ある日
なんか一年くらい前に書いてた奴が見つかったので、
フィオリエ・キローセンにとってこの世界は退屈その物だった。
偶々、乗り合わせた船に知り合いが居て、気まぐれで手を貸した末に今がある。
普段は図書館に通いつめ、若いころにないがしろにしていた教養を少しでもましなものにしようと様々な本を読み漁るようにしている。
その日も丁度図書館の奥でどこかの国の博物学の学術書に目を通していた。
古めかしい本で、使われている紙は少々黄ばんでいる。
ここまで再現しなくてもいいのに、とも思うが、これは以前行われた古書保全運動の際にキャプチャーしたデータを流用しているから、これのオリジナル自体がそもそも黄ばんでいるのだ。他の本も恐らくそうだろう。
この図書館には数えるのも馬鹿らしい本が納められている。
数にして数億冊はあるだろうか。
自国の本を含め、隣国、そしてこの国の本……。
「先輩、ちょっといいですか?」
目を落としていた本の上にホロモニターが展開される。
画面に映るのは中性的な顔立ちの年若い人物で、名前はオーバ・クレシダ。
「何ですの?」
先輩、と呼ばれたことに若干苛つきながらフィオリエは応える。年齢の事は置いておくとして、彼の先輩になった覚えはなかった。
「ソシル少佐がレポートを提出しろとお冠です」
またあの朴念か、とため息を漏らす。
「近いうちに提出すると伝えて下さいな」
「それ、この間も同じ事言ってましたよね。ソシル少佐に伝えるのは私なんですよ。流石に困るんですけど……」
画面の向こうでは泣き出しそうな顔が映っている。
強かな相棒は時折こうやって同情を引こうとするが、下手な手だ。
「とにかく頼みましたよ」
無理やり会話を終わらせるとホロモニターを閉じる。
まったくもって下らない。
フィオリエに課されているのはプレイヤー間の実際の実力を計る事。
そのためには実際に彼らに近付き観察する必要があるが、そんな事をするくらいなら権力を傘に新兵を躍らせた方がまだ見ごたえがあるだろう。
ふて腐れた心持でフィオリエは書架を見上げた。
そんな時だった。本棚の向こう側から若い男女の話し声が聞こえてきたのは。
最初はほんの気まぐれからの事だった。
図書館の一角で見かけた二人組を親切心から注意するだけのつもりだったのだ。
いくら仮想空間上の世界だろうとルールは存在する。
自分が特別ルールにうるさいわけではなく、本当にただの気まぐれだったのだ。
その注意もむなしく、事もあろうに、貸出禁止の本を持ち出そうとする。
最初はシステムが勝手に回収してくれるから良いだろうと思っていたのだが、持ち出された本のタイトルを確認して彼らの、いや、少女の方の反応を見てみたくなったのだ。
直ぐに管理プログラムを起動すると二人組が持ち出した本の回収プログラムをカットし、位置情報をトレースし始めた。
半透明の画面が目の前にポップしそこに周辺の地図と所持している人物のデータが表示される。
男の方は、現実世界だと十九歳の男性、極秘裏に行われた脳探査によれば彼は某国立医大生で、中々に優秀な人物だとわかった。
少女の方は、現実世界では十八歳の男性で学部は違うが共に同じ大学に進学している。
現実と仮想空間での性別が異なる事例など腐るほどあるのだが、
(どうやら二人は現実世界において友人同士、親友のようですわね)
これはますますあのイスカというプレイヤーの反応を見てみたいとフィオリエは考えた。
「オーバ、ちょっと頼みがありますの」
音声回線を開くと、相棒へと呼びかける。
「何ですか、藪から棒に……。こっちは今から少佐に報告しに行くんですから」
回線の向こうからは投げやりな声が聞こえて来る。それはそうだろう、直前に面倒事を押し付けてきた相手が話しかけてくればそうなる。
「例の調査、今から始めますわよ。それで……」
と要件を伝える。
