとランドセルを背負い、昇降口へと向かう。下駄箱を開け、土と手紙の溜まったその場に上靴を入れると裸足で校外へ出た。
直に感じる地面がとても冷たく感じた。陽奈の頭にあるのは不安や恐怖ではなく、次は何をされるのかという単なる疑問。最早彼女に感情というものは無くなってきている。
公園に着くと、既に男女二人ずつの四人の同級生が待ち構えていた。
「来たな。それにしてもあいかわらずボロボロだな」
陽奈は言い返さない。それがいつものことであり、この場にいる全員にとっての当たり前なのだ。
だが、今回はそれがなぜか少年の導火線に火をつけてしまったらしい。
「何か言えよ。話しかけてるんだよ」
呼び出した張本人が陽奈に歩み寄るといきなり足を出してきた。
反射的に目を瞑り衝撃と同時に倒れる。
「何とか言えよ」
四人が陽奈を取り囲むようにして集まり、彼女を憐れむような目で見下す。実際に攻撃しているのは一人だけだが、残りの三人も同じように愉しんでいる。
そんなことはどうだっていい。周りからの視線など、この数ヶ月ですぐに慣れた。
四人でリーダー的存在の少年が動かない陽奈に何度も蹴りを入れる。
何度も、何度も、何度も繰り返し続ける状況は傍から見れば異常極まりない。だが、公園の前を通る人影は一つもない。
痛い。辛い。
いくら慣れたとはいえその感情が無くなることはない。公園の前を通った誰かがこの現場を目撃しないかという期待もしていたが、不運なことに人の気配はない。
いや、幸運かもしれない。誰かに目撃されれば学校への連絡は確実だ。そうなれば親にも話が行く。それは好ましくない。
だから耐える。なんとしても耐える。
小学三年とは言え、男女の力の差は小さくはない。その暴力に、ついに陽奈の体が悲鳴をあげた。
意識が朦朧とする。
痛みが遠のいていく。
――もうこれで終わりなんだ……。
そう思った。
だがその時、リーダーの少年が小さな悲鳴をあげた。そして続く声に陽奈は驚く。
「はるなちゃんにこれ以上を手を出すな! はるなちゃんは僕が守る!」
よく知った声。ずっと小さい頃から一緒に遊んだ幼馴染み、竜喜が陽奈を庇うように目の前に立っていた。
「ちぇっ、覚えとけよー!」
邪魔が入った四人は捨て台詞を吐き捨て公園を走って出ていった。
「はるなちゃんだいじょーぶ?」
残されたのが二人になり、幼馴染みの声を聞くと陽奈の両目から涙が溢れた。
いじめられるのには慣れた。なのにどうして。理由は分からない。涙を堪えようとしても、止まるどころか勢いを増してとめどなく溢れてくる。
もう少し竜喜の到着が遅ければ陽奈は完全に意識を失っていた。だからこう思わずにはいられなかった。
――どうして、どうしてもっと早く助けてくれなかったの?