「はぁ、クエスト受注画面の偽造、ですか。少佐に知られると面倒ですよ」
「いいのよ、あの男の小言なんて聞き流せば良いだけです。それに何か言われたら調査に必要だったと言い通すだけです」
「ほんと、怖いもの知らずですね。データが完成したら送っておきますから、余り馬鹿なことはしないで下さいね」
オーバはため息交じりに言うと回線を切った。
少女は本の追跡データ画面を拡大し、新たに二人の映像を呼び出す。
丁度受付前を通り過ぎる所だった。
受付の『模造人間』共の視力は設定上あまり良くない、あれが二人の不正行為を見落としてしまうのも仕方ないが、そうでなくてはこれからの楽しみがなくなってしまうのだ。
どうせならもう少しからかっても良いだろう。
少女は小さく笑みを浮かべると彼らの後を追い始めた。
そして現在、彼女は本局内にある地下駐車場の中に居た。
地下駐車場とは名ばかりで、実際に稼働する車は、この世界にはまだない。
なぜこんな場所に居るかと言うと、彼らのクエストに同行する事になっているからだ。
ただ、予想外にも新たに二人が加わり、しかもヒノエというプレイヤーは自分の事を疑っている。
目の前のプレイヤー達の個人情報画面を呼び出してそれぞれどのような行動傾向か表示する。
項目を目で追っていると、
「調査対象にぴったりなプレイヤー達で良かったじゃないですか」
先程まで静かだったオーバが一方的に回線を開いてきた。
「そうですわね。それと、例のデータ助かりましたわ。あの子のおろおろする姿、可愛らしくて……どうせなら記録しておけば良かったかしら」
「調査用の記録データなら取りますよ。ですけど私的な利用には応えられませんので悪しからず」
「ケチ臭いことおっしゃるのね」
少女は鼻を鳴らすと、会話を中断してこれから一緒にダンジョンへと行くプレイヤー達の背中を眺めた。
フィオリエはオーバとの回線を開いたまま彼らの後を追う様に歩き出す。
地下ダンジョンの中は廃墟の中と殆ど変りのない作りになっていて壊れかけの蛍光灯がや非常灯が足元を照らしている。
ダンジョンらしいところと言えば、複雑に入り組んだ通路があり、妖魔と呼ばれる存在が居ることくらいだろうか。
その妖魔も樹海に住み暮す生物たちとは異なり、半物質半エネルギーの存在。
普段は姿を見ることはできないが、探索に来たプレイヤーを見つけると周囲の物質を取り込み姿を現す。
その妖魔は壁の中から突然現れ、半透明で宙に浮いている事から、プレイヤー達から『レイス』と呼ばれている。
一応、データ上では敵対型精霊種とタグで分類されているのだが、公表していないのだからプレイヤー達が知ることは無い。
「まったく、優秀なパーティーってやつですねぇ」
回線の向こうからオーバの感心する声が聞こえてくる。
フィオリエは先ほどから返事をしない。
出現するモンスターの数が多く、パーティー内での連携を取るのに忙しいのだ。
本来のフィオリエの実力であればこの程度の敵は敵と認識する必要もないものだが、今は彼らの能力に合わせて自分を押さえないとならなかった。
それが思いの外面倒で、ストレスが溜まっていく。
キングタイガー三世が指示を出し、アトリとイスカが出現する『レイス』に向かい、ヒノエは周囲を警戒し新手の出現がないか監視している。
フィオリエはと言うと、皮肉にも辺りを警戒する事で手一杯のヒノエの護衛をしている。
手にするは凝った装飾の鉄扇。
これも装具の一種で開けば盾に、閉じれば鈍器にもなる優れものだ。
装飾品のつもりで構成しているので本来の打撃力などはたかが知れている。
「明らかに数が多すぎますわね」
フィオリエは声を上げる。
オーバに向かってのセリフだが、イスカを始め他のメンバーはそんな事は知らない、彼女が音を上げ始めたのだと解釈していた。
「前に来たときはこんなんじゃなかったんだが……」
キングタイガー三世は指示を出す傍ら前衛二人の背中を守る。
「言ってる間に、接近する気配の群れが三つ増えましたよ。2ブロック先、正面から向かってます」
ヒノエは淡々とした口調で伝えるが、それは疲労が蓄積して感情が声に現れなくなっているだけ。
「くっそ、埒が明かない、まだ途切れねぇのか」
先頭のイスカが怒声を張り上げ、レイスの身体を一刀両断に切り伏せた。
これだけの数を相手に剣先がぶれないのは相当量の討伐クエストをこなしてきたからこそ成せることだ。
「まだです、全周囲から31、1ブロック先に出現。既に臨戦態勢」
「近すぎじゃねーか。しっかりしろよ」
イスカは思わず声を上げるが、運営側の機能を使い周囲の状況をモニターしていたフィオリエはそれが突然出現した事を理解していた。明らかに不正な操作を行っている。
むしろ今の反応速度で捉えたヒノエを褒めるべきだろう。
(オーバには後できつく言っておかなくてはなりませんわね)
少女は鉄扇を握る手に力を込めて、今この場所を記録しているであろう同僚に苛立ちを覚えるのだった。
全ての『レイス』を倒しきったのはそれから半時も経過した後。
酷い乱戦にこそならなかったものの、数えるのも馬鹿らしくなるほど数を増やし、通路にはレイスの物質部分を構成していた塵芥が積み重なり出来上がった山が異常な数を物語っていた。
「見張り役の彼、優秀ですね。プレイヤーはああいうのをウォッチャーとかサーチャーって呼んでいるらしいですよ。私としてはフィオ先輩のお気に入りの子よりも、断然彼を推しますよ」
通信の向こう側でオーバはご機嫌な様子で語る。
一緒に傍にいたのだ、ヒノエがプレイヤー達の中では比較的優秀なことくらいフィオリエには分り切っている。
「アナタ、後で判っているでしょうね。出現率の操作なんて……」
フィオリエは鉄扇で口元を隠しながら小さく、囁くように言う。
「でも、良いデータが取れましたよ。これまでサボっていた分のツケと言うヤツでしょう。それに週末のイベントに向けて良いデータが取れましたし。彼らにはもう少し頑張ってもらいましょうよ」
オーバは他人事の様に言う。
ここに居ないオーバにとってはそうかもしれないが同道している身としては色々と気を使う事が多くたまったものではない。
見ればヒノエとイスカが腰を下ろしている。
今『レイス』が現れるならあまり良くない結果を招くだろう。
「フィオちゃん、大丈夫?」
アトリがパック飲料を手に現れた。
フィオちゃん、という呼び方は為れないが、アトリが言うと不思議と嫌な感じはしない。
不思議な人物だ。
「問題ありませんわ。というかアナタは元気そうですわね」
フィオリエは意識してアトリを見るが、その身に流れるオーラは平時と変わらず安定している。
それに比べると腰を下ろしている二人のオーラは体力を回復させるために表出する部分がかなり少なくなっている。
キングタイガー三世も同じで、腰を落としてはいないが、彼も表出するオーラの量が少なくなっている。
「まぁね。前も似たような事があってさ、その時以来、ペース配分には気を使ってるんだよね。その時は今よりもずっと数が少なかったんだけどさ」
恐らく彼女も調査班の誰かから対象に選ばれた事があったのだろう。
二度も対象に入ってしまうとは中々の悪運を持っているようだ。
「そうでしたの。私の方はヒノエさんの護衛についたお蔭で楽をさせていただきました」
そう言っておけばアトリも疑わないだろう。
(それよりも……)
フィオリエは通路の壁に背を預けて休んでいるヒノエの元まで行くと膝をつく。
「ああ、フィオリエさん、さっきはありがとうございます」
ヒノエはいつの間にかやってきたフィオリエに例を言う。
『レイス』との戦闘の最中、彼女に守られ続けていた。
「そういう役割なのですから、気になさらないで」