竜喜も同じクラスであり、何よりも陽奈の幼馴染みだ。ならば陽奈がこうしていじめられているのも知っていたはずだ。なのに三ヶ月も放置していた。もっと早く助けることはできただろうに。それなのに――。
でも、本心は嬉しかった。信頼できる人が、それも幼馴染みの竜喜が助けてくれた。
『はるなちゃんは僕が守る!』
その言葉が嬉しかった。竜喜がこの負の連鎖を断ち切ってくれた。
そこまで考えると陽奈はもう大丈夫だという強烈な安堵感に襲われた。すると、またしても目が熱くなり、涙が零れ出す。
自分すらも騙してしまうほどの恐怖、苦痛から解放され自分ではどうしようもないぐらいに顔はぐちゃぐちゃになっているだろう。
そんな陽奈を竜喜は抱きしめてくれた。
竜喜の胸はいつもよりたくましく、心強くて、何よりも温かった。
――もう何も苦しまなくて済む。
無意識にそう感じたとき、陽奈は理解した。
本当は慣れてなどいなかったのだ。自分が我慢できるようにするため、自分にそう言い聞かせてだけに過ぎなかった。
ずっと自分でも気づかないほど心の奥底で助けを求めていた。差し伸べられる手を探していた。
やっとその手を見つけた。だから彼女はその手を離さないようにと心に決めた。
――竜喜くん以外の誰も信用しない。
しばらくそのまま慟哭し、涙が出なくなると竜喜に送られて家に帰った。当然、ボロボロの陽奈を見て親には知られてしまったが、それで良かったと思う。
親はすぐに学校へと連絡し、幸か不幸か陽奈はすぐに転校が決まった。
陽奈にとってもう一つ喜ばしいことがあった。幼馴染みであり、陽奈を救ってくれた恩人である竜喜も親の仕事の都合で偶然にも彼女と同じ小学校に転校が決まったのだ。
それから中学に上がるまで、友達は作らなかった。というよりは作れなかった。
いじめられていた記憶がトラウマとなり、体が人と話すのを拒絶した。話しかけようとしてもすぐにトラウマがフラッシュバックし言葉が出ない。
だが、中学に入りさすがにそのままではまずいと判断した陽奈は、唯一信頼できる竜喜の友人と仲良くなろうと考えた。そうすれば同じことは起こらないはず。
だが、そう簡単な話ではなかった。
少しずつ心を開いてはいくが、中学でできた友達というのは数少ない。舞もその一人だ。
高校生になり、人と親しく話せるようにまでなった。でも、どうしても友達になるとまではいかなかった。必要最低限のことはともかく、親睦を深めようとするとまだ恐怖心が現れることがある。
「だから私は普段は話してないの。クラスのみんなには悪いんだけどね」
陽奈自身の口から語られる過去に二人は絶句する。
このことは真帆どころか舞すらも知らない。
「すみません。嫌なこと思い出させてしまいました」
「いいのよ別に。どうせいつかは克服しないといけないんだから」
そう気さくに微笑んで見せる陽奈を見ると、打ち明けられたばかりの過去などとても結びつかない。
「ならいいじゃん!」
「舞?」
勢い良く舞が立ち上がり、
「無理にしたくないことなんてしなくていいじゃん! 今すぐじゃなくても、ゆっくりゆっくり時間をかけていけばいいじゃん! だって今までだってそうだったんでしょ? なら今まで通りでいいんだよ。それにさ、はるっち、にはあたしたちがいるじゃん!」
思わず陽奈は舞をまじまじと見た。
まさか舞からこんなことを言われるとは思わなかった。
でも嬉しかった。それと同時に罪悪感にも駆られる。舞には中学の頃にこの話を隠していたのだ。なのに舞は陽奈を責めるどころか励ましてくれる。
舞はそんなこと気にしてないのだろう。その言葉だってそこまで深く考えたのではなく彼女の思うままを言ったに過ぎない。
舞はそれに、と続ける。
「あたしたちは友達でしょ?」
その一言で陽奈は目を見張った。
それはかつて陽奈が真帆に言った台詞だ。本当は自分が必要としていた台詞なのかもしれない。
これまでは無理に明るく振る舞ってきたこともあった。だがこれからはそんなことしなくてもいいんだと、心から思った。
「ありがとう、舞」
そのとき、先生を探していた竜喜が陽奈たちのもとへ戻ってきた。
「ただいまー。ってあれ、どうしたんだ?」
「何でもないわ」
陽奈は立ち上がり続ける。
「さ、早く行かないと他の班に負けちゃうわ」
声を掛ける陽奈の顔は、何かすっきりしたような満足そうなものだった。
それに、女子三人が竜喜が離れるより楽しそうにしている。
彼は戸惑いながら慌てて三人の後を追いかけた。