と口にはするが、正直な所、彼については色々と思うところがあった。
感謝しているのは本当だろうが、彼の眼から疑念が抜けきっていないのだ。
少女自身も、下手に念動等の出力を上げるとこの青年に決定的に怪しむとっかかりを与えてしまうだろうと苦心しながら立ち回っていたのだ。
それほど彼の『感応』能力のうち、観察技能は多くのプレイヤーの中でも頭一つ分、いや、それ以上に飛び抜けている。
恐らくはサービス開始時、魔の森に迷い込んだと情報にあるが、その時の経験が影響しているのだろう。
「そんな事ないですよ。お蔭で集中して周囲の監視が出来ました」
「そう言われると少しこそばゆいですわね。それより、ちょっとお話がありますの」
人から礼を言われるのが随分久しぶりなような気がして気が逸れたが、すぐに本題を伝える為に話を切り出す。
「何ですか」
「アナタは常に本気を出しすぎです。『感応』による周囲の警戒なんてものは、平時は広範囲にぼんやり感じ取るだけで十分なのです。それが難しいのですけれど、慣れるとそちらの方がはるかに楽に広い範囲を見張れますのよ」
余計な事、とも思ったが、このまま地下探索をするのであれば、成否の大部分は周囲を警戒する彼の働きに掛かっていると言っても過言ではない。
残念なことに他の三人は『念動』やら『駆動』ばかり集中して使っていたらしく彼の代わりを務められそうな者は居ない。
(こういったアドバイスはルール違反になりますけど、こちらも色々と手出ししていますし、少しくらいは良いでしょう)
かなり無理をさせてしまった分の埋め合わせに、とフィオリエは少し気が楽になった気がした。
それよりも、最初の目的はイスカにちょっかい出して反応を楽しむつもりが妙な事になったものだ、ため息を漏らさずにはいられなかった。
「意外と、先輩もヒノエ君の事気に入ってますよね」
オーバは相変わらずの軽い調子だ。
「アドバイスをする姿がアナタにはそう見えたならそうなんでしょう」
扇で口元を隠し顔を歪める。
「先輩のアドバイスがあるなら、もう少し難易度上げても良いですよね。私としては……」
フィオリエは大きくため息を吐くと専用回線をカットした。
オーバは優秀なのだが、時折調子に乗り過ぎるのが玉にきずだった。
そして、今もきっと何か碌でもない事をたくらんでいるだろう。
「フィオリエさん、そろそろ移動しますよ」
少し離れたところで四人が呼んでいる。
フィオリエはゆっくりと彼らの方へ歩いて行った。
現在設定されている最下層域にたどり着くまでは何の問題も起こらなかった。
それどころか、『レイス』一匹姿を見せない。
(少しやり過ぎたと反省している……なんてことはありえませんわよね)
オーバと言う人物は、普段は丁寧で少し大人しいのだが、一度調子に乗り始めると手に負えなくなる。
そのせいで何度尻拭いをさせられる羽目になったことか。
オーバの上司からはどちらも面倒で手におえない人物であると認識されているのを彼女らは知らない。
ため息を漏らしつつ、クエストの仲間たちへと視線を向ける。
彼らはドームの中央あたりで何やらやっているようだ。
「おかしいなぁ、前に来たときはボスっぽいのがそこに仁王立ちで居たんだけど」
アトリは地面を見ながらうろうろと歩き回っている。
ドームの中には隠れられそうな場所は何もないし、戦闘が行われた形跡も見当たらなかった。
フィオリエの記憶が正しければ、ここにはボスとして常駐型の強化妖魔が配置されているはず。
姿を消して奇襲をかけるような仕掛けもない。
というか、そもそもまだ『箱庭』自体が本格始動していないのでボスとは名ばかりの強化モブの一つだ。
「妙な感じだな。ヒノエ、何か引っかからないのか?」
キングタイガー三世は難しい顔をして振り返る。
「別にないですね。そもそも、魔物自体の反応があれからなかったですし」
「そうか、反応があったらすぐに教えてくれ」
キングタイガー三世はアトリとイスカと一緒にドーム内をあちこち調べ始めた。
そんな会話が近くでされていたのだが、フィオリエは熱心に考え込んでしまっていた。
(先ほどプライベートエリア設定に空間が切り替わったようですし、何をたくらんでいるのかしら)
誰かに話しかけられた気がして顔を上げたとき、ヒノエの顔が心配するような、何かを恐れるような表情を浮かべているのが分った。
慌てて体裁を繕う。
「すみません、ぼーっとしてしまいましたわ」
気まずい沈黙が流れ、ヒノエが努めて明るい口調で
「フィオリエさんは、この箱庭のオープンベータからプレイしているのですか?」
突然妙なことを聞いてくる。
オープンベータと言うのは試用稼働期間の事だろうか。
「そう、ですねそのような時期から関わっていますわね。どうしてですか?」
妙に真面目な表情でヒノエが言うので、フィオリエもまともに応対してしまう。
とはいえ自分が運営側の人間だなどとは口には出来ない。いつか口にしても問題ない時期は来るだろうが、少なくとも今ではない。
「いえ、先程のアドバイスといい、アナタの念動の技術といい、妙にこなれていると言うか簡単にこなしてしまっているので気になりました」
「ふふ、そんなに大したものではありませんよ。ちょっと鍛えれば貴方にもできますわ」
ヒノエは何か言おうと口を開くが直ぐに真剣な顔になる。
妙な気配が地下から湧き上がってくる、それを感じ取ったのだろう。
「キンタさん、下から何か来ます」
ヒノエは声を上げる。
同時にフィオリエは苦い顔をする。
データにない個体コードがモニタに表示されている。
恐らくは廃案になった妖魔のデータをどこからか持ってきたのだろう。
データの概要を呼び出して目を通したフィオリエには、この場の誰もが今の状態で戦っても勝ち目が非常に薄い事が分った。
表示しっぱなしのモニターを横目で見つつ、専用回線を開きオーバを呼び出す。
だが、回線の向こう側から返事が返ってくる気配はない。
モニターには地下に巣食う魔物の上位種を示す記号が表示されていた。
(まだ中層以下は解放しない方針なのに、馬鹿な真似を……)
彼女の目にするモニターにはあと数メートルに迫っている。
出てくるものによるが今からだと下手に逃げればかえって危ないだろう。
彼らも戦うつもりらしい、それぞれが配置についている。
(今の彼らには飛び道具への対処は荷が勝ちすぎていますのに)
戦闘意欲を見せる彼らを見つつ顔を歪める。
地面が歪み、周囲の物質を取り込んで妖魔が肉体を構成し始める。
妖魔が完全に顕現したと同時に、体表を覆っていた物質が衝撃波と共に剥離し周囲に広がる。
一瞬で前衛に立っていた三人を行動不能にまで打ちのめしたのだ。
唯一無事だったヒノエは目の前の光景に頭が追いつかないのか呆然としている。
明らかにやりすぎ、彼らの実力を無視した采配。
フィオリエは怒りにまかせてオーバの名を叫んでいた。
先ほどまで静かだった回線の向こうから小さな悲鳴が聞こえる。
「どうせ聞いているのでしょう、あなたの考えは分りました。こちらも全力でお相手いたします」
「先輩、その、これはそんなつもりじゃなくて……。だって、えっと、このファイルのデータは……」
直ぐに頼りなさげな声で言い訳が始まる。
そんなものは無視だ、とフィオリエは無傷だったヒノエに素早く指示を出す。
それから、目の前で身動きの取れないイスカに止めをさそうとする上位種の間に割って入り、巨人の拳をいなす。
拳を受け止めた感じからすると、成程比較的弱い個体らしい、とフィオリエは感じていた。オーバはこの程度なら、と選択に主観を交えてしまったのだろう。
だからと言ってこの後の説教に手心を加えるつもりはない。
「そうそう、今のうちにトイレ済ませてきてくださいませ。目の前で失禁されても迷惑ですもの」
回線の向こうから息を飲む音、続いて荒い呼吸が聞こえてきた。
フィオリエは少し溜飲が下がった気がして、思考が冷静になり始めた。
そういえば、今回の戦闘は詳細な記録を取っているはずだ、と。
(私が上位種を倒してしまえば記録に残ってしまいますわね)
止めをさそうとしていた手をとめ、巨人を床に叩き付ける。
魔物との許可なき戦闘行為は規約違反となっているのだ。
規約違反といっても罰則自体は大した問題ではない、それをフィオリエは知っている。
だが、そうするとオーバに対して言い訳する口実を増やしてしまう。
(きっと私が倒した時点で、記録を盾に説教から逃れようとするに決まっていますわ。とすると、一番良いのはあの青年、ヒノエに片を付けさせること。感応系索敵に特化した成長をしていてくれて助かりましたわ)
横目でヒノエが二人目を壁際に運んでいるのを確認する。
(それに、この上位種、火力はかなりのものですけれどそれ以外は並、対装具への抵抗値はかなり脆弱。既に駒は揃っていた、という事ですわね。オーバもこのデータから判断したようですが……やり過ぎには変わりありませんわね)
三人目、キングタイガー三世の応急手当が完了するのを確認すると巨人の腕を後ろ手に極めてヒノエを呼ぶ準備を始める。
(ここからはちょっとした賭けになりますけれど、彼ならきっと大丈夫でしょう)
フィオリエは冷めた目つきで膝をつく上位種の背中を眺めるのだった。
1
「またアイツを泣かせたらしいな」
野太い声が会議室に響く。
大理石の構成データを壁材に使用しているせいだ。
胸に幾つもの勲章を輝かせた軍服姿の中年男が苦々しい顔をしている。
「まだ二度目ですわ。あのような若者には良い薬になりますのよ」
銀髪紅眼の少女、フィオリエは扇で歪めた口元を隠した。
「能力的には問題ないだろう。おだてて使ってやればいい」
「大佐、あの子は十回叱って一回褒めれば十分なのですわ」
「だがな、フィオリエ殿。君の悪い影響も受けている事を自覚して言うべきだぞ」
大佐と呼ばれた男は深いため息をつく。
「そこまで責任は取れませんわ。それよりも、今回の調査分、ソシルに渡しておきましたから。お話はもう結構でしょう?」
フィオリエは恭しくお辞儀をしてその場を離れようとする。
「いや、あるぞ。分かっていると思うが特定の個人への肩入れは禁止行為だぞ」
「あれを肩入れだなんて、あの場合は当然の選択ですわ」
大佐は深々と、二度目のため息をついた。
「そういうところがだな……」
会議室の扉が開く音に邪魔をされる。
入り口からぞろぞろと人が入ってくる。
何人かは先に室内にいた二人を見て、またか、と困った顔をする。
「あら、もう時間ですのね。残念ですがお話はまた今度にしましょう」
大佐は、勝手に話を打ち切ってさっさと自分の席へと行ってしまうフィオリエを苦々しく見送るのだった。
「ゴルト大佐、そろそろ時間ですぞ」
最後に入ってきた白髪、白衣の老爺が横から声を掛ける。
「わかっている。全く、あのはねっかえりめ、いい年こいて全く」
「まぁ、そう言われますな。あれは昔からそうでしたからな」
昔を思い出す様に老爺は言うと壇上席の脇に置かれた椅子へと向う。
大佐、ゴルト大佐は疲れたような表情でゆっくりとした足取りで檀上へと立つのだった。
「それでは、第十回、極東サーバー運営会議を始める。最初にフューリー殿から現在のプレイヤーの行動傾向を……」
そうして会議は始まった。
この会議の場に出揃った人数は二十名。
これが日本におけるサービスの全てを行っているチームの全てだった。
丁度会議が行われているのと同時刻、西区の出張所の裏手にある小さな公園のベンチにイスカは腰を下ろしていた。
膝の上には図書館から持ち出した分厚い古書だ。
革の装丁がされていて、どことなく値打ち物の様に見える。
実際にそのデータの大本となった本に付けられた価値は高級車一台分と等価なのだが、イスカがそれを知ることは無かった。
表紙のタイトルは『狙った獲物は逃さない オルカ・ファナの心の遠近法』とあった。
作者らしいオルカ・ファナという名前に心当たりは無かったが、きっとゲームの設定にありがちな架空の人物だろうと勝手に納得して表紙に手をかけた。
「あれ、イスカ。こんなとこで何してんの」
不意に掛けられた声に手を止め顔を上げればすぐそこにアトリが居た。
手ぶらで居るところを見るに散歩でもしていたのだろう。
「これ、天気いいし外で読もうかと思ってさ」
膝に乗せた本を掲げて見せる。
「随分立派な本だね。どうしたのこれ」
アトリはイスカの隣に腰を下ろしつつ本の表紙を覗き込んだ。
「図書館から借りてきた。感応技術の指南書らしい」
らしい、というのは未だ本を一文だって読んでいないからだ。
「へぇ、私も一緒に読んでもいい? ちょっと興味あるかも」
「別にいいけど、俺本読むの遅いぞ?」
イスカは本の表紙に手をかける。
まず、本の序文に書かれていたのは親類や本の出版に関わった人物への謝辞だった。
それから目次があり、どうやらこの本が感応技能の高度な応用技能を記した本だと言う事が分った。
だが、イスカはこの本を読むのに必要な『古代語』の護符を使い込んでいなかったので細かな意味は字面からは読み取れなかった。
「うーん、いまいち内容が分からん。ソレがあなたを罵倒したがるとき、あなたの声が乗っかった波で覆います? エキサイトの方がもっとまともな翻訳してくれるぞ」
イスカは苛ついた様子でページをめくっていく。
隣で覗き込んでいたアトリはイスカよりも早い時期に『古代語』の護符を使い始めていたせいか、イスカよりも内容が読み取れていた。
先程イスカが呼んだ部分も前後の意味を加味すれば「恋人と口論になった時、親愛の情が湧くように感応波に乗せて話しかければ事態をコントロールすることが可能です」と言った内容になってくる。
どうやらこの本は恋愛を上手くする為の指南書のようなものらしかった。
「えっと、イスカさぁ、これ実践するの?」
どう考えてもイスカには必要ないだろうし、現実世界の彼女の事を思えば尚更だった。
「まぁ、一回くらいは試すよ。キンタ辺りには犠牲になってもらうかな」
が、返ってきた答えはアトリの予想を裏切った。
「そ、そうなんだ。へー」
(あれ、確かイスカは確かリアルじゃ男の人で、キンタとは友達で……、って事はイスカはそうなんだ)
アトリは途端に頬が熱くなってくるのを感じていた。
確か友人でそういう物語を好んで読んでいるのが居た。
冥府魔道がどうのと口にしていた事を思い出す。
「お、これなんか使えそうじゃないか?」
ぱらぱらと適当に捲ったページの先に会った記述を指さして。
そこに記されていたのは
「えーと、アナタの手でそれを刺激したと同時に次の事をすることで何倍もの気持ちが良い成果が増幅します。んー……直接効果が得られる技能なら直ぐにでも試せそうだ」
イスカは声に出して読んで見せる。
傍から聞いていたアトリは、文面から正しい意味を理解してしまう。
「ちょ、ちょっとイスカ、不味いって」
アトリは顔を真っ赤にしてイスカから本を取り上げる。
「おわ、何すんだ。つか、すげー顔真っ赤だけど大丈夫か?」
取り戻した本を膝の上に置きつつ心配そうな顔をしてアトリを覗き込む。
「そ、そんなことないよ。……ねぇ、イスカってキンタの事好きなんだね」
動揺を隠す為、苦し紛れに口にした言葉はイスカの不況を買ってしまったらしい。
イスカは苦い顔をしてアトリを見る。
「俺達の事、どう見たらそういう解釈が出来るんだよ」
「え? キンタに試すんだよね」
「え?」
二人の間に沈黙が流れる。
(どうして技術書の内容を試すことが、キンタを好きって解釈に繋がるんだ?)
イスカは首をかしげる。
(あれ、もしかして内容を理解してない?)
アトリは何となく納得した気になる。
「この本、恋愛とその、セ……えっと、男女の秘め事に関しての指南書だよね」
言葉を選びつつアトリは言う。その間も顔が熱くなっていくのを感じる。
「ふぁ!?」
イスカは奇声を発したかと思うと徐々に顔を染めていく。
「違う。違うぞ、その、これは、そのちょっとした好奇心があって」
混乱して勢いで口から出た言葉に更に茹で上がる。
「わ、分ってるから落ち着いて」
さすがに意味を理解していないとあってはこれまでの事も納得いくと言うものだ。
「本当に違うからな。別に俺はそういう目的じゃなくて」
「うん、うん。分ってるってば」
イスカは真っ赤になった顔を手で仰ぎながら言って俯いた。
先ほど目に入った文面にはより詳細な実践方法が書かれていて、それを思い出してつい想像してしまったのだ。
気まずい沈黙。
「そうだ、アトリは彼女とか居ないのかよ。こういうの覚えて試すとかさ」
苦し紛れに切り出すが、そもそも話題の選択としては間違いだろう。
「彼女? 試すって、私が?」
再び顔を赤くする。
「いや、アトリがするわけじゃなくてしてもらうとかさ」
「してもらうって、よしてよ。私にその気はないよ」
あはは、と笑って言う。
「その気って普通そうだろう? アトリ、まさかそっちの趣味?」
イスカは若干引き気味でアトリを見る。
アトリは何の事だか分からない様子で首をかしげるている。
「待てよ、待て待て。何かおかしいな。もしかしてアトリってリアルでも女か?」
ヒノエからは三十代のネカマと聞いていたが、今の会話を考えるに男とするには反応がおかしい。
「え、ソンナコトナイヨー」とイスカの表情を伺い「なんてね、そうだよ」と悪戯っぽく笑う。
どうしてわかったのかとか、そんな事を聞く気は無かった。
ただ、これまで野良に行くたびにナンパにあったりリアルの事を突っ込んで聞かれたりで嫌気がさして自分を偽っていたのだと語る。
「ヒノエには黙っててね。ずっと騙してて言えた義理じゃないかもしれないけど、自分から言って謝りたいんだ」
「そっか、ふーん。この本、アトリにこそ必要なんじゃないかな」
イスカはニヤニヤ笑いながら本を押し付ける。
「よしてよ。ヒノエだったらきっとそうなんだ、で終わるよきっと」
アトリは苦笑してヒノエと出会った当時を思い出した。
野良PTで出会い、自己紹介をして自分がネカマだと冗談気味に言った時、若干引く者も居れば笑う者も居た。そんな中、ヒノエは「そうなんですか」と興味ないようだった。
それでも、紹介する前と変わらず話をしてくれるし、笑ったりもしなかった。距離を置かれていたと言えばそれだけなのだが、それでもこんな人もいるんだと印象深かった。
それからPTで討伐をこなすとき、ヒノエは余り楽しそうじゃなかったのも印象深かったことの一つだ。最初は臆病なのかと思ったけどそうじゃなかった。必要な時は切り込んでいくし、戦闘技術も低いわけではない。
それでもどこか楽しんでいない苦しそうな横顔が脳裏に焼き付いて離れなかった。
ある時、開発局でヒノエが装具の開発をしている所に出くわした。真剣な面持ちで素材を研磨している姿、部品の一つが完成したときの満足げな顔を見て、この青年にもこういう顔をする時があるんだ、と何だかうれしくなったのだ。
それから、出会うたびに話しかけ、気が付いたら結構二人で行動することが増えた。
その後イスカとキンタと出会い、そして今がある。
「そっか、それもそうだな」
イスカは笑って同意するのだった。
余談だが、『狙った獲物は逃がさない』が開かれた時、盗聴システムが作動するように仕組んでいたフィオリエは、会議の最中、二人の会話を盗み聞きしていて笑いをこらえるのに必死だったとか。